自分の主題にかかわる場所でだけ、先行研究を網羅するようなやり方は、ほんとうに先行研究を読むことではないんだ。そういうやり方は、自分の研究を粗探しに終始するような浅いものにしてしまう。若い時は、土台づくりだと思って、ときには主題から離れてでも深掘りする勇気が必要だね。
— 田中希生 (@kio_tanaka) 2019年6月30日
たとえば石母田正の研究を読むとして、たいてい、彼の研究の背景にマルクス主義を見出したところで止まる。だがそこからマルクスを読み、弁証法を学ぶためにヘーゲルを読み、有機体を学ぶためにカントを読み、とやっていたら、だいたいデカルトくらいまでは遡る。学者ならそれくらいすべきだね。
— 田中希生 (@kio_tanaka) 2019年6月30日
思うのだが、ほんと仏教学やってるかたはパーニニとか、インド文学やっといた方がいいよ。ヴェーダは私はテキストなんて全く読めなかったが、演習に出ることによってテキストってこんな風に読むものなんだとかなり勉強になった。関係ない分野やと思わんことです。>RT
— 上野 康弘 (@hakai_namagusa) 2019年6月30日
特に初期仏典を専門的にやろうとする人は,それ以前のヴェーダ文献を読む訓練は絶対に受けたほうがいいと思いますね.私はそういう世界から転落してしまってジャイナの隘路で迷っておりますが…
— ????????? (@suhamma) 2019年6月30日
とまあ、なんというか、えらい細い道を歩んでいく王道学者のひとたちのツィートを見るとああかくあるべしと思いを深くするとか。
あとまあ、こういう連中でないと学者はできんわなあ、とも。
ああ、うちに勉強に来ていたおっちゃんは、自分の主題に関わる場所ですら読もうとしなかったし―隣接テーマなど手を出しもしなかった―と思い出したり。
そういう意味では才能がなかったと評するべきなのだろうなあ。この点、とみさわ先生の言葉が染みる。
才能って、上手い下手じゃないんだよね。その道を進むことに、飽きるか、飽きないか。それだけだと思うなあ。ぼくは絵を描くことに飽きてしまった。だからぼくには絵の才能はないんだよね。幸い、文章を書くことだけはまだ飽きずに続けていられます。
— とみさわ昭仁 (@hitoqui_ponko) 2019年6月12日
出自の話。
手塚治虫が当時の同時代or同世代のマンガ描きとしてどれだけ「異質」で「例外的な特権階級」な出自背景だったかってことは、もっともっと最前提として認識しとかんとあかんこっちゃとおもうの(´・ω・`) #いまさらなことを敢えて言う
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2019年5月29日
たとえばあのサイバラだのねこじるだの(その他何でも)そういうヨゴレ出自(とりまほめとる)の♀漫画描きってのはどのへんからちらほら表沙汰になり始めたのか、という、な。
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2019年5月29日
学者だって同様ではあるからなあ。
わりとみなさん、貧乏育ちを主張なさるが、実家は町長やったとか、お屋敷であって親が早死にしたので若くして一族総出の葬儀を仕切らざるを得なくなってとか。
…さらっと聞かされるんですよね。ガチ庶民―まあ小地主出自の5男坊だか6男坊だかで、徴兵されたついでに軍学校に入って機関科少尉になりあがってポツダム中尉の祖父が初代、というと、「ふん、ちぃっとはよござんすなあ」と言われる気は十分にするが―出自のこちらとしては、まあ…。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます