芥川龍之介の河童屏風

写真では分かりにくいが屏風は2つ折りでその右側には
「橋の上ゆ胡瓜なぐれば水ひびきすなはち見ゆるかぶろのあたま」
と3行に分けて書いてある。さらに「お若さんの為に 我鬼酔筆」とある。(「我鬼」は芥川の俳号)芥川はこれを書いた翌年(1927年)に自死している。
1936年に吉井は長崎を訪れているが、「その時『お若さん』が経営していた『菊本』という旗亭に招かれ夜が更けるまでしみじみと眺めた。」と随筆「筑紫雑記」に書かれていた。さらに、
うつしよをはかなむ心起こりたり河童屏風を見てあるほどに
と吉井が歌にした思いも記してあった。以下はその抜き書きである。
「芥川龍之介君が丸山において酔筆を揮った『河童屏風』は近来大分有名になったが、この前に来た時には、遂に見る機会がなく、私は今、上の句は忘れたが『河童屏風は見ずてかへらむ』と云う歌を一首残しただけで崎陽を去ったが、今度はやっと思いが叶って、しみじみこの『河童屏風』を見ることができた。 ―中略― これは芥川君三十一歳の時の作ださうだが、絵も字もともに老熟していて、今では少し銀の字が黒ずんで来ているためにすべてがもの寂びて、『河童屏風』らしい鬼気さへ何処かに感じられる。 ―中略― 私はこれを見ているうちに、『点鬼簿』『玄鶴山房』などの晩年に近い作品に現はれている凄愴の気が、既にこの『河童屏風』にもまざまざと浮き出しているように感ぜられたが、それというのも芥川君の短い生涯を、傷む情に堪へなかったかも知れない。私が最後に芥川君に会ったのは、たしか改造社の祝ひが歌舞伎座に於て催された時のことで、廊下で出会うと芥川君は、しげしげと私の貌を見つめていたが、やがてまるで磋歎するように、『君は健康で羨ましいなあ』と云ったと思ふと、そのまま向ふへ往ってしまった。その時の傷ましい声は、今猶私の耳の底に残っている。兎に角私は『河童屏風』を見て、今更ながら一代の才人であった亡友が、自ら死を早めたことを惜しまないではいられなかった。」

写真では分かりにくいが屏風は2つ折りでその右側には
「橋の上ゆ胡瓜なぐれば水ひびきすなはち見ゆるかぶろのあたま」
と3行に分けて書いてある。さらに「お若さんの為に 我鬼酔筆」とある。(「我鬼」は芥川の俳号)芥川はこれを書いた翌年(1927年)に自死している。
1936年に吉井は長崎を訪れているが、「その時『お若さん』が経営していた『菊本』という旗亭に招かれ夜が更けるまでしみじみと眺めた。」と随筆「筑紫雑記」に書かれていた。さらに、
うつしよをはかなむ心起こりたり河童屏風を見てあるほどに
と吉井が歌にした思いも記してあった。以下はその抜き書きである。
「芥川龍之介君が丸山において酔筆を揮った『河童屏風』は近来大分有名になったが、この前に来た時には、遂に見る機会がなく、私は今、上の句は忘れたが『河童屏風は見ずてかへらむ』と云う歌を一首残しただけで崎陽を去ったが、今度はやっと思いが叶って、しみじみこの『河童屏風』を見ることができた。 ―中略― これは芥川君三十一歳の時の作ださうだが、絵も字もともに老熟していて、今では少し銀の字が黒ずんで来ているためにすべてがもの寂びて、『河童屏風』らしい鬼気さへ何処かに感じられる。 ―中略― 私はこれを見ているうちに、『点鬼簿』『玄鶴山房』などの晩年に近い作品に現はれている凄愴の気が、既にこの『河童屏風』にもまざまざと浮き出しているように感ぜられたが、それというのも芥川君の短い生涯を、傷む情に堪へなかったかも知れない。私が最後に芥川君に会ったのは、たしか改造社の祝ひが歌舞伎座に於て催された時のことで、廊下で出会うと芥川君は、しげしげと私の貌を見つめていたが、やがてまるで磋歎するように、『君は健康で羨ましいなあ』と云ったと思ふと、そのまま向ふへ往ってしまった。その時の傷ましい声は、今猶私の耳の底に残っている。兎に角私は『河童屏風』を見て、今更ながら一代の才人であった亡友が、自ら死を早めたことを惜しまないではいられなかった。」
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