古くから歌に詠まれ、志賀直哉の短編「城の崎にて」が生まれるなど、文豪や歌人から愛された「城崎温泉」。平安時代の古今和歌集に「但馬の国の湯へまかりける時、二見の浦と云う所にとまりて…」(藤原阿法師)とあるように、1000年以上も前から都の貴人がはるばる城崎の温泉に赴いていたことが明らかにされています。江戸時代になると、「海内(日本)第一泉(かいだいだいいちせん)」と呼ばれ、有馬、湯村とともに兵庫県を代表する温泉として、多くの観光客を集めてきました。
しだれ柳が緩やかにゆれる「大谿(おおたに)川」。川沿いに軒を連ねる温泉街の風情は、観光パンフレットなどですっかりお馴染み。この景色を見た瞬間「ああ、城崎温泉に来たんだ」と、わけもなく感動します(笑)
舒明天皇一年(629)、コウノトリが傷を癒している事が開湯伝説とされる城崎温泉。駅前には「傷をいやすコウノトリ」が美しい羽を広げて観光客を出迎えてくれます。
城崎駅のすぐ横には「下駄奉納板」があり、各旅館の下駄が奉納されています。毎年新しい下駄を奉納し、古下駄は温泉まつりで焚き上げて供養して、城崎温泉を訪れた人達の足元の安全と健康を祈願するそうです。
「下駄奉納板」横に建てられていた『与謝野 寛(鉄幹)』歌碑
【 手ぬぐいを 下げて外湯に行く朝の 旅の心と駒げたの音 】
城崎駅前文学散歩道の碑と「島崎藤村文学碑」。島崎藤村は新聞社の依頼で、昭和2年に城崎温泉から島根県津和野まで旅行し「山陰土産」という紀行文を連載していました。碑には「大阪より城崎へ 朝曇りのした空もまだすずしいうちに大阪の宿を発ったのは、七月の八日であった。」の一節が刻まれています。
文学碑の横には飲泉設備も設けられており、湯飲みなども用意されています。江戸時代の漢方医『香川修徳』が絶賛したという温泉水・・心身に危険が及ばない限り、何でも試してみたい好奇心旺盛な二人、さっそく味見を・・・
感想・・・まぁ・・薬と思えば(笑)、でも恐々の量にしておいて良かった(^^;)
奈良時代初期の養老元年(717)。僧侶であった『道智(どうち)上人』は、当所鎮守「四所明神」の神託により、難病の人々を救う為に千日間の修行を行い、天平年間(720)に温泉が湧出、これが城崎温泉の始まりと伝えられています。その後、道智上人によって「温泉寺」を開山。以後、温泉寺は城崎温泉を象徴する存在となりました。この常夜灯は「地蔵湯」前に建立されています。
「地蔵湯」の名は、この湯の泉源から地蔵尊が出たことに由来しており、入り口近くには美しく化粧を施された地蔵尊が祀られています。
観光地をそぞろ歩く楽しみの一つが、多種多様なお店の看板。どうです、このおいしそうなズワイガニ(笑)大の偏食家の私が、唯一!胸を張って好物と言い切れるのが、実は「カニ」!!思わず足を止めて見上げ「こんな大きなカニなら、三日くらいはもつかもと」と言ったら、「たった三日かい?!」と突っ込まれました(爆)
城崎ならではと言えるかどうか・・ですが、見た瞬間に「城の崎にて」を思い出させたのですから、やはりこれも城崎ならでは。城崎書房の文字が、一瞬「城の崎にて」とオーバーラップして、とても上手な演出だと思いました。
城崎温泉のそぞろ歩きも「弁財天」の額が架かる鳥居の前で終了。拝殿が見えていれば参拝をと思ったのですが、鳥居の奥に続く石段を見て・・ごめんなさい!パス。
代わりというのは大変に失礼ですが、鳥居の近くに祀られていた地蔵堂の石仏様たちに、この先の旅の無事を願ってお参りさせて頂きました。
訪問日:2010年11月4日
とくに志賀や島崎の作品はいずれも私小説。
有馬や白浜に長く逗留してもあまり自身の内面を深耕するといった気分にはならないかも?
どちらも何となく、大温泉街というイメージ。
ひっそりと湯の町の情緒を楽しむというより、団体さん歓迎という感じで(笑)
この不便で困る部分も、彼らには魅力だったのかもしれませんね。