西宮市今津二葉町「今津小学校」の敷地に、木造下見板張り、寄棟造桟瓦葺2階建の洒落た洋風の建物があります。正門に南面して六角堂校舎が建ち、両翼に別棟の平屋建ての洋風校舎が配された建物が建てられたのは明治15年(1882)の事。
今津小学校の独立学舎として建てられた洋風の近代的な建物。建設費は、当時の今津・津門村の1年間の予算と同額の8000円。その内5200円は村民有志326名の寄付金により賄われ、地域をあげての大事業であったといいます。校舎を洋風建築で建てたのは、明治10年(1877)に布達された「兵庫県公立学校建築法」にて洋風校舎が推奨されていたこと、近くの西宮小学校が既に洋風校舎で竣工し刺激を受けたこと、文明開化の流れのなかで地域の教育にかけた熱意が大きかったことが背景にあったと言われます。
にわかに出現した六角形の塔屋を持つモダンな洋風校舎は近在から見学者が訪れるほど有名になり、それは地域の人々の誇りでもありました。太平洋戦争の戦禍を免れ、小学校の敷地内で校舎建替などに伴い何度か移転された後、現在の「酒蔵通り」に面した位置に移設。小学校校舎、今津公民館と用途は変わってゆき、昭和39年に取り壊しの危機を見ますが、人々の保存すべきという熱い思いにより「幼稚園の園舎」として使われることになり、当時の県知事によって正式に「六角堂」と命名されました。
1998年、校地南側正門横の現在の地に今津小学校学舎として移築改修され、1階は六角堂の歴史資料の展示コーナーと地域の人々へ開放する集会室、2階は視聴覚室として使用されています。
1998年「兵庫県さわやか街づくり賞(建築部門)」を受賞。2021年1月には、地域の景観づくりに重要な役割を果たしている「兵庫県景観形成重要建造物」に指定されました。
黎明期の日本国において、子弟の教育がいかに重要視されていたか、それを如実に物語るのが今も各地に残された学校建築だと思います。愛媛県・ 山口県・岡山県・静岡県・ 滋賀県・三重県・石川県・ 山梨県・長野県・福島県・・私達が訪ねた明治の学校建築は、数え上げれば枚挙にいとまがありません。それほどまでに人々は教育を重んじ、また子弟も良くそれに応えてきました。残された校舎建築を見るたびに、人々の熱い思いがダイレクトに心に響き、胸が熱くなります。
訪問日:2009年9月19日
むろん、それが一部の人だと言うのは理解した上での話で、全員がそうだとは思っていません。
学びを大切に思わない国に、未来なんて無いと思ってしまうのは、これはもう完璧に私が一昔前の人間だからです(((((^_^;)
大地にしっかりと根を下ろしていないから、小手先の綺麗ごとに飛びつくんだと思います。
昨日のコメントは・・決してまかろんさんにモノ言ったわけじゃないんです。
ただ言葉に出来ない辛さをひた隠しにして生きている、私の弱さ、ずるさ、情けなさ。それでも、そんな私でも、まかろんさんに友達だと思って欲しい。そう願っている事を伝えたかったのです。私こそ、きずつない思いをさせてしまったなら、本当にごめんなさい!!
吸血鬼ハンターD、魔界医師メフィスト、どちらも天野さんの挿絵でその美しさに一目ぼれしたというのが本音(笑)
まかろんさんの物語には、菊池氏のような、その描写本当に必要?と突っ込みたくなる「エグさ&毒」も無く、本当に切なくて優しく、何よりも綺麗です。
昔のようにイラストを描き続けていたなら、挿絵を描かせてと申し込みたいくらい、登場人物のイメージが広がります。
なんだか取り留めのない返信になってごめんなさい。
夜が更けて窓からの風が少し冷たくなりました。素敵な夢に包まれますように🌸
私はお二人と違って専門知識がまるでないので・・。😅
>黎明期の日本国において、子弟の教育がいかに重要視されていたか、
なるほどなるほどと読んでコメント欄を見たら、
まっちさんとのやりとりに、胸が熱くなる想いがしました。
今の日本に比べて、なんと希望と情熱にあふれた国だったのでしょうか。
昨今では大学教育など不要だという意見が繰り返しネットに現れて・・
昨日もそんな人に反対意見をお伝えしたばかりです。
教育を見下すのは独裁国家への一歩です。
でもそう言いたくなるくらい、
人々がなんの展望も、社会や人生を良くする当ても
見出すことができないのだと分かります。
・・どうしたら人々が社会への希望と情熱を
取り戻せるのでしょうか・・・😢
日本は人々が貧しい意識で足を引っ張り合っているかと思えば、
小手先の綺麗事(LGBTとか脱炭素とか)を急にぶち上げたりして、
なにもかもどっちらけな印象です。
地に足がついていない。
・・話がまた長くなりました。
昨日のコメント、無神経でしたら、申し訳ありませんでした🙇♀️
私も心に傷が今も深く残っていて、
それが時折、人の言葉に対する無神経な態度になって現れてしまうのです。
知ったかぶりをするべきではありませんでした。
吸血鬼ハンターDを全巻お持ちなのですか・・!
これは私は読んでないですが、ますます意外・・!
魔界都市新宿を読んでいた頃は、
自分が物語どころか小さな詩すら書けると思ったことのない頃でした。
今は勉強になると思う本くらいしか読む時間がとれず・・
(漫画すら読み進められません💦)
あの頃にDも読んでおけば良かったなぁと
今すこし後悔しています😓
どうぞ美しいもの、心にかなうものに囲まれて
ゆったりと毎日をお過ごしくださいね😊
でも日本各地に残されている様々な点が、どこかで結びつく瞬間に遭遇できた時の嬉しさはまた格別で、旅の楽しさをより後押ししてくれていました。
それが出来なくなった今でも、思い出の中にしっかりと輝いてくれています。
学びの庭は、「ねこ庭」だと思っていましたが、「ご当地マンホール」はもっと広い範囲で、広がっていることを知りました。
コメントを入れる必要がないほど、内容が詰まっています。健康に留意され、息長く続けられますよう応援しています。
戦後教育の中で削り取られた部分、自分が経験したわけではありませんが、実際に資料館などで、墨で塗りつぶされた教科書などを目にした時、何故この文言がダメなのか、理解に苦しむ事が多々ありました。
まっちさんのコメントを見て、敗戦国というレッテルは・・実は今もしっかりと生きているのではないか・・そんな事をふと考えさせられました
一方で西洋建築が導入されそこで意識されたのがシンメトリー。
この校舎もそうですが本体中央前面に配置された変形六角形の張り出しは正面から見れば見事なシンメトリー。
教育の場に西洋建築の典型ともいえるデザインを導入した裏には富国強兵の達成には人材育成が不可欠という当時の日本の意気が強く感じられます。
そして学校の建設に際しては寄付が大半を占めたという事実。
江戸期も含め、戦前の日本では成功者や富裕層が公を支え公のために尽くすという意識が強く篤志家と呼ばれる層が多数存在していました。
それは教育だけじゃなく、道路や橋、水利、治水などでも多々見られ福沢諭吉の『独立自尊』という言葉がそれを顕著に表しているかと思います。