楠公史跡を訪ねてみよう・・そう思ったのは『楠木正成公』縁の地、河内長野市を尋ねた時です。ご当地マンホールを探してただ歩くだけよりも、きっと素敵な発見があるに違いない!幸い、さほど遠くない島本町には楠木正成・正行親子の今生の別れとなった「桜井駅跡」が史跡として残されているではないですか。

昔、母が子守唄代わりによく歌ってくれた「桜井の決別」。幼心にも胸に響いて懐かしく、長じても忘れることなく心に残った歌詞と旋律。今回はその歌になぞって・・
青葉が清々しく影を落とす桜井まで来た正成公は、木陰に駒を止めてしみじみと戦の先行きを憂います。この戦はおそらく負けるであろう・・だがそれでも突き進まねば、後醍醐天皇のご意志は踏みにじられてしまう。正成公はここまで付き従ってきた我が子:正行を呼び寄せて静かに告げます。「父はこのまま兵庫に赴き、おそらくは彼方の浦で果てるであろう。ここまで共に来たが、お前は母のもとに帰り時期を待て」と・・。父の言葉に驚き悲しみ、共に戦い死出の旅にもお供せんと縋る正行公。正成公は後醍醐天皇より賜った刀を正行公に形見にと授け「今は時期を待て、再び大君の為に戦う為にも早く生い立つのだ。ここからは今生の別れ。正行よ、母のもとに疾く帰れ」と諭すのです。

生きて再び相まみえる事はないであろう二人・・共に見送り見返り、降り来る五月雨の中に、やがてその姿は小さくなって互いの視界から消えてゆく。

陸軍大将『乃木希典』の揮毫による「楠公父子訣別之所」碑

『東郷平八郎』揮毫による『明治天皇』御製碑は昭和6年の建立。裏面には頼山陽の漢詩「過桜井駅址詩(さくらいえきあとをすぐ)」が彫られています。(リンク先に頼山陽の漢詩・全文掲載)
【 子わかれの 松のしづくに 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらゐのさと 」

「「旗立松」旗掛松・子別れ松とも呼ばれています。西国街道の端にある枝を広げた老松のもとに駒を止めて楠親子が決別をしたと伝えられています。明治30年に松は枯死し、一部を切り取って小屋に保存しました。」案内より


旧西国街道沿いに面して、明治九年に建立された「楠公訣児之處」碑。題字は大阪府権知事 渡辺昇。裏面には英国公使ハリー・S・パークスの英文が刻まれています。

「(訳文)西暦 1336年湊川の戦いに赴くに際しこの地で子正行と別れた「忠臣」楠木正成の誌義を一外国人としてたたえるものである。駐日英国公使ハリー・S・パークス1876年11月」案内より

石扉には『後醍醐天皇』より与えられた「菊水の紋」。笠置寺に臨幸した後醍醐天皇のお召しに馳せ参じた楠木正成公。天皇は傍らの菊花一房を手に取り静かに杯に浮かべ「菊は千年の後も香るという。忠義を尽くすお前の名が千年の後も香るように、この菊水の紋を旗につけるがよい」と申されたと・・歴史は伝えます。

「忠義貫乾坤(ちゅうぎけんこんをつらぬく)」碑
「明治27年、島本村内と一部近郷の有志約150名によって建てられました。当時は「楠公訣児之處」碑と並んで玉垣の中にありましたが昭和14年、桜井駅跡の拡張工事に伴い現在地に移されました。」案内より

楠公六百年祭記念碑(昭和十年五月十六日)

2008年訪問当時の手水鉢と「櫻井驛址」碑

2021年訪問時の手水鉢

櫻井之驛址にある台座に刻まれた文字「滅私奉公」は、『近衛文麿』の揮毫。

南北朝時代・戦国時代・江戸時代を通じて日本史上最大の軍事的天才との評価を一貫して受け、「三徳兼備」「多聞天王の化生(けしょう)」「日本開闢以来の名将」と称された「楠木正成公」。正成が忠誠を誓い、命を賭して最後まで仕えた「後鳥羽上皇」がこの地を詠んだ一首
【 見渡せば 山もとかすむ 水無瀬川 夕べは秋と なに思ひけむ 】

明日は正成公の生まれ故郷「千早赤阪村」の紹介です。
訪問日:2008年6月7日&2021年5月29日