車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 千葉県長生村

2019年06月20日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

長生郡長生村(ちょうせいむら)は千葉県東部の長生地域に位置する村です。茂原市、長生郡:一宮町、白子町、睦沢町に隣接。千葉県内唯一の村。房総半島九十九里浜に面した海岸一帯は、県立九十九里自然公園内にあり、首都圏の海浜レクリエーション地として知られ、夏季には海水浴客でにぎわいをみせています。太平洋の黒潮による影響を受け、年間を通して温暖な気候を利用して作られる「長生(ながいき)トマト」や「長生メロン」が有名。「村の木:ラカンマキ」「村の花:ハマヒルガオ」を制定。

キャッチフレーズは「夢がある 生きがいを感じる、住んで良かった長生村」

明治22年(1889)、町村制の施行により、長柄郡高根本郷村・一松(ひとつまつ)村・八積(やつみ)村が発足。

1897年、郡制の施行により、長柄郡・上埴生郡の区域をもって長生郡が発足。

1941年、長生郡高根本郷村が高根村に改称。

1953年、高根村、一松村、八積村が合併、長生村が発足しました。

マンホールには村章を中心に、長寿のシンボル「亀と鶴」と、吉祥文様とされる「青海波」がデザインされています。

昭和46年(1971)1月12日制定の村章は「村名の頭文字「ち」を図案化したものです。」

上水道関連の蓋は「長生郡市広域市町村圏組合」知章の制水弁が二種と消火栓。

長生村合併50周年の記念イメージキャラクター『太陽くん』。ふりそそぐ太陽、九十九里浜の青い海をイメージして2003年に誕生。村の花の「ハマヒルガオ」を持ち、「自然あふれる緑豊かな村」をPRしています。(太陽くんの「ゆるキャラ(R)トレカ」は長生村役場2階企画財政課で配布)

撮影日:2014年5月22日&2019年3月9日

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八坂神社と波の伊八 in 千葉県睦沢町

2019年06月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

睦沢町上市場、中心部に程近い県道沿いに鎮座される「八坂神社」。御祭神は『素盞鳴尊』

【天文3年(1534)の創建と伝えられる。現在の社殿は、弘化4年(1847)に東浪見村の宮大工長谷川五郎右衛門により造営が始まり、嘉永2年(1849)に完成した。】境内案内より

拝殿は、正面に千鳥破風、向背正面に軒唐破風を持つ権現作り、各所に見事な装飾が施されています。

向拝上部の唐破風には、上市場村の領主であった『脇坂氏』の「輪違い紋」。 御神紋ではなく、当時の領主の家紋がつけられているケースは、珍しいかもしれません。

拝殿向拝には『三代目・武志伊八郎信密』が彫った「波の龍」。 この神社に参拝した目的、八幡様には申し訳ないですが「伊八の彫刻」が目当てでした。罰当たりでごめんなさい🙏。

裏面には「房州長狭郡打墨(うつみ)住 武志伊八郎信密 作之」の刻。興奮しすぎて😅、離れた位置に立ち、下から見上げるように全体を写すという初歩的な技法に思いが至らず、画像は分割。

宮彫師の銘はありませんが、木鼻の唐獅子・獏の彫刻も中々の迫力で、龍に負けていません。 左の木鼻の唐獅子・・・と伊八の龍の爪(笑)、さすがにこれは、細切れにも程がある😓

という事で、今度は右の木鼻の唐獅子と龍の爪、うっかりすると唐獅子の後頭部に刺さりそうな勢いですが、大丈夫なのか?

位置的な要素もあって、伊八の彫刻とセットになった唐獅子になりましたが、獏もまた素晴らしい。

向背を支える彫刻は松の中に羽を休める鳥、八幡様なので「鳩」かもしれません。

これは本殿の右手の脇障子にあった「唐獅子」の彫刻ですが、その表情に圧倒されました。 実は反対側にも対になった彫刻があったのですが、残念ながらその全容は磨耗して不鮮明。

社名もご祭神も不明の末社、それでも丁寧に手入れされた様子は、氏子で無い私達の目にも、とても心地良いものです。

同じく境内の一角に建立されていた二基の石碑。説明の類は無く、文字も謂れも一切不明。

かって関西の幾多の彫刻師から、「関東に行ったら波を彫るな」と言わしめた人物がいました。 波を彫らせたら日本一といわれ「波の伊八」の異名で関東にその名を知らしめた宮彫師。初代『武志伊八郎信由』は、宝暦元年(1751)、現在の鴨川市打墨に生まれました。 躍動感と立体感溢れる横波を初めて彫って以来、その作風は確立され、次代へと受け継がれ、『五代目伊八:高石伊八朗信月』(昭和29年・没)まで、200年間にわたって続きました。

もっと早くに彼の存在を知っていたなら、もう少し丁寧にその足跡を尋ねられたかもしれません。

参拝日:2019年3月8日

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ご当地マンホール in 千葉県睦沢町

2019年06月18日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

長生郡睦沢町(むつざわまち)は千葉県の南東部に位置する町です。茂原市、いすみ市、長生郡:一宮町、長南町、長生村、夷隅郡:大多喜町に隣接。房総半島の中央部よりわずか東南に位置し、沿岸は上総地区屈指の穀倉地帯として知られています。町域は関東平野に含まれ、町のほぼ中央部を埴生川・瑞沢川・長楽寺川が流れ、町の北東部で一宮川に合流し太平洋に流れます。西部は房総丘陵の端部で山林に長く深い谷津が伸びており、農業用水用の溜池が点在。地下には、豊富な天然ガスが埋蔵されており、冬でも0℃以下になる事が少ないのが特徴です。「町の木:梅」「町の花:サツキ」を制定。

キャッチフレーズは「きれいな水 豊かな土 支えあう人の和で築く ふるさと むつざわ」

明治22年(1889)、町村制の施行により、長柄郡土睦村、夷隅郡瑞沢村が発足。

1897年、郡制の施行により、長柄郡・上埴生郡の区域をもって長生郡が発足。

1955年、土睦村、瑞沢村、長南町森・長楽寺が合併、長生郡睦沢村が発足。

1983年、睦沢村が町制を施行、長生郡睦沢町となりました。

集排マンホールには「梅花型の中に町章と町の木:梅」の梅尽くし、周囲には「町の花:サツキ」がデザインされています。

デザインマンホールは集排地区だけで、町役場付近には何の変哲も無い規格蓋しかありません。下水道課の方、せめて町章だけでもつけて下さい😔

睦沢町役場の一画に「千葉県 基準点」と刻まれたコンクリートの蓋を見つけました。 専門的な知識のある人には、きっとこうした発見は面白いんだろうなと思います😊

昭和48年(1973)6月20日制定の町章は「白は睦沢町の頭文字カタカナの「ム」を正三角形の安定した形に収め図案化したもので、緑にあふれた青い空と清純な空気に恵まれた平和で明るい円満に発展する我等の睦沢町を象徴しています。昭和30年に、睦沢村章として制定され、町制施行後に町章として継承されました。」公式HPより

上水道関連の蓋は、「長生郡市広域市町村圏組合」の知章のある消火栓。

睦沢町マスコットキャラクター『うめ丸くん』。夜空に輝く「うめ星☆」から来た男の子。頭は町の特産品の「カリカリ梅」でできています。1997年に町農林商工まつりのキャラクターとして誕生、今は町の応援団として活躍しています。

『松平信平公(松平長七郎伝説)』ゆかりの「長生不動尊」。生憎と時間切れで柵外から一枚だけ😥

撮影日:2014年5月22日&2019年3月9日

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2019年の車泊旅では「道の駅:つどいの郷むつざわ」にて車中泊をさせていただきました。 折々のお弁当のお供に買った手作り梅干しの嫌味の無いすっぱさ、今も懐かしく思い出されます。

車で旅をする私達にとって、こうした施設は、本当にありがたく大切な場所です。

改めて、その折は有難うございました🙏🙏

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玉前(たまさき)神社~其の二 in 千葉県一宮町

2019年06月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

昨日に続いて「玉前神社」の紹介。まずは境内にある「御神水」。24時間いつでも取水可能と言う、とても有難い配慮がなされています。 容器を持ち合わせていなかったので一口だけ頂きましたが、鉄分の多い水らしく、まろやかとは言い難い味でした。

「御神水」の奥の「天乃真名井」には、一羽の白鳥と化した『日本武尊と弟橘姫命』の伝説が残されています。かなしくも美しい伝説ゆえに「白鳥の井」とも呼ばれ、またどんな旱にも枯れることはなかったと云われています。

境内の右手にある「斎館」は、神職などが神事に関わる折に潔斎の為に篭るための建物。

懸魚には軽やかに羽根を広げた「鳳凰」。手前の木に花が咲いたらきっととても素晴らしい眺めになるでしょう。

社殿下には、安政年間(1855~60)に秩父「三峯神社」より分祀された「三峯神社」が鎮座。

社の奥に建てられた遷宮記念碑には、御由緒と、詩人『野口雨情』の詩。【朝(あした)にゃあさ霧 夕べにゃさ霧 秩父三峯きりの中】

「三峯神社」の手前に鎮座されるのは「稲荷社」。小さなお狐様が沢山奉納されています。

境内には驚くほど多くの碑が建立されており、その一つ一つに、丁寧に説明が添えられています。 神楽殿の左手、「御神木・いすの木」の前に錆付いた錨と共に建立されていた「獲錨記念碑」【明治の末、九十九里浜の海に沈んでいて度々漁網に被害をおよぼしていた錨が漁師の網に掛かり引き揚げられた。漁師達は玉前神社のお陰と大いに喜び、網主十一名が東郷平八郎海軍大将に篆額(てんがく)をいただき、その錨とともに碑を建てました。】

「平廣常公顕彰碑」説明には【町内の高藤山城が居城と伝えられている上総権介平朝臣廣常は、三代に亘り上総国を支配した武将である。源頼朝が鎌倉幕府を興す際の功労者の一人であったが、謀反の企てがあると頼朝が疑心を懐き、かつまた、生来の傲慢さも不興をかって寿永2年(1183)12月に謀殺された。しかし、実のところは同年7月には廣常は当社に鎧一領とこの石碑に記された書状を添えて、頼朝の心願と東国太平を祈願していたのだった。石碑は廣常の玉前神社への篤い信仰を顕彰したもので、表に当社への祈願文を、裏には廣常の行跡が記されている。】

『陸軍大将:熾仁親王』宸筆の額と、顕彰文が刻まれた「西南戦争紀念碑」【明治10年、西郷隆盛が挙兵した「鹿児島の乱」に対し、徴兵制の政府軍の一員として参戦した長柄・埴生両軍(現在の長生郡)の16名の戦没塀を顕彰した碑で、明治11年に建立されました。】

こちらは「征清紀念碑」【明治27年に始まった日清戦争で戦死した22名の戦没者を顕彰した碑で、明治28年に建立されました。参謀総長陸軍大将彰仁親王の筆は認められますが、碑文は摩減が激しくて判読できない】と結ばれています。

「敬神碑」とはそのまま「神をうやまう」。神は人の敬いによって威を増すと言われています。 神を敬えない人間がいくら神頼みをしても、そこに神の力が及ぶ事は決してありません。

「報賽碑(ほうさいひ)」は、祈願が成就した事への感謝を表すために建立された碑。

国歌:君が代に歌われる「さざれ石」。平和に慣れきってしまった日本人の中には、その美しい言葉を解せない愚者たちもいるようです😩。 小さな石が寄り集まり、悠久の年月を経て苔むす巌となるまで、私たちの世が続きますように・・

参拝を終え、歴史を感じさせる奉納者の名が刻まれた玉垣を見ながら駐車場に向かいました。 そこは参集殿と神楽殿の間の東参道に当たる場所。見上げた先には黒漆の美しい社殿が鎮座されています。

何度見ても美しい・・・もう一度この神社に参拝する機会があるとは到底思えないけれど・・・・ もしも叶うなら、一の鳥居から真っ直ぐに登ると言うご来光を、二人で仰ぎたいね🙏🙏

参拝日:2019年3月8日

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玉前(たまさき)神社~其の一 in 千葉県一宮町

2019年06月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

一宮町一宮に鎮座される「玉前(たまさき)神社」。御祭神は『玉依姫命』。御神文は「鏡に御統(みすまる)紋」「三つ巴紋」。「御統」は勾玉の首飾りのことで、三種の神器である「八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)」がこれに相当します。

一の鳥居は九十九里浜に向かって真東を向いて建ち、春分・秋分の日には、この方角から太陽が昇るといいます。玉前神社は「御来光の道(レイライン)」の東の起点とされ、ここより出雲大社へと本州を横断するそうです。

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神武天皇の母神を祀る「玉前神社」から、唯一の八方除守護神である「寒川神社」、日本最高峰の「富士山」、見延を鎮守する「七面山」を経て、神の住む「竹生島」、宮津の「元伊勢」、そして西の霊山「大山」から神代国造りの神が住まう「出雲大社」・・ まさに太陽とは神そのものであったと思い至ります。

ご祭神『玉依姫』は、海神:綿津見大神の娘で、神霊を宿す女神として日本神話に登場します。 海からこの地に上がった『玉依姫』は、姉『豊玉毘売』から御子である『鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)』を託され養育し、後に命の后となって『神武天皇』をお産みになられました。

由緒に【創始は古く詳らかではありませんが、延喜式内名神大社、 また上総国一ノ宮として平安時代にはすでに日本の中でも 重きをおくべき神社とされていました。また千葉平氏上総権介平朝臣広常をはじめ、源頼朝の妻の 北条政子懐妊に際して安産祈願の奉幣、徳川家康が神田十 五石を寄進するなど武門の崇敬も多く厚いものでした。永禄年間(1558年-1570)の戦火により社殿および古記録等が焼失したため、創建年代は不明。他の文献等により、少なくとも鎮座以来1,200年以上経過していることは間違いないとされる。】

境内の二の石鳥居は、文化三丙寅年八月の建立、「神号額」は『蜀山人』の揮毫によるもの。

社殿は「本殿・幣殿・拝殿」が繋がった黒漆塗りの「権現造」、貞享4年(1687)の造営とされます。 境内案内には【現在の建物は、江戸中期の貞享四年(1687)に、 本殿が『大工棟梁:大沼権兵衛』、拝殿と幣殿は『井上六兵衛』に よって竣工された。 本殿は、桁行三間、梁間二間、一間の庇を付ける入母 屋造りである。拝殿は、桁行五間、梁間二間の入母屋造 りで、正面に向唐破風を付ける。幣殿は、本殿と拝殿を つなぐ建物で、桁行四間、梁間一間の規模である。全体が複合社殿(権現造)となっており、屋根は寛政十二年 (1800)に現在に見られるような銅版葺に改められ ている。】

10年に渡る社殿の修復が竣工され、二年前の2017年3月に終了したとか、この参拝の僅か二ヶ月前とは・・・偶然の僥倖に思わず🙏🙏。 社殿は黒漆の深い輝きに、周囲の深い緑が映しだされ、一種独特の神秘性を持ってそこに存在します。

正面の蟇股に施された「高砂」の彫刻は、名人と謳われた『左甚五郎』の作とも言われています。 流石に「お年を重ねられた媼と翁」では、甚五郎の彫刻について廻る不思議話(抜け出すとか、朝になったら帰ってくるとか)は無いようで、常青の松の下で穏やかに語らっています😊

黒漆の社殿にひときわ華やかに色を添えるのは、極彩色の唐獅子と獏、なんか妙に楽しそう。羨ましいほど白くて綺麗な歯😲

社殿の右手に鎮座される「招魂殿」。日清・日露・大東亜戦争の戦没者325柱が祀られます。 社殿の傍らには、当時の県知事『加納久朗』書による「勇士救亜洲」の碑。

黒の社殿と対比をなす朱塗りの「神楽殿」では、無形文化財である「土師流神楽」が、春・秋の祭礼で奉納されます。

本殿左手の鳥居の奥に鎮座される「摂社:十二社」は、明治時代に一宮町内の十二社が合祀されたもの。 ただ、信仰の中心は「愛宕神社」であったため、今でも通称「愛宕さま」と呼ばれています。

案内には【「宮の後愛宕神社(軻遇突智命)」・「陣屋内八幡神社(誉田別命)」・「上宿三島神社(事代主命)」・「上宿白山神社(白山比売命)」・「下村日枝神社(大山咋命)」・「柚の木山神社(大山祇命)」・「細田浅間神社(木花開耶姫命)」・「道祖神塞神社(賽神三柱)」・「内宿蔵王神社(大物主命)」・「関東台粟島神社(少彦名命)」・「陣屋熊野神社(櫛御毛野命)」・「下の原水神社(罔象女命)」】とあります。

西山は「はだしの道」として整備されており、裸足で歩く事で御神徳を授かる事ができるそうです。 傾きかけたお日様に急かされて辞退しましたが、でも二人の願う事はいつも決まっています。

絵馬架けの横には、『仁徳天皇』の民の竈の賑わいを喜ばれた歌を尊みて詠んだ芭蕉:句碑【叡慮(えいりょ)にて  賑ふたみや 庭かまど】

中央に「たかき屋にの御製の有難を今も猶 叡慮にて賑ふたみや 庭かまど はせを」と大書。 左には【名にしおはゞ 名取草より 社宮哉 (金波)】を発句とする表十句。 背面には「無尽言」、下に149句が刻まれ、『起名庵金波』の芭蕉景仰の漢文銘があり、さらに碑の陰部分に【広き葉の くらべものなき はせをかな  (金波)】【蝶鳥(ちょうとり)や こころの底の なき晴て (何丸)】・・解説があったので、知った風に書いていますが、実際はどれも読めません😔

境内にはまだまだ沢山の碑や史跡がありますが、それはまた明日、まとめて紹介します。

参拝日:2019年3月8日

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ご当地マンホール in 千葉県一宮町

2019年06月16日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

長生郡一宮町(いちのみやまち)は千葉県の東部、太平洋に面した九十九里平野および九十九里海岸の最南部に位置する町です。いすみ市、長生郡:睦沢町、長生村に隣接。北部を一宮川が東西に横断して太平洋に流れ、西部は房総丘陵の端部で山林に長く深い谷津が伸びており、農業用水用の溜池が点在し、東部は九十九里浜の砂浜海岸になっています。古くは上総一宮:一万三千石の城下町として栄えた歴史をもち、その後は、日本一といわれるガラス温室団地など、ハウス栽培を中心とした果樹園芸を基幹産業にしています。町名は、上総国の一宮「玉前神社」に因んで一宮庄と称され、以後「一宮」と呼ばれるようになりました。「町の木:クロマツ」「町の花:山百合」を制定。

キャッチフレーズは「躍動する緑と海と太陽のまち」

明治22年(1889)、町村制の施行により、長柄郡一宮本郷村、東浪見村が発足。

1890年、一宮本郷村が町制を施行、改称して、長柄郡一宮町(初代)となる。

1897年、郡制の施行により、長柄郡・上埴生郡の区域をもって長生郡が発足。

1953年、一宮町と東浪見村が合併、長生郡一宮町(二代目)となる。

1954年、長生村大字船頭給を編入。

1955年、長生村一松字新地、大字宮原を編入、現座にいたっています。

マンホールには町章を中心に、「町の花:山百合」が描かれています。

集排マンホールは「町の木:黒松」、海岸に「打ち寄せる太平洋の荒波」がデザインされています。

昭和48年(1973)11月28日制定の町章は【外輪は一宮の「一」、中はいちのみやの「み」をまるく安定した形に納め図案化したもので、緑あふれる太陽のまち「一宮」がこれからも平和に明るく円満に発展することを象徴したものです。】公式HPより

JR上総一ノ宮駅近くにあった雨水マンホール。

上水道関連の蓋は「長生郡市広域市町村圏組合」の知章がついた制水弁・空気弁・消火栓等。(給水区域は「茂原市、白子町、一宮町、長柄町、長南町、睦沢町、長生村」)

「九十九里地域水道企業団」の物とよく似ていますが、これは周囲の円が一重。 ただの「水」という文字なのか、特定の「水道企業団」の知章なのか、調査不足で分かりません。

全体が「消防徽章」の防火貯水槽には特定の自治体を示すものは無く、一般的な規格蓋と思われます。

「大多喜ガス」の小蓋。上の「W」が何を表してるのかは未調査。

一宮町キャラクター『一宮いっちゃん』。、海をイメージした髪型とつぶらな瞳がチャームポイント。一宮産のメロンとイチゴと梨が大~好きで、猫が大好きな女の子です。

撮影日:2014年5月22日&2019年3月8日 

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太東埼灯台 in 千葉県いすみ市(旧岬町)

2019年06月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

九十九里平野の南端、リアス式海岸に位置する「太東岬」。刑部岬を起点とする九十九里浜は、この太東岬で終点。一帯は南房総国定公園に指定されており、その一画に、美しい白亜の「太東埼灯台」が海上の安全を担って建っています。

太東崎の海沿いに初代の灯台が設置されたのは昭和25年(1950)11月、初点灯がなされたのは昭和27年5月の事。その後海岸浸食による倒壊の恐れが出た為、昭和47年(1972)に現在地に2代目として改築されました。

太東埼灯台は白亜塔形(円形)の中型灯台で、高さは15.9m。灯台の光は22海里(約41Km)まで照らします。 海抜58mの高台に建っており、その為かここに来る道は狭く、助手席にいながら何度も有りもしないブレーキを踏む私😣。 それでもこの美しい灯台を見ると「やっぱり無理しても、来てよかった」

そしてお約束の先端つまみ😄

大東埼の海面から私たちが立つ場所までの高さは約60m、下は太平洋まで一直線の断崖絶壁。 デジカメを手に、ほんの少し首を伸ばして・・・!!体中を走る悪寒に思わず後じさり😱 高いところが死ぬほど怖いくせに、何故か唐突にこんな無謀な行動をとってしまう、時々自分が信じられなくなります😔

折角ここまで来たのだからと、柵に囲まれた広場をウロウロ。おかげで意外な発見もあったりします。 「晩晴堂帰雲翁碑」は裏が句碑で、【ぬ禮色や  水引草に さす朝日】

敷地の柵の外にセメント製の井戸枠のようなものがあり、近くに「太東崎電探礎石」の説明。 【この礎石は戦時中米軍機の侵攻を探知する為、日本海軍により電波探知機が設置され、その付属の礎石です。本体の礎石は、直径7.8米の円形地下操作室でしたが、既に海中に崩落しました】 ここにも、祖国を守ろうとした人たちの必死の想いが残されているように思えて、思わず瞑目🙏

ここから見ると、刑部岬から九十九里浜が見事に弓なりに連なり、まるで美しい絵画のよう。 真っ白い波が弧を描く海岸沿いも、これほど離れた高台から見れば、美しい境界線にしか見えません。

訪問日:2014年5月23日

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明王山:飯縄(いづな)寺 in 千葉県いすみ市(旧岬町)

2019年06月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

いすみ市岬町和泉に門を構える天台宗寺院「明王山・飯縄(いづな)寺」『飯縄大権現』を本尊とします。 藁葺屋根と丹塗りの対比が鮮やかな室町期様式の「仁王門」、思わず足を引き止めさせます。

縁起に【大同三年(808)、『慈覚大師』により開山、本尊の『飯縄大権現』が天狗のお姿をしていることから、「天狗のお寺・おいづなさん」と古くから親しまれている。火防・家内安全・海上安全・商売繁盛・無病息災・厄除・盗賊除など、十三のご利益があり、信仰を集めている】

仁王門の内にて、境内・ご本尊を守護される阿吽の仁王像にも、門と同じく朱の色が残されています。

ここでは素晴らしい山門を見ただけで、境内にも入らず大急ぎで次の目的地に。伊八の「天狗と牛若丸」の欄間彫刻を拝見できなかったのは心残りですが、色々と諸般の事情で断念。

「飯縄寺」に残る「源義経と天狗」の伝説。「牛若丸が鞍馬山で武術を学んでいた時、大天狗から「奥州に向かうなら、わしの知り合いのいる上総国の飯縄寺へ訪ねてみよ」といわれ、伊豆から舟でこの地に着き、参拝して行きました。」(画像は別の場所で頂いたパンフレットより) 欄間の「天狗と牛若丸」は、この伝説を知った伊八が、それを基にして彫ったのかもしれませんね。

宮彫刻と聞くと目が無い二人ですが、先にも愚痴ったように、日程、時間等々の事情を考えたうえでの事。そのうえで、どうにも「波の伊八」とは縁が薄いようです。

訪問日:2014年5月23日

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行元寺の彫刻 in 千葉県いすみ市(旧夷隅町)

2019年06月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

昨日の続きで、別名「慈雲閣」とも称される行元寺山門。鮮やかな丹の色はまさに匂いたつばかりです。

山門正面にあるのは二頭の「麒麟」。伝説上の霊獣であり、360種の獣類の頂点に立つ幻獣とされます。【2008年8月、行元寺山門(仁王門)の彫刻と柱等の丹塗り復元工事が完工。山門は江戸中期の建立だが、創建当時は桃山文化の影を遺していたとみられ、江戸の寛永期の彫刻色彩に復元した。特に顔料の豪華さの魅力と美しさを持たせ、藍銅鉱の群青色、金箔のほかに昆虫・植物からのエンジ色や水銀からの朱、丹土などに特色がある。】山門横案内より

「鳳凰」は聖徳をそなえた天子の兆しとして現れるとする、想像上の瑞鳥(ずいちょう)。雄を「鳳(ほう)」、雌を「凰(おう)」と言い、本来は二羽が揃う事で初めて「鳳凰」となります。

「龍」は、その啼き声によって雷雲や嵐を呼び、また竜巻となって天空に昇り自在に飛翔する霊獣。 顎下に宝珠を持っていると言われ、秋になると淵の中に潜み、春には天に昇ると云われます。

他にも「孔雀」「虎」「兎」等々、目を凝らしてみれば実に多彩な生き物たちがそこに居ます。

「羅漢」は、仏教において最高の悟りを得た、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと。 山門には思い思いの姿勢で寛ぐ「羅漢」たちの姿が、鮮やかな色彩と共に彫り込まれています。

泥の中から成長し美しい花を咲かせる「蓮」。泥水が濃いほど大輪の花を咲かせるとされています。 泥土の中から立ち上がり美しく輝く花は、まさしく御仏の座にふさわしい花と言えるでしょう。

これは天井支輪にある「波と菊花」。清らかな波間に漂う紅白の菊花は尊い人の化身でもあります。

本堂向背蟇股の「瑞龍」は、御用彫師『高松又八朗 邦教(くにのり)』が宝永二年(1705)に彫り上げたもの。

残念ながら、向背の龍も貫を彩る唐獅子・獏も『高松又八朗』の彫刻ではありません。 日本の名工『斉藤敏彦』と、日本の絵師『福本丈』によって復元・修復がなされたものですが、華麗な技量も見事な迫力も、決して劣るものはありません。

参道ギャラリーとでも名づけたいような写真の数々、『高松又八朗』の彫刻は実に多彩です。

写真の中に紹介されていた「松と雉」は、山門彫刻の中に、獏は本堂の貫に居ました。

でも圧巻は「波を彫らせたら天下一」、「関東に行ったら波を彫るな」といわしめた『波の伊八』の欄間彫刻。 行元寺の旧書院欄間に作られた「波に宝珠」は、葛飾北斎の代表作「神奈川沖浪裏」に影響を与えたといわれており、様々な場所にそれに関した写真などが掲載されています。

堂内に残された名工の彫刻は、事前の予約が必要なため、前回も今回も見送りとなりました。 その時々の状況によって、時間・コースに変更がある私たちには、事前予約はハードルの高い条件です。

参拝日:2014年5月23日&2019年3月8日

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東頭山:行元寺 in 千葉県いすみ市(旧夷隅町)

2019年06月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

いすみ市荻原にある天台宗寺院「東頭山・無量寿院行元寺(ぎょうがんじ)」『阿弥陀如来』を本尊とします。 入母屋造り2層の「山門」は享保20年(1735)の建立、華麗な彫刻が参拝者の足を止めさせます。

房総屈指の大建造物といわれる「行元寺・本堂」は、天正14年(1586)の建立。 寺伝では【嘉祥2年(849)、『慈覚大師:円仁』によって「伊東大山(現夷隅郡大多喜町伊藤)」に草創。大師帰朝後、東国で最初に開山された事から、「東頭山」と 名づけられ、頭山三学院無量寿寺と称して隆盛を極めました。しかし、戦火のため焼失し、平重盛によって荻原の地に移し復興。のち再度の兵火によって冷泉大納言・二階堂行元により再興。 大壇那の名を寺名として、「東頭山無量寿院行元寺」と改称されました。】

こちらの本堂欄間には、幻の名工と云われた『高松又八』の豪華絢爛な彫刻が残されています。 これは参道ギャラリーの中にあった写真の一枚ですが、実物でなくともその美しさは十二分に伝わってきます。

本堂の右手には「十三重塔」。

家康の講師を務めた「行元寺第十八代亮運」に奉納された「石燈籠」

本堂に並ぶように、享和2年(1802)に建立された茅葺屋根の「客殿」。こちらはかって旧書院とされた建物だそうです。

客殿に『伊八』の代表作「波図彫刻」が収蔵されているのですが、もちろん予約をしていないので見るのは不可。 

画像は、2014年の参拝時に境内の待合所に展示されていた欄間彫刻「波に宝珠」の写真。写真なのに思わず手を触れて凹凸を確かめたくなるような質感です。

境内にある鐘楼の前には、千葉県山武市出身の童謡作詞家『斉藤信夫』の、「母さんたずねて」の歌碑。【♪ まいごの まいごの こすずめは~】で始まる童謡ですが、生憎と存じ上げません。

「行元寺」の山門・本堂には、復元された『高松又八』の見事な彫刻の数々があります。 上等とはいえない画像ですが、明日はその美しい彫刻の数々をまとめて紹介します。

参拝日:2014年5月23日&2019年3月8日

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