車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 千葉県南房総市&旧富浦町

2019年05月11日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

南房総市(みなみぼうそうし)は関東地方および千葉県の最南端、房総半島の南端に位置する市です。2006年3月20日に、安房郡富浦町、富山町、三芳村、白浜町、千倉町、丸山町、和田町が合併し発足しました。館山市、鴨川市、安房郡鋸南町に隣接。市域北部には県下最高峰の愛宕山(408m)をはじめ、富山(349m)など300メートル以上の山が連なり、西側には東京湾、東側及び南側には太平洋と3方を海に囲まれており、海岸線は「南房総国定公園」に指定。

キャッチフレーズは「ひと・ゆめ・みらい 地域で創る魅力の郷 南房総」

南房総市には、新旧いずれの自治体にもデザインマンホールはありません。わずかに、南房総市の市章の規格蓋を一種類見つけただけ、でも有っただけラッキー。

2015年9月16日制定の市章は「7つの地域を広がりのある花びら7枚にたとえて、南房総の暖かい春のイメージを図案化したものです。南房総市の夢と希望が自然と共存し発展する姿を表しています。」公式HPより

自治体章がついた上水道関連の蓋は仕切弁と消火栓の五種、それも上出来。

南房総市イメージキャラクター『みなたん』。白浜地区の海女さんがモデルで、南房総の海の幸と房州びわが大好物。愛されるキャラクターを目指して南房総市をPRしています。

撮影日:2014年5月24日&2019年3月6日

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旧安房郡富浦町(とみうらまち)は千葉県の南、房総半島の南部に位置した町です。 館山市、安房郡:富山町、三芳村に隣接。町域の西は、南北10kmにわたり東京湾に面し、残る三方は山に囲まれた地形。北部には木の根峠を通る東西の山脈、東部には青木山を含み南北に走る200m級の山脈、南部には堂山を通る東西の小丘陵があり、町域北部は数千年前から隆起を繰り返してきた段丘が形成され山が迫る地形となっています。岡本川とその支流は東部の八束地区に河岸段丘を、下流部に平野を作り出して富浦湾に注ぎます。町名は、豊富な海産に恵まれる事を願って新たに定められた「瑞祥地名」。「町の木:ビワ」「町の花:菜の花」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、平郡富浦村・八束村が発足。

1897年、郡制の施行により、平郡・朝夷郡・長狭郡の区域をもって安房郡が発足。

1933年、安房郡富浦村が町制を施行、富浦町が発足(初代)。

1955年、安房郡富浦町と八束村が合併、改めて安房郡富浦町が発足。

2006年、富山町・三芳村・丸山町・和田町・千倉町・白浜町と合併、南房総市となりました。

新しい市庁舎が置かれた富浦町ですが、マンホール類は国土交通省のものがあったのみ。

折角調べた物なので・・昭和53年11月4日制定の町章は「「と」を三つ巴にし、町の名産であるビワの形にしたもの」

雨の中をせっせと探した挙句が、上水道関連も自治体章の無い完全な規格蓋のみと惨憺たる結果に終わりました。

富浦町は生産量日本一の「房州ビワ」の産地で、季節には多くの直売所が並ぶそうです。富浦駅前の壁には、キャラクターらしき可愛い少女と、房州ビワが情緒的に描かれていました。

前回&今回立ち寄った「道の駅:とみうら」の記念スタンプは「枇杷倶楽部」の文字。

そう言えば、富浦にはもう一ヶ所「道の駅:おおつの里花倶楽部」が有りましたが、スタンプ台が古いと記念スタンプも残念な状態

でもそこで生まれて初めて見た白い極楽鳥花は、感動でした。

撮影日:2014年5月24日&2019年3月6日

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鋸南町~あちこちウォッチ in 千葉県鋸南町

2019年05月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

鋸南町竜島、弓形に広がる美しい竜島海岸の一画に「頼朝上陸の碑」が二基、建立されています。

5年前に立ち寄った鋸南町は「道の駅」と「番屋の湯」のみ。このような史跡がある事も知りませんでした。 こちらの碑は時代と歴史が感じられるもので、おそらく建立当初のものであろうと思われます。

千葉県史跡に指定されており、その案内には【治承4年(1180年)、石橋山の戦いに敗れた源頼朝は箱根別当にかくまわれた後、現在の神奈川県真鶴町から出航。安房国平北郡猟島(現在の竜島付近)に到着。ここから再起を図った。】とあります。

キラキラと輝く房総の海、竜島海岸の沖合いに見えるのは、鋸南町の東京湾に位置する「浮島」。日本書紀:景行天皇紀にも登場する、古の伝説を有する島と云われ、その内容はとても興味深いものです。

その浮島の一つに大きく穴の開いた岩があり、それが何とも不思議な感じで向こうに続いています。 あそこに夕日が沈んでいく様子はきっと綺麗だろうな・・と思ったら、本当に夕日スポットでした 😍
もしかしたら、再起を図った『源頼朝』も、この浜辺から同じ景色を見たかもしれません。

『頼朝』の名前が出たところで紹介するのが「頼朝桜」。実は鋸南町では「河津桜」を頼朝桜と呼ぶんだそうです。
頼朝上陸の史実にちなみ、河津桜に「頼朝桜」の愛称をつけ、日本一の桜の名所とすべく取り組んでいるとか。 実は私、この説明を読むまで「頼朝桜」という種があるんだと思っていました 😅

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鋸南町に新しく誕生した「道の駅:保田小学校」、道の駅大好きな私の要望に応えて、ご亭主殿、頑張ってくれました。
まだ開設されて間もない道の駅は、幟も建物も、地面の芝生まで新しくて綺麗。ついでに二宮金次郎さんまできれいなのは新調したのかな?? 

「地すべり防止区域」の指定を受けた地区で収穫される「地すべり米」とか、突っ込みどころ満載で見飽きません。確かに希少価値は高いだろうなと思わず納得したり、でもこれはダメです!いくらランドセルしょって可愛くても「猫も食べられます!」って😱・・・ぜぇぇぇったいにダメ!!猫は食べちゃダメ!!  え?意味が違うって?

学校の怪談で一躍有名になった「トイレの花子さん」「保田小のおばけスナック」という商品の顔になりました。 同時発売の「保田小のよいこスナック」も、通学先が学校ではなく道の駅だったと言うコンセプトは同じなんですが、反応が違いすぎて笑えます。

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この不思議なレリーフは鋸南町役場の玄関入ってすぐの正面、壁一面にあったものの一部。 最初は何か分からなかったのですが、じっと見ていると「鯨の口」部分であると分かりました。

かなりの大作だと思うのですが、現状はこんな残念な状態になっていて全容は不明です。 もしかして反捕鯨団体などと言う「🐴馬🦌鹿」な団体に考慮して隠しているので無ければ良いのにと、そんな事を思ってしまいます。
鯨漁は日本人の食に切っても切れない大切な生計の手段であり、それはまた独自の文化だったものです。

敷地内に置かれていたさび付いた「捕鯨銃」を見ながら、言葉に出来ない苛立たしさを感じた事は否めません。

訪問日:2019年3月5日

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2014年5月25日の鋸南の立ち寄りで、唯一観光地らしい画像が、この「見返り美人」の銅像。 記念切手にもなったあの有名な「見返り美人」、まさかこの地で出会えるとは夢にも思っていませんでした。

2014年5月の千葉県への車泊旅では「道の駅:きょなん」にて車中泊をさせていただきました。 施設内に有った「菱川師宣記念館」「見返り美人の像」等々、今も懐かしく思い出されます。

車で旅をする私達にとって、こうした施設は、本当にありがたく大切な場所です。

改めて、その折は有難うございました🙏🙏

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ご当地マンホール in 千葉県鋸南町

2019年05月09日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

安房郡鋸南町(きょなんまち)は千葉県南部の房総半島の西南、安房地域に位置する町です。北は富津市、東は鴨川市、 南は南房総市に隣接。南房総地域観光圏の観光都市であり、海岸部は南房総国定公園に指定。日本三大水仙群生地として、また、絵師『菱川師宣』の出身地としても知られています。中央部以東は狭い山間地帯で、中央部以西は海岸に向かって平坦地となり、最西端に市街地が展開。町域の竜島の海岸一帯は『源頼朝』が再起を図って上陸した地として史跡に指定。町名の由来は「鋸(のこぎり)山の南部」に位置する事から「鋸南」としました。「町の木:椿」「町の花:日本水仙」を制定。

キャッチフレーズは「みんなでつくる 三ツ星のふるさと・鋸南」

明治22年(1889)、町村制の施行により、平郡勝山村・保田村が発足。

1896年、平郡勝山村が町制を施行、勝山町(初代)となる。

1897年、平郡保田村が町制を施行、保田町となる。

1897年、郡制の施行により、安房郡・平郡・朝夷郡・長狭郡の区域をもって、改めて安房郡が発足

1955年、安房郡勝山町と佐久間村が合併、改めて勝山町(2代目)を新設。

1959年、勝山町と保田町が合併、安房郡鋸南町が発足。

昭和50年(1975)10月27日制定の町章は「「「キョナン」・「き」を意匠化し、中心に配置したものです。」

上水道関連の制水弁・空気弁・消火栓。

鋸南町イメージキャラクター 『みかえりちゃん』。珍しく和服が似合う美人キャラです。モデルはもちろん、鋸南町のシンボルにもなっている師宣の代表作「見返り美人」。三次元の着ぐるみ『みかえりちゃん』画像もあるのですが、この手のキャラを三次元にするのは・・・😅

撮影日:2019年3月5日

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富津市内~あちこちウォッチ in 千葉県富津市

2019年05月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

富津市内のあれこれも、きちんと紹介すればもっと内容の有る場所だと思うのですが、マンホールと狛犬さんに予定を占拠される我が家の車泊旅😅 そんなこんなで、前半は2014年5月の訪問時、後半は2019年3月の訪問時からチョイスしてみました。
東京湾にグイっと突き出した「富津岬」。ここからだと東京湾内が一望できると聞いてやって来ました。富津岬の先端には「明治百年記念展望塔」も有るとこのことでしたが、何と!周辺はゴミの山。 ちょうどゴミ収集に来た方に、前日まで「Re:birth Festi」が行われていたと聞きました。 どのような催しかは知りませんが、粗大ゴミの山と化した海岸一帯は見るも無残な有様(これでも写真の為に目立つ大ゴミをどかせました)。

五葉松をかたどった展望塔は、東京湾が一望でき関東の富士見百景にも選ばれています。 ゴミの山を掻き分け😓、ありったけの根性を振り絞って、途中まで登ってみましたが・・ そもそも高い場所は死ぬほど苦手な私、まして足の下は階段状なので、下の地面が見える😱

怖怖の目線の先に見えたのは、明治23年に軍事用の要塞として造られた人工島「第一海堡」。 島の後方にぼんやりと見えている風景は、「神奈川県の横須賀市」だそうです(*゚0゚)
ご亭主殿が色々と説明してくれるのですが、お願いですから握った腕を動かさないで下さい😭

ソロッと半回転した先には、曇り空の下、灰色の海に腰まで浸かって潮干狩りをする人たちの姿。 潮干狩じゃなく、海中狩だよね・・と、ただただ「すごいなぁ~」としばらく見ていましたが・・
今となっては、吹き付ける風の強さと、透けて見える足元の恐怖しか記憶に残っていません。

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東京湾を一望できる大坪山の山頂に建つ、高さ56mの『救世観音像』「東京湾観音」として知られています。 昭和36年(1961)に、平和祈念と戦没者の慰霊を目的として『宇佐美政衛氏』によって建立。 観音様の胎内には、天上界へと続く「324段のらせん階段」があるそうですが、324段のらせん階段と聞いた時点でパス!!!。

説明に【観音像は、仏像彫刻家である『長谷川昂(こう)』氏が、奈良の法隆寺夢殿に座す『救世観音』をイメージし、「仏教伝道の最終地点を千葉にしたい」との思いを込めて、原型を制作しました。】
初見ではその巨大さにただただ驚くばかりでしたが、近くに寄って驚きはさらに増します。

さすがにこれだけ巨大だと、見上げるばかりで、その端正なお顔を想像するのはかなり難しいのです。 でも絵馬に描かれたお顔は優しく穏やかで、見つめていると自然と心が和むのがわかります。

ちなみにこの高台からは、お天気がよければ絵馬に有るように富士山が見えると有りました。でも日頃の行いの所為なのか、生憎のこんな空😓
大体において静岡・山梨以外で、「見える筈」と言われた場所で富士山が見えた試しがありません。

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全く予定外に思いがけなく良い佇まいを見つけると、押し押しのスケジュールをつい忘れてしまう二人😅
店構えに惹かれて立ち寄った「タマサ印・宮醤油店」、天保五年(1834)創業の老舗の醤油店です。

お醤油の香りと言うのは、日本人の感性にとてもマッチするのでしょう・・ついつい誘われて店内に。 入ってしまうとつい品物を手に、手にとってしまうとついお財布を取り出し・・つい、買っちゃいました。
数日後、スーパーで買ったお刺身にこのお醤油はとても美味だったと、ご亭主殿、とてもご機嫌でした。

訪問日:2014年5月25日

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これは2019年に通りがかった際に写したものですが、よほど印象深かったのかすぐ何処だったかを思い出せました。 この時は流石に立ち寄りませんでしたが、お気に入りのお店が健在なのは嬉しい限りです。

富津市役所の敷地内に、『小林一茶』の恋人とも呼ばれていた『織本花嬌』の句碑。【かた羽つつ 時雨ほすなり うの夕日】

『一茶』と『花嬌』の出会いを紐解いてゆくと、色々と興味深い内容で、心惹かれます。 またどこかで、この二人に関する句碑などを見つける事が出来た、その時には・・・・

訪問日:2019年3月5日

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竹岡のヒカリモ(黄金井戸) in 千葉県富津市

2019年05月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

富津市萩生・竹山地内に、我が国最初の「ヒカリモ」の発見地とされる黄金の井戸があります。二度目の千葉県訪問では、是非とも自分の目で見たいと思っていた場所なので、念願が叶いました。
「黄金井戸」の鳥居を挟んで左右には「大日堂」「龍神堂」、何故か新しい恵比寿像も・・・。

お堂や洞窟の周囲には沢山の石仏が奉納されており、見れば崖のそこかしこにも点在しています。 洞窟内には弁財天が祀られているという事なので、昔は何処かの寺院の境内だったのかもしれません。

「竹岡のヒカリモ発生地」は高さ約3m・奥行10mの海食洞で、洞窟内には弁財天の祠があります。 かっては直ぐ近くまでが海だったようで、この洞窟も海の波風によって作られたと云われています。

ところで弁財天の祠の横に奉納されていたこの像は一体何を表しているものでしょうか? 水をつかさどると言う事で龍神信仰とも対をなす事が多いのですが、龍神とも思えません。考えられるとしたら、倶利伽羅竜王(くりからりゅうおう)かな・・

疑問はさておき、「ヒカリモ」は洞穴などの水溜りに群生し、外光を反射して黄金色に輝く藻の一種です。 一個の単位は顕微鏡でないと見えないと言う事ですから、まさにこの状態は大群生と言えます。
洞窟内の水深は約70センチなので、水溜りと言うよりもやはり井戸の方が似合いそう。

このヒカリモが更に黄金色に輝くのは4~5月頃、鮮やかな黄金色が水面一杯に広がるそうです。 私たちが来た3月では小金色とは言い難いですが、それでも全体がかなり黄みを帯びていました。

説明版に寄ると【「竹岡のヒカリモ発生地」のように毎年多量に発生する所は他になく、我が国最初の発見地として、指定基準「池泉等の珍奇な微生物等の生ずる地域」に該当し、昭和3年(1928年)11月30日、国指定天然記念物に指定されました。】とあります。
何にせよ、世の中にはまだまだ見たことも無い不思議なものが一杯有ると再認識させられました。

訪問日:2019年3月5日

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鶴峰(つるみね)八幡神社 in 千葉県富津市

2019年05月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

富津市八幡に鎮座される「鶴峰(つるみね)八幡神社」。御祭神は『誉田別尊・玉依姫命・神功皇后』
上総国天羽(あまは)郡の総社で「鶴八幡宮・鶴八幡宮」とも称される古社です。

社伝に【奈良時代の養老年間(717-724)の創建と伝える。鎌倉時代初期に源頼朝・上総介広常による神領の寄進があり、中世には上総武田氏、里見氏の尊崇を受けた。】

参道には、昭和生まれの一番若い狛犬さんを筆頭に、三対の狛犬さんが神域を守護されています。

昭和34年9月15日建立の狛犬さん、流れる尾の形が独創的なのは、石工の拘りでしょうか?

天保8年(1837)3月吉日建立の江戸流れさん、阿吽共に、前足の下で仔狛を遊ばせています。 その所為でしょうか?どとらも柔和で優しく、見ているこちらが嬉しくなるような一対です。

子狛を連れている狛犬さんは、私の気持ちを反映しているからか、総じて顔立ちが優しく見えます。こういうのをエコヒイキと言います😊

文化2年(1805)8月建立の狛犬さんは、メタボな体系でちょっと短足。何故か親近感を覚える一対。

いわゆる「おかっぱ頭」に綺麗にそろえたカール・・これが200年以上前に作られたんですよね。 石工の独創性が際立つ一対で、こういう狛犬に出会えるのも、寺社巡りの醍醐味😊

「境内社:浅間神社」。鳥居の向こうに「富士塚」があり、両脇に石碑が建立されています。

その昔この辺りの海は大風濤(ふうとう)に見まわれ、いつ凪るとも知れず、漁師たちは大変困窮していました。そこで打ち揃って、八幡大神の神助を祈願したところ、その御加護があって忽ち風濤が収まったと言います。
奉納された沢山の碇は、「八幡大神」への加護を感謝する、漁師町の鎮守様らしい光景です。

拝殿・本殿共に鮮やかな丹が施された建物は、「関東の三鶴八幡」でない事が不思議なほど・・などと生意気な事を書いていますが・・
ちなみに「関東の三鶴」とは、鶴の名を冠する三つの八幡神社・八幡宮の事で、鎌倉の「鶴岡八幡宮」、館山市八幡の「鶴谷八幡宮」、市原市中高根の「鶴峯八幡宮」。で・・実はいずれにも参拝したことがありません😅

参拝日:2014年5月25日

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金屋(かなや)神社 in 千葉県富津市

2019年05月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・茨城県

富津市金谷、鋸山ロープウエイ入口に鎮座される「金屋(かなや)神社」。御祭神は『豊受姫神・金山彦神・日本武尊』

「養老4年、外宮より豊受神を勧請して、地主神、金山彦神と併せて鎮祭したと伝える古社。当地は古来砂鉄や石材の産出した事から野鍛冶や石材業の信仰厚く、境内社鐵尊神社と共に金谷の鐵尊様として崇敬を受けている 」

社伝に【ご神体の「大鏡鉄」は、室町中期の文明元年(1469)、金谷神社の西方550mの海中から引き上げられたものと言われる。直径160cm、厚さ11cm、重さ1.571tで、二つに割れている。「大鏡鉄」という呼称は、日本武尊が東征の際に船首にかけた鏡に由来すると伝えられている】(ガラス越しのため、二人の体で影を作って撮影)

様々な分析の結果、たたらで製鉄されたものではあるが、本来の用途や制作年代は不明との事でしたが、最近の研究により、砂鉄を原料に「たたら」製法による日本最古の塩釜であることが判明したそうです。

拝殿前より神域を守護されるのは、安政4年(1857)4月吉日建立の、関東初の備前焼狛犬さん。作者は「備前国伊部住・木村盛治清近造之」、こんな所で故郷の狛犬さんと巡りあえて感激。 もしかしてこの狛犬たちも「五大力船」にのって、備前からここまで運ばれてきたのでしょうか。

この独特の「ドヤ顔」😆 。貫禄たっぷりの姿勢は、さすが備前に名だたる名工の作です。

木鼻の獅子は阿吽共に鋭い眼光で、備前焼の獅子に喜ぶ私たちを笑って見下ろしています。何か言いたげな口元は・・俺たちだってイカしているだろう?ですか 😅

参拝日:2014年5月25日

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ご当地マンホール in 千葉県富津市

2019年05月04日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

富津市(ふっつし)は千葉県の南部、房総半島の中西部東京湾側に位置する市です。君津市、鴨川市、安房郡:鋸南町に。また海を隔てて神奈川県:横須賀市に隣接。南北40kに及ぶ海岸線と、緑豊かな鹿野山、切り立った崖の鋸山など豊かな自然に囲まれ、東京湾に突出した富津岬は、関東の天の橋立といわれ南房総国定公園にも指定されています。富津岬の最先端にある五葉松をかたどった展望塔は、東京湾を一望できるだけでなく、冬に空気が澄んだときは富士山をくっきり観ることができます。また、ここから観る富士山は絶景で、関東の富士見百景に選ばれています。

富津の名は、古い港の「古津(ふるつ)」。『弟橘姫』の着衣の一部が海岸に流れ着いたことに由来する「布流津(ふるつ)」。富津岬を刀と見て、霊力と結びつけ、刀を振った際に発する「ふつ」があげられています。

毎年7月に開催される富津の花火大会が有名で、庁舎には沢山の花火玉が展示されています。「市の木:桜」「市の花:ツツジ」を制定。

キャッチフレーズは「躍動とにぎわい 安らぎとふれあいの交差するまち ふっつ」

明治22年(1889)、町村制の施行により、周淮郡富津村・青堀村・飯野村、天羽郡佐貫町・大貫村・吉野村・湊町・金谷村・竹岡村・天神山村・峰上村が発足。

1897年、郡制の施行により、望陀郡・周淮郡・天羽郡の区域をもって君津郡が発足。

1897年、君津郡富津村が町制を施行、富津町となる。

1920年、君津郡大貫村が町制を施行、大貫町となる。

1926年、君津郡青堀村が町制を施行、青堀町となる。

1937年、君津郡大貫町が吉野村を編入。

1955年、君津郡大貫町が佐貫町と合併、大佐和町が発足。

1955年、君津郡富津町が、青堀町、飯野村と合併。二代目富津町が発足。

1955年、湊町、金谷村、竹岡村、天神山村が合併、君津郡天羽町(初代)が発足。

1963年、天羽町が峰上村と合併し、改めて天羽町(2代目)が発足。

1971年、君津郡富津町が大佐和町、天羽町と合併、市制を施行し富津市となる。

マンホールには、「東京湾と富士山」を背景に、未完成の「東京湾口道路」が描かれています。 何でも、アクアラインが先に出来てしまった為、予定していた橋の計画が据え置きになったそうです😅

昭和46年10月1日制定の市章は「フッツを図案化したもの「Vでフ、下の三線でツツ」を表しています。」公式HPより

上水道関連の蓋は仕切弁・制水弁・空気弁・消火栓とあり、いずれにも市章がついています。

富津市おもてなしキャラクター『ふっつん』は、「ふ」の文字をモチーフにして誕生。得意技の「ふふふスマイル」で、 富津市のいいとこをいっぱいPRできるようにがんばってます。

ご当地キャラといえば着ぐるみですが、この形の立体化は流石に無いですよねと案内の方に話したら、実はあるんですと、こっそり見せてくれました😲。さらに、着ぐるみの中の人は大きい人はダメなんだとか、だって頭からいきなり足ですから。ゆるキャラも、全体を考えて作成しないと大変なんだなと・・思わず考えさせられた内輪話です。

撮影日:2014年5月25日&2019年3月5日

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君津市内~あちこちウォッチ in 千葉県君津市

2019年05月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

室町時代に上総の武田信長によって築かれたという「久留里城(くるりじょう)」。別名「雨城・霧降城・浦田城」とも呼ばれ、戦国時代に里見氏によって再構築され、対北条氏の最前線を担っていました。 江戸時代には久留里藩の藩庁として整備され、近世城郭として明治維新まで維持されたそうです。 久留里城天守台跡には、昭和54年に浜松城模擬天守をモデルとした模擬天守が建造されています。 模擬天守は良いとして、何故浜松城(しかも模擬)だったのか・・・それより久留里藩当時の資料は一切無かったのでしょうか?

二の丸跡地に完成した資料館には「久留里」の歴史や民族に関わる様々なものが展示されています。 資料館前に建つ『新井白石像』、彼は久留里藩主『土屋利直』に仕えた事で知られる有名な学者です。

もう一つ、資料館前に展示された実物大の「上総掘り用具」。ご亭主殿が並ぶとその大きさが実感できます。

久留里城三の丸跡地には、実際に「上総掘り用具」の全容を見学できる場所があります。

「上総掘り」とは、千葉県の上総地方で考案された「掘り抜き井戸」の掘削技術の総称。 細長い鉄管と竹製のヒゴを用い、その自重と人力で帯水層にある地下水を掘り当てるのです。

久留里駅入り口にあるウエルカムアーケードは何とも可愛い「久留里城模擬天守」。 ここまでされると、モデルが浜松だろうと何処だろうと「良いか」という気持ちになりますね😄

城下の散策では、思わず足を止めてみたくなる、歴史を感じさせる建物にも出会えました。 時間に追われて急ぎ足で通り過ぎただけで、もう一度と思いながら、結局、二度目の訪問はありませんでした。

「道の駅:ふれあいパーク君津」では、久留里の伝統工芸、黒文字楊枝が実際に作られていました。 黒文字というクスノキ科の香木で作られた「雨城楊枝」、一度使うと二度と手放せなくなります。

近くの片倉橋には、「三島神社」の祭礼で奉納される「羯鼓(かっこ)舞」の像があります。 かっては雨乞いの為の奉納舞であったといわれ、その獅子面は龍神を現したものだそうです。

色々見所の有る君津ですが、江戸末期に千葉で初めてノリの養殖が行われた「上総ノリ誕生の地」。 その立役者となった『近江屋甚兵衛(じんべえ)』の像が、人見の青蓮寺境内に建立されています。

「君津漁業協同組合の解散記念碑」は、かつて主要産業であった漁業権の放棄により、臨海工業地帯の造成が進められ、次世代の産業が確立されたことを記し建立されました。

作者は不明・・【朝凪や 沖くろぐろと 海苔だたみ】沖黒々と・・その情景が目に浮かぶようです。

ほぼ駆け足状態で紹介した君津の散策、本当はもっともっと、素敵な場所も多いはずなのです。 でもそれは実際に訪ねて、自分の足で歩いてみないときっと見つけられない気がします。

訪問日:2014年5月24~25日

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六手(むて)八幡神社 in 千葉県君津市

2019年05月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

君津市六手に鎮座される「六手(むて)八幡神社」。御祭神は『誉田別命』

創建は不詳。鎌倉時代に「鶴岡八幡宮」から分社、古くは「鶴舞八幡宮」と称し、明治期に現在の「六手八幡神社」と改称。『源頼朝』に縁の深い神社とされます。

社務所に「鶴舞天神社:社宝・菅原道真神像」の写真がありましたが、境内に天神社があるのでしょうか?

絵馬にも「六手八幡神社」の文字と共に、この「菅原道真神像」のイラストが描かれています。 八幡様と天神様、同じ境内に同居される事はよくありますが、こういう場合はどうなんでしょう?

疑問はさておき、拝殿前より神域を守護されるのは嘉永9年(1856)建立の親子狛犬さん。 阿形さんは、ここでもやっぱり、仔狛にお乳を飲ませていましたが、同じ石工の作でしょうか?
一生懸命な仕草がとにかく可愛くて、モデルはもしかしたら自分の飼い犬の親子かもと想像してみたり。

向かい合った吽形さんの前足には大きな台が置かれ、その背中には可愛い仔狛がしがみついています。 とにかくどちらの親子も可愛く、繰り返しますが、犬でも猫でも、飼った経験の有る人なら理解できる愛らしさ。

このダランと伸びきった足、後ろから近づいても見向きもしない・・多分、親の背中にいる仔にとって、この世に怖いものなんて何も無い。

御神木と庚申碑

境内の入口に「山口素堂壱一門之句碑 ”天の原不二を一口茄子かな(素堂)” ”山風や椙(すぎ)をはなるゝ雪礫(馬光)” ”風の道知るや尾花の片ひつみ(素丸)” ”散るハ散る桜さとらぬ人斗(野逸)” 南面に大好きな芭蕉翁の句。【ほととぎす 消行かたや 嶋ひとつ】(時鳥が鳴きながら飛び去っていったはるかな沖合に、島影が一つぽつんとうかんで見える)句は須磨の鉄拐山からの海上の眺望とされます。 傍らの案内に上記の句の説明と、富津市の鈴木ご夫妻の奉納等が記されています。

参拝日:2014年5月25日

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