会津若松市河東町南高野高塚山。享和3年(1803)に、人材の育成を目的に建設された会津藩の最高学府「會津藩校:日新館」。
会津における教育のはじまりは寛文4年(1664)、日本で初めて民間により創設した庶民のための学問所といわれる「稽古堂(けいこどう)」とされています。時代は移り、五代藩主『松平容頌』の時、会津藩家老『田中玄宰』の進言によって新たな藩校の設立が進言され、会津藩御用商人『須田新九郎』の全額寄付と五ヶ年の歳月を費やし、文武の両教科を教授する総合学校「日新館」が完成。
東西約120間、南北およそ60間の敷地に日本最古のプールといわれる水練場や天文台までをも備えた、全国有数の藩校「日新館」。当時の会津藩の子弟は10歳になると日新館に入学し15歳までは素読所に属し、礼法、書学、武術などを学び、成績優秀者は講釈所への入学が認められ、更に優秀な者には江戸や他藩への遊学が許されました。
乾門から見る「大成殿:孔子廟」
乾門大屋根の左右に乗せられているのは「鬼犾頭(きぎんとう」と呼ばれる魔除けの神獣。頭は龍、胴と尾は魚で外に向って建てられ、火災除けの呪いとしても用いられます。
同じく軒瓦の前にうずくまるのは獅子の躰に竜の爪を持つ「鬼龍子(きりゅうし)」。孔子廟に邪気が入り込むのを防ぐモノとされています。
では、藩校に通う前の子供たちはどうしていたか? 某テレビ局の大河ドラマの影響で一躍有名になった「什(じゅう)の掟」・・「ならぬことはならぬものです」
会津藩内の同じ町に住む六歳から九歳までの藩士の子供たちは、十人前後で集まりをつくって「什 」と呼び、そのうちの年長者が一人「什長」となります。毎日順番に、什の仲間のいずれかの家に集まり、什長が次のような「お話」を申し聞かせ、すべてのお話が終わると、昨日から今日にかけて「お話」に背いた者がいなかったかどうかの反省会を行いました。
一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
慶応4年(1968)、戊辰戦争により校舎は灰燼に帰しましたが、藩校に関する図面などの資料が残っていた事から、総工費34億円を費やし、昭和62年(1987)3月、完全復元がなされ「會津藩校日新館」としてて開館。館内の見学は無論、座禅や弓道、赤ベコや起き上がり小法師などの絵付け体験なども出来ます。
最後の画像は日新館散策の折に見かけた茅葺屋根の建物ですが、どこにも案内が出てきません。敷地の手前に「立入厳禁」の看板があり、仔細を確かめる事は出来ませんでした。
訪問日:2015年6月27日