TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

本島氏の思想

2015年01月25日 | 南に遠く(不知火尞)
 一昨年、旧制佐高の代表的な寮歌「南に遠く」について佐賀大学の図書館で調べていたとき、元長崎市長の本島等氏の原稿を偶然見つけました。1982年の「不知火」に、次の原稿を寄せてくださっていました。
 本島氏は長崎県の五島の出身で、旧制佐高在学中に徴兵され軍隊に入られました。戦後、京都大学を卒業後され、教員、県議を経て長崎市長になられた方です。



原文は以下の通りです。

長 崎
                    理一  本島 等

 長崎は桜が去って、つつじの頃になった。
 昭和十九年三月桜の下で佐高生活に別れをつげ、久留米五十一部隊に入隊、後熊本の西部軍管区教育隊に転じて、見習士官になったが、八月九日長崎に原爆投下、入隊の時、見送ってくれた多くの友人を失った。教育隊を卒業して、その儘残されて、後から来た特別甲種幹部候補生の教育にあたった。想えば変転きわまりない時代であった。
 戦争を知らない者、原爆を知らない者が多くなり、平和に対する無関心がまだまだ支配的だと思う。
 今、長崎は長い栄光の歴史と原爆による悲劇の町、私も毎日雑事に追われている。皆様の御健康を心からお祈りしたい。(理一 溝口宛)


 1982年といえば不知火寮閉寮の年ですが、本島氏はその時にはすでに、長崎市長に就任されていました。そしてその6年後、市議会での「私が実際に軍隊生活を行い、軍隊教育に関係した面から天皇の戦争責任はあると私は思います」の答弁が議論を呼び、それに反発する右翼団体幹部から襲撃されるという痛ましい事件が起こりました。1990年1月18日のことでした。

 凶弾は胸を貫通し重傷を負われた本島氏は、病院での記者会見で「言論の自由を暴力で封じる行為をどう思うか」の質問に、「たとえ相手に心臓をえぐられるようなこと、悶絶して死ぬようなことを言われても、なおかつ相手の立場を尊重するというところにまで至ってこそ、初めて本物の言論の自由だと思う」と答えられています。(「本島等の思想」より)


 言論の自由、表現の自由、思想信条の自由…、長きにわたって人類が築き上げてきた叡智が、崩れ去るような出来事が続いている中、あのとき見た本島氏の原稿のことと、氏の高邁な思想が思い出されました。

コメント    この記事についてブログを書く
« 大きなクスノキ | トップ | 梅一輪… »

コメントを投稿

南に遠く(不知火尞)」カテゴリの最新記事