日本橋から112里、中山道沿いに当時のままに現存する「垂井一里塚」。中山道の一里塚として国の史跡に指定されているのは二箇所のみで、ここ「垂井一里塚」はその一つ。傍らで翻る旗印は、関ヶ原の戦いの折、この地に陣を構えた東軍の武将『浅野幸長』のもの。
一里塚の隣に「日守の茶所」という、今は地蔵様が奉られた建物があります。もともとは、江戸の末期に「化月坊」が芭蕉ゆかりの地に建てた「秋風庵」という建物でしたが、明治になってこの地に移され、以後昭和の初めまで、中山道の休み処として盛んに利用されました。
「垂井」の地名の由来となったとされる「垂井の泉」。ここには今も清らかな水が湧き出しています。平安時代中期の歌人『藤原隆経』が、この泉を読んだとされる歌が良く知られています。
【 昔見し たる井の水は かはらねど うつれる影ぞ 年をへにける 】(昔見た垂井の水はちっとも変わっていないのに、泉に映る自分はずいぶん年老いてしまった)
左手の石段の手前には芭蕉句碑
【 葱(ねぶか)白く 洗ひたてたる 寒さかな 】(畑から抜いてきたばかりの葱を洗うと真っ白になった、それがなおさら寒さを思わせる)
中山道垂井宿、「本龍寺」の向かいに、国登録有形文化財の「小林家住宅主屋」。昭和初期まで亀谷の屋号で旅籠を営んでおり、黒漆喰塗の虫籠窓などが往時を彷彿とさせます。
間違って入り込んだような細い路地の奥に、紙屋の守護神「紙屋明神」を祀る小さな祠があります。古代の国府近くに位置したこの場所は「美濃紙発祥の地」とされ、「紙屋塚」と称されています。
垂井の玄関口でもある「垂井駅」北口駅前に、比較的新しく建立されたらしい『竹中半兵衛重治公』の銅像がありました。秀吉に仕え、彼を天下人へと押し上げ、戦国時代きっての軍師と謳われた『竹中半兵衛』。同じく秀吉に仕えたもう一人の軍師『黒田官兵衛』と共に、歴史好きの心を魅了し続けています。
訪問日:2018年10月9日