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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

焼津(やいづ)神社~其の一 in 静岡県焼津市

2019年01月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

焼津市焼津に鎮座される式内社「焼津(やいづ)神社」、式内社で、旧社格は県社。旧称を「入江大明神(いりえだいみょうじん)」と称します。

主祭神は、第12代景行天皇の皇子『日本武尊(やまとたけるのみこと)』。相殿神として、日本武尊の東征に従った従者『吉備武彦命(きびたけひこのみこと)・大伴武日連命(おおとものたけひのむらじのみこと)・七束脛命(ななつかはぎのみこと)』

社伝に、【景行天皇(第12代)40年7月に日本武尊は東征に際して当地で野火の難を逃れたとし、のち反正天皇(第18代)4年に、日本武尊の功徳を敬って神社が創建されたとする。】

流造の本殿は、今から約400年前の慶長8年(1603)に徳川家康によって建てられたもの。御神体は「火石」と「水石」であると伝えられ、伝承によれば、日本武尊が水石と火石を投げた所、1つがこの社に、もう1つは熱田神宮に落ちたと伝えられています。

参道には、ご祭神である『日本武尊』の像が建立されていますが、私的にはこのお姿と顔は・・・・・何と言うかちょっとばかし微妙。
自称『日本武尊』ファンクラブの「会長」兼、「広報部長」兼、一般会員の私(笑)。 その私が断言しますが、もう少し凛々しく、もっと気高い感じでも良かったのでは!!

銅像と言えば、境内には八咫烏を杖に止まらせた「神武天皇:像」。『大正天皇』即位の御大礼にあわせて、商店街に建てられ「神武通り」の由来となった銅像。戦時中には人々の協力によって供出を免れ、戦後に焼津神社に移されました。

「駿河国式社備考」に焼津神社の元社との説もある「市杵島姫命社」。 御祭神は『市杵島姫命』

境内社「焼津天満宮」。御祭神は『菅原道真公』。 この画像ではほとんど見えませんが、社殿の隣には「東風吹かば~」の歌碑も建立されています。

さらに、天神さんと言えば、何と言っても神牛さん。撫で牛とも称されており、参拝者の誰からも親しまれる存在。

さらに(笑)天満宮と言えば「筆塚」。流石は学問の神様、三筆の一人とされる『道真公』。 

絵馬には、白梅の枝を愛でながら短冊を手にする「文官束帯(ぶんかんそくたい)」姿の『道真公』。

境内には他にも末社や石碑などがありますが、続きは明日に。

参拝日:2016年12月11日

 

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焼津千手(やいづせんじゅ)大観音 in 静岡県焼津市

2019年01月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

焼津市大覚寺に門を構える「大覚寺全珠院(だいかくじぜんじゅいん)・焼津千手((やいづせんじゅ))大観音」

御朱印の受付場所には、「大切なお帳面に直接お書きできるのは修行を行った住職か副住職のみ」と但し書きがあり、不在の際は「朱印紙」でのお渡しとなる旨の記載がありましたが、有難いことに美しい御朱印を直接頂けました(某有名寺社で、判子押しときました~ああ、押しといて」「代わりに書いといたでぇ~。構わん構わんと、御朱印を待っている本人の前で平気でこんな会話をされた経験がある身には、この但し書きは真摯なお気持ちが感じられて有難さが心に染みました。)

入り口から続く境内はとにかく明るく広い・・・これまでの寺院という観念が覆りそうなくらい広々として、まるで公園のような佇まい。

「開創と歴史」朱色に白文字という由来板も珍しく、何となく場違いだったかと思いつ・・・。
【神話のヤマトタケル東征の舞台ともなった焼津。嘉祥三(850)年、嵯峨天皇御領、入江荘を開き、伝弘法大師作薬師如来を本尊として真言宗大覚寺が開創されました。現在の「焼津市大覚寺」の地名としてこの地に残っています。たび重なる天災地変を受け大覚寺の法灯は永延二(998)年、荘園郷主大覚寺屋敷「本家 槇田家」の菩提寺として天台宗善修庵にひきつがれ、弘治三(1553)年曹洞宗全珠院に改められ、今日までの法灯を伝えています。】

という事で、決して昨今、巷に出没する怪しげな宗教施設でないことは確か。こんなことを思うなんて罰当たりとお叱りを受けそうですが、本当は誰もそんな事思いたくはない。でも・・悔しい事にそんな場所が増えてしまった事は事実なのです。
清潔な石畳の参道を進むと、今時と伝統的が融合したような鮮やかな朱の観音殿が見えてきます。

かっての本尊は「伝弘法大師作・薬師如来」でしたが、2003年に千手観音が本尊となりました。 由来書によれば【それは槇田家三十二代目夫人の未来千年の幸福を祈って千年続く仏像をつくりたいとの発願からはじまりました。 著名な大仏師、渡邊勢山氏が、樹齢三百年~四百年の木曽ヒノキを使って造仏。水中乾燥法などの古来の技法や、漆塗りで材の強度を増し、さらに手打ちの金箔で漆を保護しているため、千年の歳月に十分耐え得るものです。 複雑な構造をもつ千手観音像には大仏造立の例がほとんどなく、従来は、鎌倉時代の仏師・湛慶の作で知られる京都三十三間堂の丈六千手観音が最大のものでした。 したがって、この像高4.2メートル、仏頭1.8メートルの仕上がりは、じつに750年ぶりに出現した大仏様式で日本一大きな千手観音です。】

眩しいばかりのお姿は、見るものを圧倒させる力があり、私のような者でもしばし言葉を失います。見るものの心しだいで、それは慈悲にも励ましにも叱咤にも姿を変えて語りかけてくるような・・・悠久の年月を経てきた御像は人の祈りや願いを一身に受け止めて尊くも美しい。そしてまた、精魂込めて生み出された御像も、何百年と受け継がれるであろう人々の祈りを受けて尊く気高い存在へと昇華していくのです。

絵馬には太平洋の荒波をバックに美しく聳える富士山と、千手観音のお姿が描かれています。 

参拝日:2016年12月11日

 

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八楠加茂(やぐすかも)神社 in 静岡県焼津市

2019年01月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

焼津市八楠(やぐす)に鎮座される「八楠加茂(やぐすかも)神社」。御祭神は『賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)』

【大化2年(646)2月、山城国上賀茂神社より勧請し創建。「総国風土記」に、箭葛柳田神社所祭雙栗神也とあり、また「駿河国諸郡神階帳」には、益頭郡従五位上八楠地祗と記載。往古は祭礼時に神輿を天白に行幸し神楽を奏し、馬場田で流鏑馬をおこなっていました。明治8年、村社に列し、明治40年、神饌幣帛料共養社に列しました。】由緒より

境内より神域を守護されるのは、静岡県内では珍しい籠神社型と呼ばれる狛犬さん一対。

首を大きくまわして、豪快な笑い声と共に参拝者を迎える阿形さんは、何とも楽し気でおおらか。

阿形さんが飛びっきりの笑顔なら、頭上に角を持つ吽形さんは、まるで透き通った空のような穏やかな佇まい。 人の営みの小さな悩みなど、ふわっと包み込んでくれそうな雰囲気はまた格別。「謹刻・松永憲三郎 昭和56年(1981)〇〇〇落成記念」の刻。

調度境内を手入れされていた方から、この狛犬に関して色々とお話を伺う事ができました。話の端々にあふれる神社への敬愛の想いが伝わって、聞かせて頂く私たちも自然と笑顔に。

このユニークな尾も、外の神社では見られないと目を細めてお話を続けて下さった方、今もお元気でおいででしょうか。

注連縄がめぐらされた手水舎の佇まいの清浄さが深く心に残った八楠加茂神社の参拝。その節は、本当に素敵な時間を有難うございました。

参拝日:2011年11月14日

 

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花沢の里 in 静岡県焼津市

2019年01月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

焼津市北方の山間部、高草山の中腹に、山々に囲まれた隠れ里のような民家集落「花沢の里」があります。はじめてその記事を見つけてから丁度一年を経た2011年、ついにそのの入り口まで来ました。駐車場に車を入れたら、そこから先はひたすら徒歩で坂道を登ります。

奈良・平安期には、静岡と焼津を結ぶ主要峠道として万葉集にも詠まれた由緒ある花沢の地。 何処もそうですが、見知らぬ景色の中に足を踏み入れる時のあのワクワク感、堪りませんねぇ~。

HPなどによると、花沢の地では、明治から昭和にかけてお茶や蜜橘、養蚕業が盛行を極めていたとか。花沢川と併行する旧東海道の傾斜地にある花沢の里には、今も江戸期の家など数十戸の民家が残っています。

急勾配の片側に石垣を築き、その直上に瓦屋根の木造屋敷が並ぶ・・・その光景は何処を切り取っても、それが未熟な私の写真であっても絵になる。 敷地の平場を最大限に確保するため、石垣は道路際から築かれて屋敷地を造成しています。

石垣と附属屋が階段状に連なる景観は、おそらくこの地域独自のものでしょうが、どこか懐かしく、苔むした石垣に作られたシャレた看板までもが、不思議なくらい空気に溶け込んで見えます

かってこの小さな集落には、お茶や蜜柑の収穫にあわせて多くの季節労働者が滞在していました。 民家では彼らの宿泊施設として附属屋などが増改築され、それらは現在まできちんと保存されてきました。

時間が止まったような錯覚を覚えさせる坂道、山間の切れ目から日差しが差し込み不思議な模様を地面に描き出しています。 この先をもう少し上ると天台宗の法華寺という寺院があるらしいのですが・・・・・

ここまでと決めた道の左手に細い坂道が続き、入り口には「鞍掛峠・満観峰」と書かれた案内板。流石にこの坂道を登っていく根性はありませんが、私たちとしては上出来の花沢の里訪問。何よりここまでに至る折々に見せて頂いた素敵な景観に大満足。

坂の途中に見つけた「焼津邊・・・・」と万葉仮名で刻まれた、万葉歌碑。

【焼津邊(焼津べに)吾去鹿歯(わが行きしかば)駿河奈流(駿河なる)阿倍乃市道尓(阿倍の市道(いちじ)に)相之兒等羽裳(逢ひし兒らはも)】

詠み人は、飛鳥時代から奈良時代の僧侶で歌人『春日藏首老(かすがのくらのおびとおゆ)』

山際の細い通路に延びる軌道は、おそらく収穫したミカンを運ぶためのもの。庭先の何か所かでミカンを販売している所を見かけたのに・・・こんな時に限って小銭が無い!!両替をお願いできる人影すら無い (ノ_-。)

南北約500mほどの集落、私の足には些か厳しい坂道でしたが、思い切って歩いた価値はありました。 歩き終えてしまうと、このまま坂を下ってしまうのが勿体無いような・・例によって例の如くのいつもの感傷(^^;)
そうそう、集落の入り口に見かけた「オシャモッツァン」という、山肌を覆うような大きな岩。で、この岩は歯痛や子供の病気に大きな御利益があるとされ、古来より花沢の人々が信仰してきたとか・・
あの岩まで登って願をかけたのか、この下から見上げて手を合わせたのか・・・どっちなんでしょうね?

この訪問から約三年後の2014年、焼津市花沢地区は「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。

訪問日:2011年11月14日

 

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ご当地マンホールとマンホールカード in 静岡県焼津市

2019年01月17日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・静岡県

焼津市(やいづし)は静岡県中部、志太平野(大井川の扇状地)の北東に位置する市です。高草山などの丘陵部を境に静岡市、西に藤枝市、大井川を挟んで吉田町と島田市に隣接。静岡市との境には「東海の親不知」とも言われる大崩海岸があり、深海湾と呼ばれる駿河湾に面した焼津漁港を中心に発展。「市の木:松」「市の花:サツキ」「市の鳥:ユリカモメ」を制定。 市名は日本神話の【『日本武尊』が東征の途中で地元の賊衆に襲われた時、草薙剣で葦を薙ぎ倒し、そこで賊衆を迎えうち、火を放って難を逃れた。その様相が烈火のように見えた、あるいはその火で葦が焼け燃え盛ったという伝承から「焼津」と命名された。】

遠洋漁業や水産加工業が有名で、中でも漁獲量の多い「マグロ」や「かつお」は、市内の至る所で目にすることができます(笑)

焼津漁港で水揚げされる魚たちは太平洋だけでなく、噴水の水浴びもやっちゃえば、温泉にだって入ります。

そして何と言ってもすごいのは、焼津のカツオは・・・・なんと!!空を飛ぶのです(^^;)・・・なんか焼津市のプロフィールからどんどん遠ざかる。

キャッチフレーズは「人がキラリ 海がキラリ まちをキラリ ~活力と自然の恵みに満ちたまち 焼津~」

明治22年(1889)、町村制の施行により益津郡焼津村・西益津村・東益津村・広幡村・大井川町が発足。志太郡豊田村・藤枝町・大富村・静浜村・ 相川村・吉永村・和田村・小川村が発足。

1896年、郡制の施行により志太郡・益津郡の区域をもって、改めて志太郡が発足。

1901年、焼津村が町制を施行、志太郡焼津町となる。

1951年、焼津町が市制を施行、焼津市となる。

1952年、小川村が町制を施行、志太郡小川町となる。

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1953年、焼津市が志太郡豊田村を編入。

1954年、藤枝町と西益津村が合併、改めて志太郡藤枝町が発足。

1954年、焼津市が志太郡藤枝町大覚寺上・大覚寺下地区を編入。

1955年、焼津市が志太郡東益津村、小川町、大富村、和田村を合併。

1957年、焼津市が志太郡広幡村越後島地区を編入。

2008年、焼津市が志太郡大井川町を編入、現在に至ります。

マンホールには、太平洋を回遊する魚群、荒波から顔を出す「かつお」が鮮やかに描かれています。

 
 
 

中央に「市の木:黒松」と「市の鳥:ユリカモメ」、その周囲を沢山の「かつお」が回遊しています。

「富士山」と「白波」海面をはねる「カツオ」のデザインは、マンホールカードにも採用されました。

 

プラ汚水枡のデザインは、「富士山」と「波」「カツオ」、「ユリカモメ」です。

昭和27年11月制定の市章は「カタカナの「ヤイヅ」を図案化したもので、市民の協力と伸びゆく市勢を象徴しています。」公式HPより

火消し半纏が描かれたカラー消火栓。背中には焼津市の市章、左右に纏が描かれています。

焼津市の市章がある「温泉」用の小型蓋。

焼津市の消火栓は他に、市章のあるもの、自治体名だけのものなど場所によって色々です。

 

花沢の里で見かけた「逆止(ぎゃくし)弁」(流体の背圧によって体が閉じて逆流を防止するもの)

「東海ガス株式会社」のガス専用蓋。

焼津市マスコットキャラクターはカツオの『やいちゃん』。かたくちいわしとトマトが大好物です。この巨大な『やいちゃん』を撮るにあたっては、焼津市観光協会の皆様の暖かいご協力を頂きました。おかげで貴重な横顔もばっちり、わがままに真剣に付き合って下さいました事、個人の小さなブログ上ですが、心からお礼申し上げます。 

「焼津市観光協会」のスタッフの皆さんは、とても温かい心の方達ばかりで本当にほっと寛げる場所です。焼津に行かれた際には是非立ち寄ってみてください(⌒∇⌒)

撮影日:2011年11月&2016年12月&2018年11月

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2017年12月9日、第6弾として全国64自治体で66種類(累計252自治体293種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。焼津市のマンホールカードは焼津駅前にある「焼津市観光協会」で頂けます。

1993年に設置開始されたマンホールには「富士山と荒波」と、日本で一・二の水揚げを誇る「カツオ」が二匹デザインされています。

【焼津市は遠洋漁業の基地として、主にカツオやマグロ、近海・沿岸のアジ・サバなどが水揚げされる焼津漁港を中心に、古くから栄えた港町です。 焼津漁港は、水産業の振興上特に重要な漁港を指定した「特定第三種漁港」のひとつに数えられ、その水揚げ量は全国有数。 特にカツオの水揚げ量は国内一、二を争うほどです。 焼津市のマンホール蓋には、焼津漁港の背景にそびえる「富士山」と「焼津海岸の白波」、そして、海面をはねる活きのいい「カツオ」をデザインしました。 市内には富士山のビューポイントが多数ありますので、マンホール巡りと一緒に楽しんでみてはいかがでしょうか。】

訪問日:2018年11月14日

 

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由比本陣公園・由比宿 in 静岡市清水区由比

2019年01月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

「由比」と聞いて真っ先に思いかんだのは、浪曲や講談などで知られる『由井正雪』。 私の父はそうした演芸が好きで、いつも側に置いてあるラジオから流れてくる演目に嬉しそうに聞き入っていました。
長じて、『由井正雪』を悪として描く内容の映画やドラマばかりが目立つようになり、心のどこかの「なんか違う・・」という思いが手に取らせた『山本周五郎』「正雪記」。むさぼるように読んだ記憶があります。

今回、思いがけなくも、その『由井正雪』の生家とされる染物屋「正雪紺屋」の前に立つことが出来て、何と言うか・・感無量。 江戸時代初期から四百年も続いているという紺屋(染物屋)ですが、その佇まいは至って普通。あまりにも普通過ぎて何度も行き過ぎそうになる程・・ごく普通に見かける佇まいなのです。

思い切って店内に入らせて頂いてまず目につくのは、土間に並ぶ「藍甕(あいがめ)」。長い年月に染み込んだ藍の残り香が見えるような、なんだかそこだけ時間が止まったような不思議な空間。結局、正雪は家業を継がず、江戸に出て軍学者として名声をあげ、浪人救済のために徳川幕府の転覆を企てるも果たせず自刃して果てるのです。一介の商人として生きるにはあまりにも聡明過ぎたのかもしれません。

ここは東海道53宿・16番目の宿場町「由比宿」・・だった地。街道沿いの町の中心部が宿場町といわれており、およそ700人の人が住んでいたといいます。参勤交代の大名の宿として設けられた本陣跡は、今は「由比本陣公園」として整備され、自由に立ち入る事が出来ます。

本陣跡地に建設された「東海道由比宿交流館」は、江戸文化に触れる!を目的とし整備された施設。無料で開放されており、由比の歴史や観光情報に触れる事ができます。

時代劇に良く出てくる日本橋を眺めながらの記念撮影は、旅の素敵な思い出(*^^*) ちなみに羽織っている半被に染め抜かれているのは、桜海老と富士山、例の由比町シンボルマーク。

公園内には「本陣井戸」なども残されており、地味ですがそれなりに見所はあります(笑)

また北西の角にある離れ座敷は、「由比本陣記念館・御幸(みゆき)亭」として復元されたもの。「茶室・結仁斎」がしつらえられており、明治天皇が3度にわたりご休息されました。

「明治の郵便局舎(平野氏宅)」折角の美しい建物なのに、黒板塀の向こうで何にも見えないなんて、誰や?この写真写したの!って・・私ですやん (>_< ) 駆け足での立ち寄りでしたが、今度はもう少し余裕を持ってじっくりと歩くのも有りだね。 由比宿で脇本陣を勤めた「饂飩屋」とか、全然気づかなかった「清水銀行由比支店本町特別出張所」とか・・・

昭和初期に建てられた建物を改装したという「和紙と錦織の館」には、興味深いお土産が一杯。

お土産と言えば、由比は桜海老がとにかく有名。「ゆい桜えび館」にももう少し時間をとって寄ってみたかったなと・・ 楽しい旅が終わった後について回る「し残した、あれもこれも」今回も、忘れずもれなくついて来ました(笑)

だからもう一度来ようと思える、それは計算外の面白さに出会えたという何よりの証拠。そういえば、おもしろ宿場館の入り口にいた「弥次喜多コンビ」。一体誰を呼んでいるんだろう?

訪問日:2011年11月12日

 

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ご当地マンホール in 静岡県旧由比町(静岡市)

2019年01月15日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・静岡県

旧庵原郡由比町(ゆいちょう)は静岡県の中部に位置し、歴史地理学的には関東政権(江戸・鎌倉・小田原)と東海政権(駿府)の境界となってきた町です。静岡市、富士川町、芝川町に隣接。「東海道の親不知」と呼ばれる断崖に位置し、江戸時代には東海道由比宿の宿場町として栄えてきました。現在では、サクラエビとシラスの漁業基地としても有名で、桜えび漁の許可証をもつ船は、由比・蒲原・大井川地区の合計で 120隻ほどであり、国産の桜えびは、100%駿河湾で水揚げされたものになっています。歌川広重:由比の浮世絵には、難所を越える旅人や、駿河湾・富士山などが描かれています。「町の木:モクセイ」「町の花:桜」「町の鳥:鶯」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、庵原郡由比宿と近隣10ヶ村が合併し、由比町が発足。

2008年11月1日、静岡市に編入、清水区の一部となりました。

独自のマンホールはありませんが、桜海老と富士山がコラボしたデザインの仕切弁があります。

この富士山と桜海老のデザインは、由比町のシンボルマークだったのでしょうか?町章代わりのように防火貯水槽に使われています。

これは由比本陣公園で見かけた絵ですが、富士山が擬人化した以外は上のデザインとほぼ同じに見えます。

昭和25年2月18日制定の町章は「ミカンの花の中に「由」を描き、雄蕊を11個を配し、周囲にカモメを象徴したものです。11個の雄蕊は、町村制に伴って合併した11の町村をあらわしています。」合併協議会資料より

失われてゆく旧自治体の町章が残された蓋類を見つけると、それが何であれ非常に嬉しいです。

中央に自治体名が記された防火貯水槽の蓋ですが、今は存在しない町名がある・・これも私のような物好きには貴重です。

最後はピンクの桜海老が可愛い、由比町商工会のマスコットキャラクター『さくらゆいちゃん』。 左手のハートのステイックは「幸せを呼ぶ」魔法のステックなんだそうですよ(*^^*)

撮影日:2011年11月12日

 

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蒲原界隈見て歩き in 静岡市清水区蒲原

2019年01月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

東海道五十三次15番目の宿場「蒲原宿」。旧東海道沿いには僅かですが伝統的な町屋が点在します。
静岡市清水区蒲原3丁目にある「志田(しだ)邸」。屋号を「やま六」といい、蒲原宿内で米・塩・油等を扱い、江戸後期には醤油の醸造も手がけていました。 主屋は嘉永7年(1854)の安政地震によって大きく被災しましたが直ぐに修復、現在に至っています。

主屋内は店の間・中の間・居間・と続き、「通り土間1列型」の典型的な町屋形式。 しとみ戸・箱階段がある店の間は、今日まで電気を引いた事のない、安政建築そのままの貴重な内装が見られます。

店の間の一角を占める飾り棚には、何世代もの時代を経た幾体もの「天神雛」が飾られています。 上巳の節句(3月3日)は、古くには男女の差別なく、身を清め成長を願う日とされていました。 男の子には天神人形を贈る習慣があり、5月の初節句よりも早く、天神さんを飾り祝ったそうです。

面白いと思ったのは、内裏雛の男雛は衣装も何となく男性らしいのに対し、天神様は、冠に黒いお髭が無ければ女雛と間違えそうな色あいの衣装だと言う事。何時の時代の天神雛なのか見忘れてしまいましたが、それにしても興味深い貴重なものを見せて頂きました。

志田邸の斜め向かいに、ひときわ目を引く薄水色の、瀟洒な洋風建築の建物があります。

街道沿いに建つ「旧五十嵐邸」は、大正期以前に町家建築として建てられた住宅でしたが、大正3年に、当時の当主『五十嵐準氏』が歯科医院を開業するにあたり、町家を洋風に改築。 その後昭和15年ごろまでに、西側・東側部分をそれぞれ増築し、現在の形になりました。

玄関に施された軒蛇腹(のきじゃばら)や、軒下の歯型飾りなど、洋風の意匠は一見の価値あり。この美しい「旧五十嵐歯科医院」は、先の「志田家住宅主屋」と共に、登録有形文化財に指定されています。

これはたまたま町並みの中で見かけた「五十嵐歯科医院」。建物はもしかしてその後の五十嵐邸かな?。

かっては「蒲原御殿」と呼ばれた建物も今は無く、「御殿道」の名称のみが残された街道筋。 往時を物語るのはわずかな文献のみとなりましたが、それでもそれらは確かに存在していたのです。

訪問日:2011年11月12日

 

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上山(うえのやま)神社 in 静岡市清水区蒲原

2019年01月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

鮮やかに色づいた蜜柑畑が広がる一画、静岡市清水区蒲原小金に鎮座される「上山(うえのやま)神社」

御祭神は『淤母陀琉神(おもだるのかみ)・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)』。オモダルとは「完成した」の意、アヤカシコネはそれを「あやにかしこし」と美称したもの。 二神は人体の完備を神格化したものであり、オモダルは男神、アヤカシコネは女神とされます。

由緒に【創建年月不詳なるも、天平勝宝二年(紀元1410)奈良東大寺の大佛を鋳造するため、全国司に黄金を献ずる旨を命令し、時の駿河の國司楢原造東人等部内葦原多胡浦浜に於て、黄金を獲て之を献じ(続日本記)黄金を獲た処を小金村と称し(大日本史)と古書にあるので、それ以前に鎮座せしと思料する。】

本殿、玉垣前の左右より神域を守護されるのは、大きな鼻が特徴的かつ個性的な尾流れの狛犬さん一対。 よい具合に苔のついた台座には「大正二年九月吉日建立 石工・加藤萬吉」の刻。

阿吽いずれも独創的で素晴らしい狛犬さん・・・なのですが、あまり真正面から直視されたくない(^^;) 暗い所で見たら絶対に!泣く自信がある。

取り合えず三十六計逃げるにしかず

してやったりと、小憎らしくも楽しそうに顔を見合わす阿吽の一対・・(笑)負けた感が半端ないのが悔しい(ーー゛);

久しぶりに狛犬さんで遊んでみました(^-^)

参拝日:2011年11月12日

 

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若宮神社 in 静岡市清水区蒲原

2019年01月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

静岡市清水区蒲原、御殿山南西麓に鎮座される「若宮神社」。御祭神は『品陀和気命(ほむだわけのみこと)=(応神天皇)』

鎮座地は元蒲原御殿があった場所とされ、井戸を掘った際に石積や松の丸太などが地下2m余りの所から発見されたと云われています。一の鳥居をくぐるとすぐに、二の靖国鳥居。その奥に拝殿。境内には由緒などを記したものは何も無く、創建や由来などは不明。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、異星人的容貌の不思議な雰囲気を持った尾立の狛犬さん一対。「大正二年(1913)十月」の刻。 全体的にすっきりした線の所為か、顔立ちの異様さに似合わずおとなしい印象。

出来の良い美味しそうな筍を連想させる尾・・(^^;)

拝殿の裏側から本殿へいたる石段・・見上げた私たちはこの場で拝礼をし、即効で回れ右(^^;) 決して万全ではない病もちの私には、よほどの事でもないとこういった冒険はおかせません(笑)

参拝日:2011年11月12日

 

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