車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

智頭往来~Ⅰ~ in 鳥取県智頭町

2017年07月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取県智頭町智頭、JR智頭駅から徒歩で約10分。「智頭宿」は上方へと向かう主要道であった「智頭往来」の宿場町。智頭往来(因幡街道)と、備前街道が合流する地にあり、参勤交代で江戸へと向かう鳥取藩の最初の止宿(ししゅく)として栄えた歴史を持ちます。

宿場内には鳥取藩主池田公の祈願所として栄えた「諏訪神社」や、鳥取藩初代藩主:池田光仲の父:忠雄公の位牌が安置される「曹洞宗寺院:興雲寺」、往時を偲ばせる道標なども残されており、文化庁選定「歴史の道百選」にも選ばれています。

町歩きのスタートは、智頭往来に面して建つ「伊藤邸」から。

漆喰の土蔵に押された「陰陽勾玉巴紋」。歴史上最初に登場する家紋で、公家、武家の家紋の他に神社の神紋などに多く使用されます。が・・実際に個人宅のお蔵に見たのは初めて。

冒頭から〇〇家なんて書いてしまいましたが、振り返ってみれば実はそれぞれのお宅の表札を確認したわけでも無く・・・したがって半数以上が画像のみの紹介しかできない事に、今更気が付いた私(^^;)。

智頭宿における最も大きな建物の一つで、智頭往来に面して建つ、重要文化財「石谷家住宅」。敷地面積3000坪、建築面積641坪、部屋数40以上、土蔵は7棟を数えます。石谷家は屋号を「塩屋」と称した近世以来の商家で、明治以降は山林地主として栄えてきました。

鳥取藩主の参勤交代の時、殿様は御本陣に宿泊。随行の上級武士は石谷家を宿泊所として使用していました。この画像だけでは想像もつかない贅と粋を凝らした部屋の数々・・普段着では抵抗ありすぎて敷居を跨げません(笑)

家の格式を表すために造られた「武家風の式台(総欅造り)」。参勤交代の宿泊客を受け入れる際には、ここが本玄関として使用されます。

端から端まで画像に収まりきらない・・・(-"-) ここまで凄いと「羨ましい」とか「凄い」とか、そんな庶民的感情はどこかに吹っ飛び、とにかく「ほぉ~~~」と眺めるだけ(笑)

三間一戸薬医門の形式の堂々とした佇まいを見せるのは、国登録有形文化財「米原(よねはら)家住宅上門」及び「塀 」「控柱を表側に立て、両脇にのびる塀の起点とする。屋根は切妻造桟瓦葺で棟の輪違積に十字紋をあしらう。両開板戸には大振りな八双金物を打ち、天井に幅広の隠岐スギを使う豪壮な門塀で、往来の景観を整える。」文化遺産オンラインより

智頭往来と備前往来の交差する角地に建つ「米原(よねはら)家住宅・主屋」「桁行一二間梁間七間と大規模で、屋根は入母屋造桟瓦葺で四周に下屋を廻らす。外壁は黒漆喰塗、腰はモルタル洗出で破れ目地を切り、出格子を連続させる。」文化遺産オンラインより

忍びの者を気取るご亭主殿・・いやいや、全く忍べていませんが(-"-)

国登録有形文化財「旧塩屋出店」。石谷家の分家として再建された戦前の建造物。商家風町家は1897年頃の建設とされ、他に西洋館、和風庭園、塀で構成されています。

「旧塩屋出店」と、先の「米原家住宅」との間にある門を潜ると、右手に米原家の母屋と庭園。

書院造の母屋、和風庭園に面した座敷は「喫茶・お食事処 海彦山彦」として活用されています。

庭園の奥に見える白い壁の洋館は・・

四代目当主:嫡子の結核療養施設として1930年頃に建築された洋館。現在は智頭町出身で「絶唱」などを監督した『西河克己』記念館として公開されています。

絶唱と言うと確か舟木一夫のヒット曲・・「大江賢次の原作を西河克己が脚色・監督した純愛名篇。企画主演は舟木一夫。薄幸のヒロインに和泉雅子。智頭町をロケ地とし、昭和41年(1966)9月17日に公開されました」。美男美女のカップルには及びませんが、係りの方が記念に一枚とシャッターを押してくれました。

見所の尽きない智頭町、明日に続きます。

訪問日:2012年4月14日

 


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