空野雑報

ソマリア中心のアフリカニュース翻訳・紹介がメイン(だった)。南アジア関係ニュースも時折。なお青字は引用。

若い女性を盾にした抗議行動の是非

2019-08-31 12:30:26 | ノート
 大昔―学生運動時代か―の抗議行動と警察の対応について




 という見方があり、一定の同意を得られるだろう。
 だけれど、抗議行動・座り込みだとか、それは対抗側との一定の(暗黙のをふくむ)合意に基づく行為であり、ある種の非言語的な会話であり、そう考えると…歴史上の例を参照したりしたくなる。

 例えば「マハトマ」ガンジーならどうだろう。非暴力だといって断食行をやったりした。それが英国政府に通用したのは相手が(お行儀の良い)英国政府だからである、だからガンジーには覚悟が無い、とかいうのはかなーり難だろう。

 いやほら、スターリン時代のソ連とかだと、なんというか、その…な対応になるかもしれないし、ナチス時代のドイツなら霧の深い夜が危ないよねーとか。

 ポルポト時代のカンボジアなら断食行なんかわざわざしなくても反抗勢力根こそぎ餓死できるぜ!とかになりそうだし、李承晩指導時の韓国だったら塩の行進が死の行進になるだけだぜ!とか(いやさすがに戦時だが)、でなければ白骨団の素晴らしい飛び蹴りで吹っ飛ばされるか愛国機動団による「歓迎会」が開催されるとか…。

 …という対応を予定していなかったガンジーは覚悟未完了だったと、作文しようと思えばできちゃうので。
 当局との一定の共通認識を前提に、お互い境界線をおっかなびっくりにさぐるというのがこういうデモなり反政府行動なりの通常の姿かなあ、とも思われる。

 だがまあ、セクハラなんぞと言うかなーり新しい・物理的暴力の強度は非常に低いところまで降りてくると―



 という評価になっちゃうかな。
 この伝統芸じみた行動に後味の悪いものを感じるのは、あるいは指導者の不徹底・論理的矛盾に否定的評価がでるのは―



 この辺、ということになるだろう。女の子の体に同意なく触る権利を絶対的に否定しようと言う運動家であるはずが、ことの成り行き上、接触が不可避であるような現場にその護るべき女の子を動員するという矛盾。



 以前、国会を封鎖するのに女性議員(そこそこ高齢)を動員して、介入した警備に「セクハラよぉ!」とやらかしたことがあったので(のちに女性警備員を動員された)、そうした一連の政治勢力の一員としてなら年齢差別はない、ただその時々に応じてギャラリーにうけそうな言葉を選んでいるだけだ、とはいえる。

 が、ともかく、根本的には



 人間の道具化に反対せざるを得ない。そうして





 という評価になる。



 私は理論家属性が強いので、こういう評価に組することになる。



 金で買われるのがイヤだからイデオロギーに買われたんでしょう。何にどういう価値を見出すかはともかく、自分をできるだけ高く買わせたいというのはもっともな動機です。このまま頑張れば地方議員なり国会議員なりへの道さえ見えてくる可能性もないではないわけで、個人の戦略としてはまあまあでしょう。

 本来護るべきと位置づけられていたはずの女の子たちを組織に売り払って実現する立身出世と言うのも、人間としてどうかと思いますが。
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