会津若松市河東町と猪苗代町翁沢船場にかけて、猪苗代湖から流れる阿賀野川水系一級河川・日橋(にっぱし)川の上流に建設された「十六橋水門(じゅうろっきょうすいもん)」。
明治12年(1879)、国直轄の農業水利事業第1号地区として着工され、日本海への流量を調整して水位を保持する十六橋水門、安積地方へ取水する山潟水門が建設。隧道・架樋等、延べ85万人の労力と総工費40万7000円(現在に換算して約400億円)によって、130kmに及ぶ水路「安積(あさか)疎水」の工事は、僅か3年で完成。灌漑区域面積は約 9,000haと広大で、不毛の当地を一大穀倉地帯に変えました。まさしく「水は黄金の種となる」べく、安積原野にいきわたったのです。
安積疏水の生みの親である、オランダ人長工師「コルネリス・ヨハンネス・ファン・ドールン像」
「ファン ドールン墓碑再建記念碑」内閣総理大臣:大平正芳
「渡邊信任翁頌徳碑 猪苗代湖利用聯盟を考案し、大正十年に安積疏水普通水利組合會議員に、昭和四年には同組合常設委員に選出。水位の調整權を確立し湖面低下を斷行して發電力の増強を實現し工業の振興に目覺しい貢献をなした。」
「皇太子殿下御親植松」と読めましたが確証は無し。
「日橋川中央 西〇〇 東〇〇・・・」こちらも読みとれず😔
「十六橋水門旧管理事務所」
「有栖川熾仁親王御手植松」碑と、左手に昔の「十六橋」の一部
弘法大師(空海)が各地を訪ね歩く途中にこの地を訪れ、16の塚を築いて橋を渡したという逸話が残る「十六橋」。天明6年(1786)、会津藩によって石橋が架けられ、明治12年(1879)、安積疎水事業により、道路兼16の石造りのアーチ式石橋形式を経て、現在の橋になりました。旧橋の遺構は、お手植え松の横に残る石柱のみが現存しています。
訪問日:2016年6月27日
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