松本市里山辺薄町に残る「旧山辺(やまべ)学校」。決して遅い時間では無かったのですが生憎の曇り空、昨日の開智学校に比べるとかなり地味な印象は否めません。
明治6年(1873)に兎川寺の本堂を校舎として発足した「兎川(とせん)学校」。 それから12年後の明治18(1895)年12月、当時の里山辺村・入山辺村の二村により、八角塔が印象的なこの建物が完成。翌年には近隣の学校を統合して山辺学校となりました。
地元の大工棟梁『佐々木喜重』によって設計施工された擬洋風建築の校舎は、木造二階建、桟瓦葺入母屋造で、屋根の中央には八角形平面の塔屋。
一階正面中央には千鳥破風の車寄せ。館内見学はこの玄関からですが、おそらく建築当時は特別な方々の為の入り口だったと思われます。
建物の裏側には木製の立派な入り口があり、子供たちはここから校舎に入ったのでしょう。
昨日拝観した「開智学校」と非常によく似通った外観ですが、これは佐々木氏が開智学校建設時の棟梁:立石の下で働いていた事で、強くその影響を受けたからと言われています。
全体予算は開智学校のおよそ七分の一の1573円。それでも当時の物価から考えれば相当以上の大金であった事は間違いなく、その費用は両村の村費と寄附金ですべて賄われました。
外国から輸入した高価なガラスや色ガラスを使用した「ギヤマン校舎の開智学校」に対し、窓に引き違い障子を用いた事から、通称「障子の学校」と呼ばれた「山辺学校」。鮮やかな色彩も、精巧で緻密なテラスの彫刻も・・・いずれも、この塔屋には施されていません。けれど特徴的な「八角塔屋」は、二つの相似を見事に象徴し、また二つの相違点の最大の理由を表わしています。
ともあれ、どんなに遠くからでもその在り処を教える「風見の塔」。それは当時の子供たちにとっては、我が学びの場へと至る自慢の道しるべであったと思います。
目を閉じて耳を澄ませば・・・はるか昔、この門を潜った子供達の足音が聞こえてくる気がします。見習うべき範として、昔の学校には必ず見ることができた『二宮金次郎』像。その姿に遠い昔の子供たちの姿が重なって、ふいに胸が熱くなりました。
金次郎像の前に建立されているのは『元帥伯爵・東郷平八郎』の揮毫による「忠魂碑」。こうした歴史の遺産を忌避する人もいますが、その命の上に自分たちが生かされている事を、私たちは決して忘れてはならないと思うのです。
校舎建設のための金額は、山村の小さな村にとって決して生半可なものではありません。それでもそれだけの金額が集まった・・その根底にあるのは、子弟への教育こそが新しい時代を生き抜く力だと信じたからに他なりません。初めてこの校舎の前にたった子供達は、どんな思いでこの美しい建物を見たのでしょう。この校舎を作り上げたのは自分達なのだと自負する親の姿は、どれほど逞しく見えた事でしょう。
「昭和3年(1928)に新たな校舎が隣接地に建設されると、この建物は里山辺村役場の庁舎として利用されます。 このとき、外壁の塗壁を板張りに、障子窓をガラス窓に改修しました。しかし、建設から100年以上が経過し老朽化が著しくなったため、昭和56年から翌年にかけて大規模な復元工事が行われました。 この工事によって明治時代の姿を取り戻し、昭和58年からは、「山辺学校歴史民俗資料館」として地域の歴史・文化を展示する教育施設として活用され、昭和60年には長野県宝に指定されました。」新松本物語より
訪問日:2010年10月17日
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