鳥取市国府町奥谷、宮下、静かな緑に包まれた一画に鳥取32万石を領した初代藩主と十一代までの藩主、支藩の当主・奥方・側室・子女等の墓78基が、整然と佇ずむ「史跡:鳥取藩主池田家墓所」。歴代藩主の墓碑の周囲には、一族に仕えていた人の名が刻まれた260以上の燈籠が、主を護るように立ち並びます。
史跡とはいえ、しかも春の日が僅かに長くなったとは言え!、午後6時を廻っての墓所の訪問(^^;) 知人に言わせれば「絶対!!変!!」だそうで、帰宅後早々にお土産の梨ジュースで精進落しに付き合わされることに(笑)
参道を進み一段高くなった墓所に立ち並ぶ奉納石道路の数々。石段右手に眠るのは「室の墓」・・それとも忠義を尽くした「家臣の墓」か。
「藩主の墓碑は、亀の形をした「亀趺(きふ)」とよばれる台石に円頭扁平な墓標を立てた「亀趺円頭(きふえんとう)」の墓碑とよばれています。また、藩主以外の墓には宝塔形の墓碑や、江戸時代に一般化した石碑墓標等が見られ、江戸時代の大名家の葬制および墓制の階層制を知ることができる貴重な資料として国の史跡に指定されています。」鳥取市観光サイトより
因幡国鳥取藩初代藩主『池田光仲』。享年六十四歳。法号『興禅院殿俊翁義剛大居士』。備前国岡山藩主・池田忠雄の長子、母は阿波徳島藩主蜂須賀至鎮の娘三保姫(芳春院)。寛永九年(1632)父忠雄の逝去により当時三歳で藩主の座につく。備前から因幡・伯耆へ移ったが、藩は存続。寛永十五年(1638)将軍家光の前で元服し、名を光仲と改め、従四位下侍従に任じられ、相模守と称した。官位と将軍の名の一字を賜る大名は、御三家の他、加賀の前田家、薩摩の島津家、長州の毛利家など「殿上元服之家」十五家があり、その中に鳥取の池田家も含まれる。
二代藩主『池田綱清(つなきよ)』、享年六十三歳。法号『清源寺殿良宗常温大居士』。光仲の嫡子、母は正室茶々姫(芳心院)。幼名を新五郎。貞享二年(1685)父光仲の隠居によって家督を相続。歴代の藩主、世継の墓には必ずある亀趺が彼の墓碑だけにはありません。これは時の将軍であった『徳川綱吉』の「生類憐れみの令」に配慮したからだそうで、元服の際に家綱の一字をもらった事を考えれば当然かもしれません。
三代藩主『池田吉泰(よしやす)』、享年五十二歳。法号『天祥院殿機運衍応大居士』父は分知東館の祖壱岐守仲澄、母は松平播磨守頼隆の娘菊子(涼月院)。幼名を長吉、のち勝五郎、長じて輝清、吉明と改める。元禄八年(1695)、綱清の養子となり、元禄十三年、隠居した綱清のあとを受け家督を相続。
綱吉公が死去されてから30年後という事で、亀趺もしっかり復活(笑)
四代藩主『池田宗泰(むねやす)』、享年三十一歳。法号『大廣院殿義山衍隆大居士』吉泰の嫡子、母は側室中村氏。幼名を長吉、のち世嗣となり勝五郎と改める。元文4年(1739)父吉泰の逝去により家督を相続。
五代藩主『池田重寛(しげのぶ)』、享年三十八歳。法号『岱岳院殿祥雲洪澤大居士』宗泰の嫡子、母は紀州徳川家より入った久姫(桂香院)。幼名勝五郎。初名仲繆・重繆、延享4年(1747)父宗泰の逝去により、わずか二歳で家督を相続。
池田重寛の長男『池田治恕(はるゆき)』、享年十七歳。法名『孝得院殿本然自性大居士』
墓地内には、紀州徳川家や加賀前田家、奥州伊達家などからお輿入れになった夫人墓が建立されています。こちらの墓碑が何方のものであったか確認できず。
六代藩主『池田治道(はるみち)』、享年三十一歳。法号『大機院殿賢翁紹雄大居士』。重寛の第三子、母は側室村上氏。幼名は岩五郎、後に秀三郎と改める。天明三年(1783)父重寛の逝去により、十六歳で家督を相続。
七代藩主『池田斉邦(なりくに)』、享年二十一歳。法号『真證院殿徳應義榮大居士』治道の嫡子、母は側室・於三保の方。幼名秀三郎、のち銀之進と名乗る。。寛政10年(1798)治道の逝去により、数え12歳で家督を相続。
八代藩主『池田斉稷(なりとし)』、享年三十一歳。法号『天祥院殿機運衍応大居士』。治道の次男で斉邦の弟。母は側室の佃氏(浦の方)。幼名永之進。文化四年、斉邦の逝去により、家督を相続。
九代藩主『池田斉訓(なりみち)』、享年四十三歳。法号『耀國院殿峻徳光隆大居士士』。徳川家斉の十三男を養嗣子・斉衆とした為、斉稷の次男として生まれる。母は側室の高沢氏。文政九年(1826)に斉衆が早世したため嫡子となり、天保元年(1830)、斉稷の逝去により、家督を相続。
十代藩主『池田慶行(よしゆき)』、享年十七歳。法号『正国院殿純徳玄明大居士』。鳥取池田家の分家:鹿奴藩(東館)主・池田仲律の長男として誕生。母は側室の若林氏。幼名は亀丸。初名は茂高(しげたか)、茂行(しげゆき)。 天保十二年(1841)、斉訓の逝去により、養嗣子として10歳で家督を相続。
十一代藩主『池田慶栄(よしたか)』、享年十六歳。法号『栄岳院殿穆雲光澤』。前田斉泰の四男。母は溶姫。幼名を喬心丸。嘉永元年(1848)、慶行の逝去を受け幕府の命により家督を相続。翌嘉永三年(1850)、初めての国入りのためその途についたが、江戸から鳥取への道中で病に罹り京都の伏見藩邸にて急死。
最後の藩主となった十二代「池田慶徳(よしのり)」。水戸中納言徳川斉昭の五男。母は松波春子。幼名を五郎麿・昭徳と改める。異腹の弟は徳川幕府最後の将軍『徳川慶喜』。慶栄に嗣子が無かった為、昭徳が養子となって家督を相続。明治十年八月二日、明治天皇の還幸を神戸まで奉送の際肺炎にかかり、神戸で逝去。墓所は鳥取市立川町の大雲院に置かれる。慶徳の後、池田家は十三代輝知、十四代仲博、十五代徳真、十六代百合子と続く。
ゆっくりと山あいに姿を消してゆく太陽、あたりにはひたすらな静寂だけが漂います。デジカメを向ける為に、一基一基ごとにきちんとご挨拶をさせて頂いたので、思わぬ時間が過ぎていました。白く輝くように咲き誇る満開の桜に別れを告げて、私たちも日常の世界へと戻る事にしましょう。
参拝日:2012年4月15日
年少を理由に姫路から10万石を減じての鳥取移封でしたが、家臣団をまとめ藩財政を立て直し今の鳥取城下の基盤を作りました。
その才を買われのちに本家筋の岡山池田家と国替えを行い岡山藩主へ。
こちらの墓所は池田家本流で光政と入れ替えでの鳥取への国替えには多々思うところはあったでしょうが、長く安泰でいられたのは分家筋の光政が鳥取を整備したおかげ・・・
地理院地形図で鳥取市街をご覧いただければわかりますが、市街中心で一級河川千代川へ支流の袋川が合流しています。
大水になれば本流の水が支流に流れ込みいわゆるバックウォーターによる洪水が起きる典型的な地形。
池田光政はこの袋川の流路を変更して城下の被災リスクを低減させるとともに、すわ大事の際には付け替えた袋川を城の防御として活用できるよう城下の大改造を行いました。
和気にある閑谷学校の一画に池田光正公の墓所があるのですが、一面の椿の回廊の奥。
ツバキは花がぽろっと落ちる=首が落ちると縁起を担いで嫌われていましたが、潔さが良いとして敢えて椿を植樹。
実は刀の手入れに椿油は最適だった等々、藩校である閑谷学校の事も含めて、地域の中学生は必ず研修に行きました。
まっちさんの説明で光政公はさらに素晴らしい郷土のスーパースターになります😊