こちらの絵図は、曹洞宗大本山「總持寺」であった当時の境内図でしょうか? 広大な境内に整然と立ち並ぶ伽藍の数は圧倒的で、まさに「能登国の大本山」。
御朱印の依頼や内部の拝観受付は、香積台と呼ばれる建物の中にあります。ここも登録有形文化財の指定を受けていたのですが、工事中のシートに覆われて見学は不可。
窓から差し込む光の中、ひんやりと心地よい廊下を進み「仏殿」へ。
緑の木々に包まれるように「放光堂」が見えます。
大正元年(1912)に再建された「仏殿」は、開口20m、奥行16.3m。欄間に施された彫刻、見ごたえありました。
仏間正面には御本尊:釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)、右に大権修理菩薩(だいげんしゅりぼさつ)、左に達磨大師(だるまだいし)が配されています。
客殿を兼ねた相見の間。奥に並ぶ四つの書は、剣・禅・書の達人として知られる『山岡鉄舟』の襖書。「鉄樹枝抽 石樹花開(鉄樹 枝を抽(ヌキ)んじ 石樹 花を開らく)」。頼まれればいつでも気さくに応じたという鉄舟。全国各地には鉄舟の書が数多く残されており、私たちも幾度となく目にしました。
外は初夏の日差しが強く、この心地よい仏殿の空間から離れるのは、正直勿体なく思えます。 だからといってご亭主殿、いつまでもここで涼んでいるわけにはいきません。おいとまの時間です(^^;)
境内の一画に「峨山道 ここより始まる」の駒札。【峨山道とは当本山より羽咋永光寺五老峰に至る約50kmの能登半島の中央を貫く難路の古称である。 当本山二祖 峨山韶碩禅師は本山の2代と永光寺4代の御住職を兼ねられ、毎朝早く永光寺の朝の勤行をお勤めになって、この峨山道の難路を越えて、ここ総持寺に馳せつけ、総持寺の朝の勤行をされたと伝えられております。】
50kの難路の山越えを毎日・・・・もはや超人といっても良いレベル。
「三松関」の近くに鎮座されていた「穴熊稲荷」。御祭神は『穴熊稲荷大明神』。
青銅製の御狐様は柔らかい曲線がとてもチャーミング。多分これまで見てきたお狐様の中で、一番美しい。
由来の確認を見落とした像。何を表しているのか全く不明(-_-;)
右手後方に見えるのは、坐禅堂の西に位置する「鐘鼓楼」。手前に保存されているのは、明治31年(1898)の大火の折、境内の類焼を防いだといわれる「火伏の松」。表面の焼け焦げが痛々しくもあり、また誇らしげにも見えます。
北陸三十三ヵ所観音霊場 第15番「大本山総持寺総門跡」碑
参拝日:2015年5月24日
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