大阪府千早赤阪村水分、建水分神社の境内に鎮座される「南木(なぎ)神社」。御祭神は『大楠公 (楠木正成:くすのきまさしげ)』。後村上天皇から「南木(なぎ)明神」の神号を賜わった最古の社です。
「元禄10年(1697)領主の石川総茂も正成公を尊崇し、元来、建水分神社本殿裏に祀られていた社殿が傾頽した為、現社地へ遷座再興した。しかしこの社殿も昭和9年の大風害(室戸台風)により老松が倒れて崩壊した。(御神体の大楠公尊像は総茂奉納の厨子に護られ無傷であった。) 現社殿は摂社としては破格の官幣社建築に準じて設計再造営され、昭和15年に竣功したものである。」公式HPより
拝殿は向拝の中央間を一段高くし 向唐破風屋根を付け、背面には唐破風屋根の幣殿が接続する特異な形式。2004年に檜皮葺の屋根を銅板葺に改めています。本殿は昭和13年~15年にかけて再建された一間社春日造の社殿ですが、木立に隠れて見ることは叶いません。
拝殿前より神域を守護されるのは、神殿狛犬を思わせる風貌の狛犬さん一対。鎮座される御祭神にとてもふさわしい容貌を備えた、端正な顔立ちです。
社殿向かって右前の由緒標は、陸軍大将・荒木貞夫男爵の筆によるもの。
少数の兵力で鎌倉幕府の大軍を迎え撃ち撃退した故事にちなんで作成された「除災招福の藁人形の土鈴」。河内赤阪城で挙兵した正成公は、城を包囲した幕府軍に対し、城兵の身代わりとして藁人形に甲冑を付けて敵をあざむき、突撃してきた敵に巨石や熱湯などを投げ落として撃退しました。また、藁人形へ矢を撃たせることで、それを集めて矢を補充し、敵に射返したとも伝えられています。
参拝日:2008年6月7日&2015年10月9日
千早赤阪村大字水分、千早赤阪郷土資料館の近くにある「楠公誕生地」。碑文字は幕末の三剣豪、桃井春蔵(桃井直正)の筆によるものです
『楠木正成』、幼名・多聞丸は永仁2年(1294)、現在の千早赤阪村水分山ノ井で誕生し、8~15才まで観心寺境内にある楠木家の菩提寺の「中院」で学問を習ったといわれています。武家から朝廷へと権力の移行を図った建武の新政の功労者ですが、天皇中心の政治に反旗を翻した足利尊氏に湊川の戦いで破れ、自害して果てました。
文禄年間(1592~1596)、豊臣秀吉の命で増田長盛がこの地を検地し、土壇を築き、小さな社を祀ったのが始まりとされ、明治8年には天皇への忠臣ということで、大久保利通の働きかけもあり、石碑が建立。大正6年には後の昭和天皇となられた皇太子殿下も行啓され、クスノキの植樹をされています。
楠公史跡の一つとされる「楠公産湯の井戸」碑
楠正成誕生の際、この井戸から湧き出る水で湯を沸かし産湯にしたと伝えられる「楠公産湯の井戸」。組まれた石垣の底からは今も水が湧き出ているのが見られます。
「千早赤阪郷土資料館」の中庭には、島本町の櫻井之驛にある「父子別れの像」の原型像があります。桜井で今生の別れをした父子が、こうして故郷で向かい合う姿は、命の通わぬ石像であっても胸を打たれます。
耳を澄ませば名も知らぬ鳥の声が聞こえ、近くの田からは蛙の鳴き声が聞こえる。穏やかで静かな時間が流れるこの山深い地に、遠い・・遠い昔、忠に殉じた父子がいました。
訪問日:2008年6月7日