駿河国安倍郡府中、現在の静岡県静岡市葵区に残る「駿府(すんぷ)城跡」。別名「府中城・静岡城」。二代将軍に将軍職を譲った『徳川家康』は「大御所」となって駿府城の天下普請を行い、ここを拠点として天下の実権を掌握してきました。明治2年(1869) 江戸が東京に、駿府は静岡に改名。廃藩置県により、県知事『徳川家達』が東京に移って以降、城内の建物は全て破却。南側が県庁敷地、それ以外は茶畑に転用されました。明治24年(1891)に静岡市に敷地が払い下げられた後は「中央公園」として。昭和24年に再度大蔵省より敷地が払い下げられ、改めて「駿府公園」として整備されました。
「1989年には、市制100周年記念事業として、巽櫓が復元され、1996年には、東御門が復元。近年では、2012年4月に、その名称が駿府城公園に改められ、2014年4月には、坤櫓が復元されました。」駿府城公園の歴史より
「駿府城公園案内図」に従って園内の散策開始。最初の見所は公園の中央にある花壇の真ん中、緑の芝で作られた巨大な「葵紋」。 少し離れた場所から見おろすと、葉脈などが実に丁寧に植え込まれており、一見の価値あり。
明治29年(1896)の歩兵第34連隊の誘致に伴って埋められた「駿府城本丸堀跡」。説明によれば、幅23m〜30m、深さは5mもあったといわれ、発掘調査に基づいてその一部が復元されています。
本丸跡の中央に立つのは、鷹狩をする『徳川家康公』。大御所の貫禄は小憎らしいほど(笑)
銅像の向かいの柵内には「家康手植のミカン」があり、静岡県天然記念物に指定されています。 紀州より献上された鉢植えのミカンを植えたとあります。
2016年の時点で、家康最晩年に植えたとして、樹齢400年。日本最古のミカンが樹齢859年という記事を読んだ記憶があるので、まだやっと半分?(笑)
さて、そのお手植えミカンの近くには、【人の一生は重荷を・・・】ではじまる、かの有名な「東照公御遺訓」が建立。 ちなみに我が家のご亭主殿、この当時は「五箇条の御誓文」共々、そらで復唱できましたが、私は・・・多分半分しか復唱できないと思う。
【人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。】
【不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。】
【堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。】
【勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。】
【おのれを責めて人をせむるな。】
【及ばざるは過ぎたるよりまされり。】
こちらの図面は「駿府城 縄張図」を床に写したもの。とりあえず広大だったと言うのはわかりました(笑)
「二ノ丸水路」は、本丸堀と二の丸堀をむすぶ水路で、幅4.5m、長さは95mもあります。
何気なく見上げた「二ノ丸」の石垣。てっぺんの角っこから「何か」がこちらを見ているような・・。 まさかあんな所に石が転がってる(危険です!!)はずもないし・・と言うことでズーム。
目一杯ズームした結果、どうやら鳥を石か何かで作ったような、それとも修復の際のモルタル製? 特に近くに説明も何も無く、かといって石垣の上に上がって確かめるほどの根性も無く・・いまだ謎のまま(笑)
城址公園では、平成になって「巽櫓」や「東御門」などが復元され、資料館として公開されているとか。左手に見えるのは、2014年に復元された「二ノ丸坤櫓(ひつじさるやぐら)」。内部は三階構造で、復元に当たっては、「駿府御城惣指図」「駿府御城内外覚書」などを参考に、可能な限り忠実に復元作業が行なわれたとあります。一般公開されている一階からは、三階の梁まで見通すことができ、伝統的な工法によって復元された櫓の構造を見る事が出来ます。
さて駿府城址公園~其の二では、周辺で見かけた意外な発見、へぇ~~と興味をかき立てられた場所などを紹介して見ようと思います。
訪問日:2016年12月11日