空野雑報

ソマリア中心のアフリカニュース翻訳・紹介がメイン(だった)。南アジア関係ニュースも時折。なお青字は引用。

研究大学か、教育の大学か―という話のメモ

2022-01-29 13:13:00 | ノート
 メモの発掘。



 表向きの看板として維持するかどうか―という論点もあるかなあ。
 我が本務校の場合、研究促進、という看板は維持しているんだ。内部に向かってもそのように言う。が、してほしい研究とどうでもいい研究と、そういった空気はどうもある。学校の種類を考えてくれ、と言われたら、まあその通りだが。



 このパワポの文言は、「本学は、あくまで教育に特化する 高度な研究機関として評価される大学は目指さない」などというもの。そりゃまあ、それはそれで一定の見識ではあり、「地方水準で大規模」くらいの規模で旧帝大とがっぷり四つに―とは、そりゃあ無理だろう、とは…うん…。しかし「教育に特化」と言っても、どういう教育かと問い直すのも研究の一種であるはずで。

 ということで「カリキュラム運営上、目指すべき教育の向上につながる研究活動を奨励する」という言葉の内容が問われる。その「目指すべき教育」とはなにか。上層部から事細かに指示するのでなければ(そしてそれをしようと言うなら、上層部自体があまりにも大規模化しすぎる)、それはすでに教育研究なのだ。

 …「従来の日本の大学に見られる典型的な「研究者教員」を望む人は、今後、本学とのマッチングはない」ともあるが、まあ…そんな典型的とされる研究者教員なるもの、そう典型的といえるほど存在しただろうか、とも…まあ…。

 …私だってそぅではないはずだものな。博士論文から専門を変えること、既に三度。本務校教員(異分野)との連携は複数。かつ教育研究論文も展開を始めた。これで典型的な研究者教員と言われたら、たまったものではない―とは言いたい。まあ、主観的な判断ではあるが。





「自分が研究する権利だけを言い立てて教育も学務もなにもしないようなヤツ」を排除したいという気持ちはわかるのだが、①そういうのの残存は、あったとしてもじきにおおむね消滅する、②専門研究論文でさえ書けてないと、そのうち大学としての資格に疑義が付く恐れがある、という問題が。

 教育だけして、まあ教育論文は書くかもしれないが、と言う程度では、そのうち設置基準を満たさなくなりかねない。ということで、この理事長さんの方針は、今はまだ存在している研究できる教員たちの努力におんぶにだっこ状態の、旧来の資産にただ乗りする方向のものと評価されよう。



 そうした復習をさせるなら高校の先生(出身の先生)を呼べばよい。
 ところで普通の博士さんというのは、中高の教員免許を必ずしも持っておらず、自分の専門外については能力の保証がない。

 私は専門領域の関係上、出身学部の、ざっと5~6研究室分を、学部一般教養レベルまでであればなんとかこなすという格好になっているけど…それも自分の研究が一応土台になっているわけでねえ…。



 下手するとひとり学部状態なのである…。





 …「社会科なんてなくていいだろ」と言い放つ向きがですね…しっかと存するようでしてね…(本格的な)教育研究を志すのも、参照するのも、全く徒労となるのが目に見えておりまして…。…上層部のご希望で担当科目が突如決定されるということもですね…。
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