2011年の豊岡市への車中泊では、狛犬目当てのご亭主殿の希望で、多くの神社参拝をしました。まるで豊岡市にはコウノトリと神社しか無いような印象ですが、そんな事はありません(笑)。たとえば日本一の「かばんの町」として知られる豊岡市、公用車にも豊岡杞柳細工の柳カゴがラッピングされています。
兵庫県北部(但馬国)をエリアとする全但バスも、ごらんの通り😆
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12月14日は忠臣蔵のクライマックス、 四十七士が吉良邸に討ち入りした日です。実はここ豊岡は、その忠臣蔵の立役者『大石内蔵助』の妻『理玖(りく)』の生誕地なのです。
但馬国豊岡藩京極家の家老『石束毎公』の長女として誕生し、赤穂藩浅野家の筆頭家老『大石良雄』と結婚。その後の主君の刃傷、藩の取り潰し、主君の仇討、本懐・そして全員の切腹。長男の『主税(ちから)』はまだ16歳の若さでした。理玖は残された遺児を育て上げた後、落飾し『香林院』と称し広島で没します。その彼女の遺髪塚が、豊岡市日撫(ひなど)の「正福寺」にあります。
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豊岡駅通商店街には、私の大好きな近代歴史的建築が残されています。ヨーロッパ風の建物は、1925年の北但大震災の2年後に旧豊岡町役場として、復興建築のシンボルとして建設。
その後、旧豊岡市役所本庁舎となり、2011年の新本庁舎建設に伴い、現在は「豊岡市議会議場」や「豊岡稽古堂」として使用されているそうです。
かつての銀行建築の面影を残す重厚なルネッサンス建築の建物は、旧兵庫県農工銀行豊岡支店として昭和9年(1934)に建設。「山陰合同銀行豊岡支店」を経て、2005年に豊岡市役所南庁舎別館として改造されました。
役目を終えた建物は、2014年4月に「豊岡1925」というお菓子を中心テーマとした複合施設となったそうです。
先述の建物と向かい合う位置にあり「中央街路(大開通り)の偉観」といわれた「旧豊岡郵便局」。昭和2年の建築で旧南庁舎として使われていましたが、新本庁舎竣工に伴って解体されたとか・・・利便性を考えるとやむを得ない事ですが、何とか残して欲しかったと今も思います。
これらの建物が有った大開通りの商店街、愛称は「サンストークアベニュー」と言います。疲れてふと腰を下ろしたベンチには「コウノトリ放鳥記念ベンチ」の文字。あれ・・やっぱりコウノトリに戻ってしまった😅
という事で「コウノトリ悠然と舞う豊岡市」でした。
訪問日:2011年3月30日
全く存じませんでした。
最近のランドセルなんかは海外製なんだろうけど、私が中高時代に使っていた学生カバンももしかしたら豊岡製だったのかな?
しかしこのラッピングバス、写真の写り方なのかもしれませんが、どう見ても囚人護送車に見えるんですが…
実はこれを見た時の主人も同じ事を申しておりました。
窓の部分がもう少し明るければそうでもないのでしょうが、人も乗っていなかったし、何といってもあのベルトの部分とか😅
でも「柳行李」の実演は、感動的でしたよ。
日本人の技術力って本当に凄い!