種の起源とか沈黙の春とか読んでいる人を見ると、資料的価値はあるだろうが今や科学的には誤りだとわかる部分がある物を読む意義ってあるのだろうかと思う。科学史やってるならともかく。 https://t.co/fAsMMq80KC
— ほうがくともどき (@student_lawjpn) 2017年12月12日
そりゃ、DDTの危険性を『沈黙の春』によって学ぶとかは「ないわー」の一言。あれはしかし、「資料的価値」「科学史やってるならともかく」が既に示唆するように、科学論文として読むべきものではなく(そもそも科学論文それ自体ではあるまい)、社会に対する環境学へ向けての啓蒙の書の、そのはしりとしての、古典として読むものだろう。
実際のところ、文学として美しかったりするところがあり、レイチェル・カーソンの自然への愛情を追想するにも良い。但しこの面を追う場合は、日本語なら他の本を選ぶべき。
といおうか、そもそもが科学論文ではないエッセイよりの著作であり、それを科学者的でないだとかいうのは当を得ていない。
今日では当然とされていることが当然でなかったり全く別の文脈で語られていたりする、そういう世界に触れるのが古典なのだと思います。パラダイムの変革をもたらすような発想を得るには、有益なことがある。だが、古典に立ち返ることなくパラダイム変革がなされる分野では、必要ないのかもしれない。 https://t.co/zV3Fs4Lolc
— 玉井克哉(Katsuya TAMAI) (@tamai1961) 2017年12月12日
恐らく、『沈黙の春』を読むべき理由・必要の多くは、環境学・環境運動への影響の点にある。特殊日本的状況でいえば、例の訳本の事由闊達さによって、どれほどの害悪がなされたか―などと。あれは社会的意義の点でこそ読むべき価値がある。実際的作戦のよりどころとしての価値は低い。
…あれねえ、ほんとに翻訳、新しいのをすべきだとおもうよ…。
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