養父市八鹿町伊佐に残る「甘棠亭(かんとうてい)」。「延宝4年(1676)3月3日、時の出石藩主『小出英安公』が伊佐の新田開発の視察に赴くことになり、藩主を迎える休憩所として建てられたのが甘棠亭です。」但馬の百科事典より
一重入母屋造で茅葺、内部は上段の間と下段に分けられており、藩主を迎える格式を持つ建物。向かって左隣に見えるのは築200年以上と言われる「小出家本宅」
甘棠亭が建てられた際、庭の一角に「九思の松」という黒松が植えられ、県の文化財にも指定され、長らくシンボルとなっていましたが、昭和52年に滅失。現在は石碑が建立されています。
甘棠亭の向かって右に建つのは「旧小出医院」。1918年(大正7)に『小出揚』によって完成。建設に際しては、地元大工『斉藤文次郎』を使わして、「東京帝国大学の付属病院」を実見させたと言う逸話が残されています。建物は木造平屋建、寄棟造、桟瓦葺きで、布基礎石積みの上に外壁は大津壁塗り。1998年まで現役で使用されていました。
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養父市八鹿町宿南、静かな山間の一画に残る「青谿(せいけい)書院」
文化10年(1813)に八鹿町宿南の農家に生まれた『池田草庵(そうあん)』は、10歳で母を、12歳で父を亡くします。広谷村の満福寺に入山して6年間修行を続け、その後18歳で寺を出て京都の相馬塾に入門。わずか1年足らずで塾頭になり、30歳にして帰郷、この地に私塾「青谿書院」を開塾しました。
建物は自宅兼塾舎を兼ねたもので、茅葺2階建の主屋に瓦葺の平屋が付属。
塾舎内の様子
陽明学を学ぶ学者であった草庵は、「慎独(しんどく)」という教えを説き、門人たちと寝食をともにして、弟子の教育に没頭。 明治11年に亡くなるまで、教えを慕って入門した門人の数は全国30ヵ所から673人にのぼり、日本の近代化を担った多くの人材を育成しました。
「青谿書院記」碑。明治11年(1878)に草庵が65歳で亡くなったとき、門人たちは先生の死を悼み、その2年後に「青谿書院記」の文章を石碑に刻み庭の端に建てました。石碑の文字は、明治時代の3大書家と言われる『長三州(ちょう さんしゅう)』の揮毫によります。
「青谿書院池田緝(しゅう)読書之處也(青谿書院は池田緝の読書する処なり)」で始まる碑。
「但馬聖人」と称された池田草案が開いた私塾「青谿書院」。江戸時代の私塾が現存するのは全国的に見ても珍しく貴重である事から、昭和45年に県史跡に指定されました。
訪問日:2014年11月21日