「赤間神宮」二日目は、境内・境外各所に建立された「碑」等々の紹介です。
竜宮門を模した水天門の下に「太閤石由来記」-「【 波の花 散にしあとをこととへは むかしなからに ぬるる袖かな 】 天正15年3月太閤秀吉は、安徳天皇廟前に先帝御影を拝して献詠。是より先大阪の築城に全国より礎石を集めしむ。即ち肥前国竜造寺隆信、弐百余の石を献ぜむと海峡に至るや関門の急潮に逡巡。日ならず、城既に成るを聞き是を海中に投じて去れりと。潮音星霜380歳、昭和42年12月運輸省第4港湾建設局是を引揚げ赤間神宮に献ぜらる~」
「赤間神宮」創建90周年と復興事業の完成を記念して建立された「赤間神宮復興之碑」-「昭和20年(1945)6月~7月の下関を襲った大空襲で赤間神宮の建物一切を失った。昭和22年(1948)、貴族院議員秋田三一が奉賛会を結成。昭和24年(1949)に本殿と祝詞殿が落成。昭和33年(1958)に水天門が完成。その後中部利三郎は龍宮会を結成、奉賛会と共に復興に尽力し、昭和40年(1965)にその完成を見た。」碑文より
水天門入口の右手に『山口誓子』句碑【 龍宮の 門南風を 奉る 】
宝物殿の裏に『西尾其桃』句碑【 神も跡 垂れて千歳に 月かなし 】
七盛塚入り口に『高浜虚子』句碑【 七盛の 墓包ミ降る 椎の露 】
碑ではありませんが、「石幢(せきとう)ー天正13年(1585)3月の銘があり山口県では最古の物。もと本陣伊藤邸にあったが昭和40年、社殿の完成に際し当主伊藤盛吉氏から赤間神宮に奉献された。」現地案内より
その近くに『木下友敬』句碑【 碑もぬれ わたしもぬれて 沖を見ている 】
手水舎近くに『土居南国城』句碑【 後夜(ごや)の月 よよと帝の 声きかゆ 】
平家塚近くに『桐山漁陽』句碑【 黄桜に 及ぼす神の 光かな 】
赤間神宮前の阿弥陀寺公園に建立された「安徳天皇を抱く二位の尼」像。台座には有名な平家物語の序文「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」が刻まれています。
海参道入り口に「海洋守護の碇」。碇を背に安徳帝に従って海中に没した平知盛の謂れをもとに、下関海洋少年団によって奉納されました。
「昭和三十三年四月七日 昭和天皇 香淳皇后両陛下此の神門の御通初め御参拝を賜はり赤間神宮並に安徳天皇阿弥陀寺陵に詣でてと題し給いて
【 みなそこに しつみたまひし遠つ祖を かなしとそ思ふ 書見るたひに 】
の御製一首をも下し賜ひし空前の行幸啓に輝く水天門是なり」(説明看板「水天門記」)
「赤間神宮水天門:壇ノ浦を望む境内正面の石垣上に南面して建つ竜宮造の楼門。入母屋造銅板葺に鴟尾を飾り、東西に回廊を延ばす。回廊:木造、銅板葺。二つは共に国土の歴史的景観に寄与するものとして、2018年に国登録有形文化財に指定。」
参拝日:2012年11月15日&2017年12月3日
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「後夜(ごや)」・・「六時(ろくじ)」の一つ。一夜を初夜・中夜・後夜に区分した最後のもの。夜半から早朝までをいい、およそ午前三時から五時までに当たる。-(学研全訳古語辞典より)
「 後夜の月 よよと帝の 声きかゆ 」
ご紹介頂いたどの句碑も、歴史の悲話を伝えています。映像でいただくから読みますが、自分一人で訪ねたらおそらく気付かずに通り過ぎたに違いありません。
これはもう、tononeko殿と貴方に感謝せずにおれない貴重な句碑です。ありがとうございます。
「後夜の月」の句は
読み下した後に目の前に浮かぶ
その情景を想像するのが
ひたすら悲しく
それでいて恐ろしくも感じました