車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

島田宿大井川:川越遺跡 in 静岡県島田市河原

2019年01月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

有名な馬子唄の一節「 箱根八里は馬でも越すが ~ 越すに越されぬ大井川 」。江戸時代初期の慶長六年(1601)、幕府は宿場の制を定め、東海道に五十三次の宿場を置きました。 大井川を目の前にした島田宿は五十三次二十三番目の宿場。寛永十年(1633)に本陣がおかれたのが最初とされています。

江戸時代初期においては、大井川を歩いて渡る徒渉(としょう)は比較的自由であったと言います。しかし幕府の体制が整うにつれ、江戸の防衛重視の為に、自由な徒渉は禁止されてゆきました。

大井川を越える手段は、幕府が公認した馬や人足を利用した川越のみ。大井川の渡しは島田宿と対岸の金屋宿を結ぶ唯一の手段で、まさに交通の要となったのです。

金谷宿川越遺跡跡

架橋はおろか、渡し船も厳禁とされた大井川。その制度は大名・庶民を問わずに適用。 このため、大井川は東海道屈指の難所とされ「~越すに越されぬ大井川」と歌われたのです。当時の幕府にとって、大井川の架橋は決して難しくはなく、また渡し舟の手段も容易に手配できました。しかし大井川をこれほどまでの難所にしてでも、江戸の防衛は重要だったのです。

まずは川越えを管理するための「川会所」が大井川河畔 ・三軒家に建てられ、それによって川越制度を確立します。 元禄九年(1696)には川越賃銭を定め、両橋詰に1人づつ、2人の川庄屋が任命されました。

【川庄屋のもとに年行事・小頭・口取・待川越等の役のものをおいて、日々川の深浅による徒渉賃銭の取りきめや、公家や大名をはじめ各種公用人から庶民に至るまでの通行人渡河順序の割振り諸荷物等の徒渉配分などの円滑な運営がはかられた。】(大井川渡しの歴史より)  川の深浅による徒渉賃は川会所が決め、川越人足が勝手に渡し賃を要求する事は禁止されていました。

渡し賃は予め川会所で川札、または蓮台に載る場合は台札を購入し、料金を払うのが原則。 人足一人を雇うのに1枚の川札が必要で、それ以外に荷物を運ぶ場合は別の人足が必要となります。また蓮台と人は別払いで、一人乗り平蓮台の場合は担ぎ手4人で川札4枚の台札が必要となります。

金谷宿川越し場跡「大井川蓮台越えの図」に描かれている蓮台渡しは、おそらく上の「半高覧蓮台」だと思われます。 前後・左右それぞれに2人の担ぎ手が描かれていますから、川札は八枚が必要ということになります。

「大高覧蓮台」は大名や貴人を駕籠(かご)のまま乗せるもので、担ぎ手は2~30人を要します。 

庶民にとってはそれでも高額であった「平蓮台」が、板に2本の担い棒をつけただけである事を思えば、まさに天地の差。

時代とともに東海道の交通量が増加すると、川庄屋は4名に増やされ川人足の数も増えていきます。 川の両岸にそれぞれ350人と定められた川人足は、幕末には約650人に増えていきました。

おや・・ご亭主殿、その立派な体格(笑)を見込まれたのか、スカウトされたようです。でも、こればっかりはどんなに好待遇を持ちかけられても、この私が承諾しませんからね( ̄^ ̄) 

大井川の徒渉による川越は、明治時代に入って架橋が許され各所に橋が架けられるまで続きました。 そうした橋の中でも特に著名なのが明治12年(1879)に架橋された「蓬莱橋」です。

島田市河原一丁目の地には「島田宿大井川川越遺跡」として復元された町並みが新たな観光名所として人気を集めています。

川越人足は一から十までの組に分けられ、川越人足の詰所でもあった各番宿にて待機していました。現在は三番宿、十番宿が公開されています。

「仲間の宿」は陸取りなどの詰所であり、会合や親睦の場としても利用されていたと言われており、内部は外見からは想像できない広さです。

一見すると商家の見世の間のような拵え。

現在は、復元された「権三わらじ(人足が履いた川越用のわらじ)」が展示されており、こうした技術が今も継承されている事に何故かしらホッとすると言ったら変ですか?

「海野光弘版画記念館」島田市HPによれば「昭和52年にはスイス美術賞展優秀賞を受賞するなど、版画家として第一線で活躍をしながら39歳の若さで急逝した『海野光弘』の作品を数多く収蔵、展示する記念館」と紹介されています。

「八重枠稲荷神社」境内案内に「昔ここは大井川の出し堤防があり、洪水の時には蛇籠に石を詰めて杭で固定し、これを幾重にも並べて激流から村を守りました。八重枠の名はここからきています。宝暦十年(1760)に川越衆の安全と事故の排除を祈願して建立されたといいます。しかし、ここの神社の祭日は二月の初午の日である事からも建立当時の目的は、川で亡くなった人々の供養が主だったかと想像されます。」

「島田大堤」現地看板には「天正の瀬変え以降島田宿の大井川沿いに築かれていた川除堤が慶長の大洪水で決壊し、建設間もない島田宿のすべてが押し流されました。その後大堤完成までの確かな記録は不明ですが~中略~正保元年までには完全な大堤が完成していた事と思われます。~中略~今は切れ切れとなって忘れられていますが、長い間島田宿及び下流の村々の生活を守って来た大変重要な大堤だったのです。」

ラストの画像は、街道の左右に設けられた「せぎ跡」。河原の石が積まれ、溝に板を挟んで堤防の役目をしました。この「せぎ跡」より西側は河原です。

2011年に訪ねた島田宿。駆け足で巡った宿場は昼間の明るさを少しずつ失い、もう私たち以外、人の姿も楽し気な笑い声も聞こえてきません。

大井川に沈んでゆく夕日が、早くお帰りなさいと急き立てます。

訪問日:2011年11月14日&2016年12月12日

 

コメント (2)
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