車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホールin千葉県旧岬町・旧夷隅町(いすみ市)

2019年06月11日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

旧夷隅郡岬町(みさきまち)は九十九里浜の南に位置した町です。夷隅郡大原町、夷隅町、長生郡-一宮町、睦沢町に隣接。町名の由来となった九十九里浜の南端、太東崎の周辺は公園として整備され、北側には刑部岬から九十九里浜が弓なりに連なり、南側には夷隅川の河口と大原の町並みが続きます。また岬の南端の砂浜には、日本で最初の国の天然記念物に指定された「太東海浜植物群落」がある事でも知られます。古くから水稲栽培が行われており、北東部(谷上・椎木)では梨の栽培が、また太東地区ではキャベツ栽培が盛んで「キャベツ御殿」と呼ばれる豪華な農家が見られます。「町の木:梅」「町の花:すかし百合」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、夷隅郡旭町、中根村、古沢村、長柄郡太東村が発足。

1961年、夷隅郡長者町と太東町が合併し、夷隅郡岬町が発足。

1900年、夷隅郡旭町が改称し、夷隅郡長者町となる。

1953年、夷隅郡長者町と中根村が合併、夷隅郡長者町が発足

1954年、夷隅郡古沢村と長柄郡太東村が合併、夷隅郡太東町が発足。

1961年、夷隅郡長者町と太東町が合併し、夷隅郡岬町が発足。

2005年、夷隅郡夷隅町・大原町と合併し、いすみ市となりました。

「太東埼灯台」など、風光明媚な名所を有していますが、独自のマンホールは存在していません。

昭和56年6月11日制定の町章は「三条の円周線が、ミサキ町の頭文字「ミ」を表わし、外わくの太線は緑の大地を、内わくの二条は打ち寄せる海の波動を、中央上部の円は、旭日昇天の逞ましさを形造り、町勢の限りなき隆盛を展望したものです。」合併協議会資料より

上水道関連はいずれも、自治体章付きの「仕切弁・空気弁・消火栓」

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旧夷隅郡夷隅町(いすみまち)は夷隅川の中流域に位置した町です。勝浦市、夷隅郡大多喜町、大原町、岬町、長生郡睦沢町に隣接。町の北部と南部は房総丘陵の一部を成して山がちな地形ですが、中部は平坦な地形が多く見られます。町域の荻原地区には『波の井八』で知られる「行元寺」があり、更に幻の名工といわれた『高松又八』の日本で唯一の作品も存在します。「町の木:黒松」「町の花:コスモス」「町の鳥:キジ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、夷隅郡夷隅郡国吉村、千町村、中川村が発足。

1893年、国吉村が町制を施行、夷隅郡国吉町となる。

1954年、国吉町・中川村・千町村が合併し、夷隅郡夷隅町が発足。

2005年、夷隅郡岬町・大原町と合併し、いすみ市となりました。

昭和48年10月3日制定の町章は「太陽と人の和を表現する大きな円の中にもうひとつの円と三角形で人の形をあらわしています。新緑色は町の木「黒松」の緑を意味し、夷隅町の「い」の字を図案化したものです。」合併協議会資料より

ここにも独自のマンホールはなく、見つけられたのは上水道関連の消火栓のみ。

撮影日:2019年3月8日

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小浜八幡神社の狛犬 in 千葉県いすみ市(旧大原町)

2019年06月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

いすみ市大原、外房に突き出たように位置する「八幡岬」は、南に丹ヶ浦の断崖を臨む絶景地として知られています。

その八幡岬の断崖上、いすみ市大原に鎮座される「小浜八幡神社」。御祭神は『譽田別尊』。 

創建は【久安元年(1145)、約千年の歴史がある。本町小濱はその昔、新田野の八幡神社の氏子であったが、祭典参加等の面で不都合が多かったため現在地に分霊奉祀したものである。】

二の鳥居の内より神域を守護されるのは、昭和12年(1937)10月吉日建立の江戸流れの狛犬さん。 阿形さんは美しい透かし彫りの鞠に手を置き、吽形さんは愛らしい仔狛を腕に遊ばせています。

この先を奥に進むと、岬の頂上に向かう石段が有り、そこにご本殿が鎮座されています。 にも関わらず、「小浜八幡神社」の画像は、実はこれだけしかありません😥 本当は、眼下に「大原漁港」を見下ろすこの場所で、ゆっくりお昼ご飯も食べたかったのです。

八幡岬のこの場所で海を見ながら昼食を・・でも駐車場が見つけられず、参堂下のちょっとした空き地に駐車してきたので、気が急いて落ち着きません。

そのくせ「城山青年館」の前に『若山牧水』の歌碑を発見し、時間も無いのに思わず激写。ただし、ご亭主殿には先に車に戻ってもらいました😅

【ありがたや  今日満つる月と知らざりし この大き月 海にのぼれり 】

参拝日:2014年5月23日

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ご当地マンホール in 千葉県いすみ市・旧大原町

2019年06月09日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

いすみ市は千葉県の南東部、夷隅地域に位置する市です。2005年12月5日、夷隅郡夷隅町・大原町・岬町の合併によって発足。千葉県内で自治体名に平仮名を用いた唯一の自治体です。市の北部は長生郡一宮町、睦沢町、西部は大多喜町、南部は勝浦市、御宿町に隣接。太東岬から南方の海岸部は南房総国定公園に指定され、太平洋に面する大原漁港の沖合には日本最大級の岩礁群があり、それによるイセエビの漁獲量は日本一となっています。

キャッチフレーズは「人と自然の輝く 健康・文化都市 いすみ」

残念ながら独自のデザインマンホールも一般的な下水道用のマンホールも市域にはありません。
2005年12月5日制定の市章は「いすみ市の「イ」をモチーフに、飛躍を意味する羽ばたく鳥をイメージしている。全体に千葉県を表し、円でいすみ市を示しています。また緑色は豊かな自然を、青は海・川を表わしています。」公式HPより

上水道関連では自治体章付きの「制水弁・消火栓」

いすみ市マスコットキャラクター『いすみん』。特産の梨の帽子をかぶり、髪は「波の伊八の波」。頭には「伊勢海老」と「椿」のアクセサリー。手にはいすみ米の稲穂を持っており、いすみ市のPRポイントが満載。体全部でいすみ市の魅力を絶賛PR中です。

庁舎内に飾られていた『いすみん』。思わずマンホールになりませんかと聞きそうになりました。最近ご当地キャラのマンホールが増えてることだし、マンホールになったら絶対に「可愛い」と評判になりますよ。担当者さん、是非ご一考を!

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旧夷隅郡大原町(おおはらまち)は千葉県南東部、太平洋側に位置した町です。勝浦市、夷隅郡夷隅町、御宿町、岬町に隣接。大平用に面した第3種漁港:大原漁港は、外房地域漁業の生産・防災拠点漁港に位置付けられ、またイセエビの水揚げ量は日本一多く、今日における勝浦市を含めた夷隅地域の実質的な中心地として発展してきました。「町の木:ツバキ」「町の花:山百合」を制定。

美しい砂浜で知られる「大原海水浴場」は、7月中旬から8月中旬のシーズンには多くの観光客で賑わいます。

明治22年(1889)、町村制の施行により、夷隅郡大原町、東海村、東村、浪花村、布施村が発足。

1955年、大原町・東海村・東村・浪花村・布施村が合併、夷隅郡大原町が発足。

2005年、夷隅郡夷隅町・岬町と合併、いすみ市となりました。

散々探して唯一見つけることが出来た雨水用のマンホール、この際上等とします😅

昭和48年1月1日制定の町章は「大原の「大」と黒潮踊る海原と町の和を図案化したもので「大」の字先は四方に発展する「力」を意味し躍進大原を簡潔に印象づけて町章化したものです。」合併協議会資料より

上水道関連の「仕切弁・制水弁・排泥弁・消火栓・防火水槽」。空気弁以外は揃いました😅

塩田川の深堀地区にある一路橋の袂に建立された「真実一路の碑」。何で真実一路??と、わざわざこの碑を見る為に回り道。
【海面に夕もやがおりかけて水も空も一ようにネズミ色に染まって行ったが、シオダ川の川かみあたりだけは、入日の反射でぼうっと明るく光っていた】真実一路碑文より。

作家『山本有三』の名作「真実一路」には、大原海岸や塩田川の情景、それに絡む人情の交流が描かれています。それにちなみ、碑を含む一路橋周辺は昭和48年6月15日に夷隅町(現・いすみ市)史跡に指定されました。

撮影日:2019年3月8日

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大多喜駅と大多喜城 in 千葉県大多喜町

2019年06月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

水溶性天然ガスが千葉県内で初めて発見された大多喜町。駅前には天然ガスを使ったガス灯が三基あります。 最初見たときは単なるレプリカだと思っていたのですが、側の説明で本物のガス灯と判明。 ここは、現存するわが国最古の天然ガス事業会社「関東天然瓦斯開発KK事業発祥の地」なのです。

ちょうどガス灯の正面に位置する大多喜駅、駅前には「大」の文字を象った歓迎アーチが見えます。

駅のホームでは金屏風を背に『本多忠勝』公と、何故か『忍者』が二人、丁重にお出迎え😅

メキシコ通りを跨ぐ門は昭和57年の建設、名称募集で「大手門」と命名されたモニュメントです。いすみ鉄道の電車が真横に見えるという絶好の撮影ポイント、これは、もしかしなくてもチャンス!

夷隅川に架かる「ふかせ橋」親柱に、期待を膨らませてくれる「大多喜城」のレリーフを発見。

城の横に描かれた武将は、大多喜城主となった『本田忠勝』、鹿角の兜なので間違いないはず。

前日に見かけた自販機にも「鹿角の兜」を身につけた萌え系の『本田忠勝』が描かれていたし(笑) それにしてもこの歴史的人物の萌えキャラ・・・そもそも誰が何の意図で作り始めたんだろう? いわゆる腐女子の好みに応えて生み出されたのか、それとも萌えの行き着いた先なのか・・謎😓

と悩んでいるうちに、大多喜城への最寄駐車場に到着。ここからは歩いての登城となります。 駐車所近く、草に隠れかけた「大多喜水道水路」の古びた説明板を発見! 「大多喜水道」は明治2年(1869)、大多喜城下柳原地区の大地主によって作られたの水道です。現在の水道になるまで約80年間利用された千葉県最古の水道で、総延長は3.96kmと記されています。 こうした歴史を物語る遺構は、もう少し大切に目立たせても良いのに・・と、少々不満。

ここからお城に続く道は舗装はされていますが、200メートル強の距離でそれなりの坂道。 足に障害を持つ方はここで断念するか?それともこの坂道、車椅子を押してもらうのでしょうか? 「大多喜城址標」を横目に、ご亭主殿に手を引かれ、前かがみに目的の天守閣を目指します。

「大多喜城」は戦国時代から江戸時代に存在した平山城で、当初は「小田喜城」と呼ばれていました。 天守は、天保6年(1835)の図面を基にし、昭和50年(1975)に大多喜城址に再建。

ただ「大多喜城天守」に関しては、懐疑的な記録も残されており、実在説さえ危ぶまれています。 とは言え、よほどの思い入れが無い限り、私にとっては「旅先の名所の一つ」。「再建・復元・復興・模擬」どっちでも構いません😊 逆光の為、パンフレットのように綺麗には写せませんでしたが、大切な旅の思い出の一枚です。

訪問日:2014年5月23日

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房総の小江戸大多喜 in 千葉県大多喜町

2019年06月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

千葉県には「小江戸(江戸のように栄えた町)」と呼ばれる町並みが、二箇所存在します。 香取市佐原にある「水郷:佐原の町並み」。そして大多喜城下として栄えた「大多喜の町並み」。前日に立ち寄った、いすみ鉄道大多喜駅前の「観光本陣」でマップを貰い、翌日、早速町歩きへと繰り出しました。

古く歴史を感じさせる町並みは、多少の不便を押してでも見て歩きたい私。お店の看板だってしっかりと凝った物。こんな素敵なシュチエーションは見逃せません。 

歴史的建造物、まずは「国登録有形文化財:嘉永2年(1849)築の渡辺家住宅」

「穀家」の屋号で知られる「渡辺家」。大多喜藩の御用金御用達をまかされていた豪商の屋敷です。

城下の商人町にある「国登録有形文化財:明治6年(1873)築の伊勢幸酒店」。2階部分は白漆喰仕上げの格子作り。建築の際には旧大多喜城大手門の部材を用いたと言われています。

「釜谷」の屋号で質屋・金物店を営なんでいた「明治初期築の江沢家住宅」、土蔵造りの商家。一階屋根の陶器製の樽看板が洒落てます!

土蔵造りの建物を大改修し「商いと城下町のくらし」をテーマに開館した「商い資料館」。1階は昔の商家の再現、2階は昔の暮らしがしのばれる生活用具や遊び道具を展示しています。

町歩きで特に目を引いたのが「国登録有形文化財:豊乃鶴酒造」、銘酒「大多喜城」の醸造元。

主屋は明治7年(1874)、店舗は昭和前期、精米所及び貯蔵庫は明治前期、工場・酒蔵は明治8年の築。 ひときわ目を引くイギリス積煉瓦造の煙突は、高さ16m、昭和23年頃に作られたと言われています。

夷隅神社の参道脇に、江戸時代から続く老舗旅館「国登録有形文化財:大屋旅館」。 明治24年(1891)、学生だった『正岡子規』が房総を旅した際、この大屋旅館居に泊まったと記録されています。

大正期から昭和初期にかけ、フォード車を使用した乗合自動車事業も営んでおられたとか。 往時の面影を残す老舗旅館は、ドラマや写真集のロケ地として、今も多くの場面に利用されているそうです。

夷隅神社の通りに東面して建つのは日用雑貨品などを扱う「国登録有形文化財:宍倉弥兵衛商店」。建物は明治7年(1874)の建築。数度の改修を経ていますが、伝統的な町家の佇まいを残しています。

最期は昭和34年(1959)に『今井兼次』氏によって設計・竣工された鉄筋コンクリート造りの中庁舎。 この手の建築物に関しては、その秀逸な部分が今一つ分からないので、紹介画像もかなり適当😅

点在する旧跡を訪ね、大多喜小学校の正門まで帰って見上げた先に、大多喜城の天守が見えます。 途中までは車で行けるとのこと、折角ここまで来た事だし行ってみましょうか😊

訪問日:2014年5月23日

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夷隅(いすみ)神社 in 千葉県大多喜町

2019年06月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

大多喜町新丁に鎮座される「夷隅(いすみ)神社」。御祭神は『素盞鳴命・大己貴命・稲田姫命』。

明治35年建立の二の鳥居、その先に拝殿

境内由緒に【草創については明らかでありませんが、社伝には、長久2年(1041)の再建後、さらに天正15年(1587)に、里見氏の将、正木大膳亮(時堯)が再築したと伝えられています。その後は、代々の大多喜城主に篤く崇敬・加護されたとあります。むかしから牛頭天王宮と称し、明治の初めに夷灊(いしみ)神社と会合して村社となり、明治12年には社格が郷社になりました。】

明治28年頃の夷隅神社境内全図

【社殿は、拝殿、本殿からなる権現造りです。本殿の擬宝珠には貞享5年(1688)と、また、拝殿の高欄にある擬宝珠には、文政12年(1829)と銘があって、建築各部の様式・手法上からも、それぞれ、その時代の建造と考えられています。】

かっては鮮やかであったと思われる拝殿彫刻も、長い年月が朱の派手さを薄めていったようです。 それがかえって不思議なほどの落ち着きを見せているのも、また宮彫師の技量かもしれません。

拝殿彫刻は2014年と2019年のものを取り混ぜましたが、五年の歳月の開きはどう見えたでしょう? 貫に施された阿吽の獅子と像、その高みから見続けた大多喜の城下は、300年以上の時を経てどのように変化したのか・・

一の鳥居近くより神域を守護されるのは、文政十三年庚寅八月吉日建立の、江戸流れの一対。 後頭部から肩に流れる鬣は柔らかいウェーブを見せて、その所為なのか表情もとても柔和。

「境内社:子安大明神」

境内には西南戦争をはじめ、戦で散華された人々の忠魂碑、殉職警察官の招魂碑などがあります。 国のために殉じた方々に敬意を払う・・当たり前の事がこの先も普通に成される国であって欲しいと思います。

「菰田、左右田両君招魂碑」(千葉県内で最初に殉職された警察官の碑)

夷隅神社水路「新丁上宿周辺の雨水をあつめ、神社の杜や社殿・太鼓橋と調和した景観をつくりだしています。生命のみなもとである水に親しみながら、鯉や鮒などの水生生物を守り育てることにより、人々に潤いと安らぎを与え神社を訪れる人々の憩いの場所として親しまれています。」案内より

参拝日:2014年5月23日&2019年3月8日

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ご当地マンホール in 千葉県大多喜町 

2019年06月05日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

夷隅郡大多喜町(おおたきまち)は千葉県の南部、房総半島のほぼ中央に位置する市です。市原市、君津市、勝浦市、鴨川市、いすみ市、長生郡:睦沢町、長南町に隣接。千葉県の町村では最も広大な面積を有しており、森林が面積の約70%を占める緑豊かな町です。戦国時代から城下町として繁栄し、応仁の乱以後守護大名が台頭。その後天正18年(1590)に徳川四天王の1人本多忠勝が10万石を与えられ、約11年間領知。忠勝は里見氏に備えて城を整え、城下町の整備や六斎市の開市を企画しました。その後たびたび城主が替わり、元禄16年(1703)からは松平氏の治世が九代続きましたが、大多喜地域の大部分は他藩領、旗本知行地として支配を受けてきました。「町の木:桜」を制定。

キャッチフレーズは「芳しき歴史、香しき自然、風薫るロマンのまち 城と緑とやさしさに彩られた生命(いのち)輝くよろこびのまち・大多喜」

庁舎建物の横に聳える塔はかっての物見櫓。現在、入り口は封鎖されています。

明治22年(1889)、町村制の施行により、夷隅郡老川村、西畑村、総元村、上瀑村、大多喜町が発足。

1954年、大多喜町、老川村、西畑村、総元村、上瀑村が合併、新たに夷隅郡大多喜町となりました。

マンホールには「大多喜城天守閣と、町の木:サクラ」がデザインされています。(大多喜町船子の住宅街に実際に設置)

大多喜町観光本陣の展示蓋

逆光の為、マンホールに描かれた方向と違うのが難ですが「大多喜城天守」

昭和33年1月15日制定の町章は「五ヶ町村の和(輪)が大きな広がりを持ち、五足の星が大きな輝きになるという願いを込めた表現がされています。」公式HPより

上水道関連の仕切弁・制水弁・消火栓

側溝蓋

「天然ガス発祥の地」・「大多喜ガス」は、大多喜町、茂原市、市原市、八千代市、長生村などにガスを供給。

大多喜町シンボルキャラクター『おたっきー』。夢は、大多喜町を日本一の町にすること。 忠勝公の「鹿角脇立兜」に大多喜城を乗せ、前立てには特産の筍、羽織は養老渓谷と賑やかです。

撮影日:2014年5月23日&2019年3月8日

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2014年5月の千葉県への車泊旅では「道の駅 たけゆらの里おおたき」にて車中泊をさせて頂きました。こちらで販売されていた「よもぎ餅」とっても美味でした。入り口前の大っきな牛のオブジェで記念写真を撮った事など、今も懐かしく思い出されます。

車で旅をする私達にとって、こうした施設は、本当にありがたく大切な場所です。

改めて、その折は有難うございました🙏🙏

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月の砂漠 in 千葉県御宿町

2019年06月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

御宿の海岸には、2頭のラクダに乗って「月の沙漠」をゆく「王子とお姫様」の像があります。

ネット上の御宿紹介画像で初めてこの像を見たときの事が、今も鮮やかに思い出されます。 もう数十年も昔の、多感だった少女の頃の思い出が走馬灯のように頭をよぎり、柄にもなく心がときめいたものです。-朧にけぶる月の光、果てしなく続く砂の道、交わす言葉も無く、ただ黙ってラクダに揺られる二人

ラクダには金と銀の鞍が置かれ、鞍には銀と金の水甕、二人はお揃いの白い上着-。 子供心にもこの情景は美しく、遠い異国の沙漠の地に住む王子様とお姫様に憧れたものです。

残念な事に、二人を照らすのは朧にけぶる月ではなく眩しい初夏の太陽、もしくは春の日差し😆  そして二人の行く手には輝くばかりの青い海と、私たちが密かに「海鵜」と呼ぶ😅サーファー。

それでもとにもかくにも、王子様は凛々しく超美形で、お姫様はなよやかに美しく儚いのです。 ついでに言っちゃうと、二人を乗せたラクダはまるで人の心が読めるみたいに優しいのです😊。

と、妄想は際限なく広がり、頭の中では二人が主人公の物語がどんどん進んでいきます。 「ねぇ、王子・・ここは沙漠の筈なのに、どうして箱みたいな建物が一杯あるのかしら?」

「それはね、ここが御宿だからだよ、ほらごらんあの海を、海鵜が波に乗って楽しそうだよ」

「あら王子、あれはサーファとか呼ばれる者たちですわ  海鵜はあそこにいましてよ」  姫の指差す(嘘です)ほうを見ると、確かに海鵜が一羽、誰かがくれる餌を待って待機しています。

道路を挟んだ向かいには、月の沙漠のイメージにあわせたアラビア風の「月の沙漠記念館」。 展示内容には興味が無かったので入館はしませんでしたが、それなりに絵になる建物でした。

記念館の前には、画家で詩人である『加藤まさを』氏のレリーフが置かれています。「月の沙漠」は大正12年(1923)に発表され、『佐々木すぐる』の曲で童謡として有名になりました。

この童謡が大ヒットした時、月の沙漠の描写は実際の様子とは全く違うと言った、一応、TV等に露出している某有名人がいました。 いわく、高貴な人間は供もなく旅をしない、砂漠での持ち物はああだこうだと・・・誰とは言わないけれどホント!!ウザイ😠 あり得ない設定なんてTVや映画では日常茶飯事、さかしらに高説を垂れるあんたの方が色々と大嘘つきジャン!!ほら、人語を解するラクダも鼻で笑ってましてよ。

そういえば五年前には白鷺が沢山巣を作っていたけど、今もあそこで巣作りしてるのかしら? 鳴き声もちっとも聞こえないし・・それとも今は、まだ巣作りをするには早すぎるのかな・・・・

訪問日:2014年5月23日&2019年3月8日

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ご当地マンホール in 千葉県御宿町

2019年06月03日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

夷隅郡御宿町(おんじゅくまち)は千葉県南東部、夷隅地域に位置する市です。いすみ市、勝浦市に隣接。太平洋(外房)に面した海岸部は南房総国定公園に指定され、日本三大海女地帯の一つとしても有名。近年では房総を代表する海岸として「サーフィンの町」としても人気です。「町の木:キョウチクトウ」を制定。

町名は、御宿町須賀盛松の最明寺で『北条時頼』が詠んだ【御宿せし その時よりと人とはゞ 網代の海に 夕影の松】からと云われ、童謡「月の沙漠」発祥の地として知られます。

キャッチフレーズは「自然の恵みを継承し、心やすらぎ、未来へ躍動する夢多きまちづくり」

明治22年(1889)、町村制の施行により、夷隅郡御宿村・布施村・浪花村が発足。

1914年、御宿村が町制を施行、夷隅郡御宿町となる。

1955年、御宿町・布施村の大半・浪花村の一部が合併、改めて御宿町が発足。

「月の沙漠」で有名な御宿ですが、マンホールは町章付きの規格蓋しか存在していません。

昭和40年(1965)3月9日制定の町章は「町名の頭文字「オン」を図案化したもので、合併した3町村が丸く和合し、未来に向かって大きく発展することを表しています。」公式HPより

御宿町シンボルキャラクター『エビアミーゴ』。サーフィンが得意な小学生のエビ少年です。特産物の「伊勢えび」、400年前の史実によるメキシコとの交流を表現して誕生しました。

『エビアミーゴ』誕生に秘められた400年前のメキシコとの史実について、少し触れてみます。 御宿町岩和田に、通称メキシコ記念塔と呼ばれる「日西墨三国交通発祥記念之碑」があります。

慶長14年(1609)に岩和田の海岸で起こった、スペイン籍・サン・フランシスコ号の漂着事故。 岩和田村の人々は海岸に泳ぎ着いた乗組員317人を救助し、手厚くもてなしたと伝えられています。抱き合う像は、海水に遣って冷え切った体を、海女たちが自らの体温で温めている姿。昭和3年(1928)の建設から様々な経緯を経た記念塔は、今も遠く太平洋の彼方を見続けています。

撮影日:2019年3月8日

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勝浦市内~あちこちウォッチ in 千葉県勝浦市

2019年06月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

勝浦市最初の訪問先は「お仙ころがし」。随分と変わった名称ですが、これは勝浦市の西端から鴨川市にまたがる、約4kmの「崖」の通称で、この名前は「江戸時代の悲話」が元になったと云われています(リンク先に詳細が有るので興味のある方は)。 かっての旧国道は崖の中腹を通っていたそうで、古くから交通の難所として知られていました。 この画像は小道側から見たものですが・・・実はこれには語るも涙、書くも涙の失敗談があります😭

私たちの旅は、とにかく細かい場所の地点登録が多く、その為全てに番号をふって行動します。注意していても日に100近くもの登録なのでちょっとした失敗が大惨事を招きます😣 ちょっとした手違いで・・100近くある番号の中間に、全く別の日の番号の登録が混ざっていました。なんと千葉市からいきなり150k先の勝浦まで走ってしまったのです。 激しい雨の中、市原のマンホールも大多喜町の「ウエルカム~またのお越し」のボードも横目に見て・・

目的地は小道側からの「おせんころがし:のみ!!」。でも一気に150kも離れているという時点で気がつくべきなのに・・・当時のご亭主殿はナビの指示には絶対的な信頼を置いていました。でもそのナビに指示を入れたのはご亭主殿なんですけどね😅、本当に思い出すも涙です。しかも律儀に順番を守って、そこからまた市原市に帰ってくるという・・往復300kをかけて、海岸線を見る為だけとは・・実に壮大な回り道の迷所訪問。

二度目の勝浦市訪問でこの場所の近くを走った時、一瞬であの日の記憶が蘇り苦笑いでした。

訪問日:2014年5月21日

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勝浦市興津、興津海浜公園に「繋船柱(けいせんちゅう)」と呼ばれる柱があり、記念碑として保存されています。 【江戸時代、興津は、東北諸藩の廻米交易船の碇泊地として、房総沿岸有数の避難港として、いわゆる興津千軒の繁栄をもたらした要港でした。殊に穀倉を誇る仙台藩はその往来が最も激しく、興津天道山下に陣屋を置き、寄港船の取り締まりや連絡等にあたらせたといわれています。この柱も当時仙台藩によって運ばれたもので石巻近在に産する粘板岩、通称仙台石でできています。】説明版より

かつて港の弁天崎磯際には、この「繋船柱」が十数本も並立していたと言われています。500石以上の船が何隻も舳先を連ねて並ぶ姿は、想像するだけでもワクワクします。

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日本三大朝市のひとつとされる「勝浦の朝市」は、天正19年(1591)に『植村土佐守泰忠』によって始められました。 輪島の朝市・飛騨の朝市と制覇した私たち、残すはこの勝浦のみと、かなりの気合で訪ねて来ましたが・・・朝市通りに着いても全く賑わいらしい賑わいも無く・・と言うか人通りが少なすぎ!

出ているお店も数えるほどしかなく、売られているものも同じような野菜に漬物、魚・・後は魚の干物。 土日ではないから、人出も少ないし歩きやすいかもと思っていましたが、まさかこれ程閑散としていようとは😓  それでも折角来たんだし・・と、なかば無理やり車中でも食べられる佃煮やお漬物を数点購入。

その朝市どおりに鎮座される「遠見岬神社」の石段は、残念な結果となって無くしてしまった気力を、更に打ちのめす険しさ😣、 石段下の拝礼🙏で終了です。

後は勝浦で何が記憶に残ったんだろう??、ああ、そうだ!勝浦ご当地グルメの「勝浦タンタンメン」。何で「タンタンメン」?とご亭主殿に質問されましたが、そんな事、私にも分かりません😓 でも、町中には一杯「勝浦タンタンメン」のお店があるし、自販機でも宣伝中と言ったら、何故か納得してました。私にはそっちの方が不思議です?

訪問日:2019年3月8日

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