車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホールin千葉県東金市

2019年07月12日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

東金市(とうがねし)は千葉県のほぼ中央部に位置する市です。千葉市、山武市、八街市、大網白里市、山武郡九十九里町に隣接。市域は九十九里平野の房総台地との境界に広がり、台地の地層は上総層群の金剛地層で、地質的に下総台地ではなく房総丘陵に近いとされ、平野部は良質な田園地帯が太平洋に向かって広がり、丘陵地は山武杉の森林に覆われています。古くは江戸時代、徳川家康の鷹狩りのために「御成街道」が造られたことにより、 この地に宿場町と近隣の農産物が集まる問屋街とが形成されました。 以降、東金は物流の集散地としてにぎわうようになり、九十九里地域の中核都市として発展しました。市名は「鴇(とき)が根」に由来するといわれ、転訛し、東金と言うようになったと伝えられます。「市の木:ラカンマキ」「市の花:染井吉野」を制定。

キャッチフレーズは「人・自然・ときめき交感都市 東金」

明治22年(1889)、町村制の施行により、山辺郡東金町・丘山村・正気村・公平村・豊成村・大和村・下源村・福岡村が発足。

1897年、郡制の施行により、山辺郡・武射郡の区域をもって山武郡が発足。

1953年、山武郡丘山村、正気村、公平村、豊成村(道庭・家之子・求名・松之郷)、大和村(田中・福俵・山口の一部)と合併、改めて東金町が発足。

1954年、山武郡下源村(上布田・極楽寺・三ヶ尻・酒蔵・滝沢)、福岡村(下谷・上谷・東中島・一之袋・二之袋・大沼田・小沼田・砂古瀬・依古島新田・西中)を編入のうえ市制を施行、東金市となりました。

集排マンホールには、7つの円と、その中に「市の花:ソメイヨシノ」が描かれています。

市役所付近のタイル歩道には、「ソメイヨシノ」が描かれたカラータイルが沢山ありました。

昭和28年(1953)9月27日制定の市章は「東金の「と」を2字組合せ円型とした円は合併による人の和と団結を示し6枚の翼は市の飛躍発展を表している」公式HPより

下に「東金市」の自治体名が記されたコンクリート製のマンホール。

上水道関連の蓋は「山武郡市広域水道企業団」の制水弁。

東金市マスコットキャラクター『とっちー』。桜の名所、八鶴湖で生まれ育った妖精で桜の花が大好き。体中に桜の花びらがついています。『チーバ君』と並んでちょっとご機嫌

撮影日:2014年5月22日&2019年3月10日

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九十九里・あちこちウォッチ in 千葉県九十九里町

2019年07月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

九十九里町不動堂の豊海海岸に建つ、らせん階段が付いた展望台「九十九里ビーチタワー」。 巻き貝をモチーフにした高さ22mの塔からは、九十九里の海岸線と太平洋が一望できるそうです。

限りなく怪しい空模様、風が少しずつ強くなっていく中では、ご亭主殿も挑戦する気は無し。ついでに私の為に写真をと言う気持ちも皆無😡 モチロン!高いところが格別に苦手な私は、砂浜に打ち寄せる太平洋の波だけで満足です😅

訪問日:2014年5月22日

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九十九里町小関にある伊能忠敬記念公園、「伊能忠敬出生地」として県史跡に指定されています。

公園入り口に建立された「伊能忠敬先生出生の地」の記念碑は、『徳富蘇峰』の筆によるもので、昭和12年(1930)の建立。

延享2年(1745)、旧小関村に生まれた「忠敬」は、18歳で『伊能長由』の養子となります。 香取市佐原には、佐原在住時代の「伊能忠敬旧宅」が整備保存され、一般公開されています。公園内には 「象限儀(しょうげんぎ」を使って緯度の測定をする『伊能忠敬像』が建立されています。

この「地方測量之図」の浮世絵は、当時八十九才だった『葛飾北斎』が、嘉永元年(1848)に描いたものです。 北斎は測量の方法をよく理解していたようで、江戸時代の測量法が見事に再現されています。

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江戸の昔より、九十九里で繁栄を極めたとされる「鰯(いわし)漁」。その片鱗なのか、町の随所で「鰯」を見かけます😲

九十九里町小関にある「海の駅 九十九里」の愛称で知られる「いわしの交流センター」。 イワシ漁に関連する品が展示された「いわし資料館」は入館無料で、とても興味深い内容。特に!実物の「万祝(まいわい)」の展示は圧巻。しばらくその場から動けないほど感動しました。

資料館の入り口にある巨大水槽の中では、約3000匹の「真鰯(まいわし)」が回遊しています。見ているだけで引き込まれてしまいそうな圧倒的な迫力に、しばし釘付け。

灯りに反射してキラキラと光る「真鰯」の群れを見ていると、そのまま引き込まれてしまいそうで怖いほど。

それはさて置き、このすだれの上に盛られているのが「真鰯」で、店内には「真鰯」を使ったお土産も一杯。ちなみ私、鰯の銚子煮がとてもお気に入りです。

「海の駅 九十九里」の前には、2016年1月に設置された国内唯一の「青い丸型ポスト」が設置。青くてもちゃんと郵便物が投函できる郵政省認定のポストです。

ここでは「大漁旗」がはためく外観を期待したのですが、開店前に来た為、旗は竿に結ばれたまま。 そうと知って見なければ、どこかのアパートと間違えられそうな、何の変哲も無い建物😔

小さな漁村出身の私には、「大漁旗」は誇らしさに溢れた「ハレ」の日の象徴。 子供だったずっと昔、新しく造船した漁船一杯にはためいていた「大漁旗」の鮮やかな色・・色・・その下に座り舵棒を握る父の嬉しげで得意満面のあの顔・・思い出すと鼻の奥がツ~ン・・そして、竿に巻かれたままの大漁旗に思わずため息、世の中そんなに思うようには動いてくれません😓

訪問日:2014年5月22日&2019年3月10日

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千葉県九十九里町不動堂の一画、竹垣に囲まれた中に建立された「関東地方甘藷栽培発祥の地」碑。

ここは享保20年(1735)に『青木昆陽』によるサツマイモの試作が行われ、関東で初めて成功した地。 碑には「八代将軍徳川吉宗」や「南町奉行大岡越前」の名も登場・・時代劇ファン必見かもしれません😄

訪問日:2019年3月10日

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ご当地マンホール in 千葉県九十九里町

2019年07月10日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

山武郡九十九里町(くじゅうくりまち)は千葉県東部に位置する町です。東金市、山武市、大網白里市に隣接。太平洋に面し、九十九里平野および九十九里浜(九十九里海岸)の南部に位置しており、紀州加太浦の漁民によって開かれた片貝を中心とし、漁業の町、イワシの町として発展してきました。 「九十九里」の名は、『源頼朝』が浜辺を測量したという故事によってつけられたそうです。太東岬から1里ごとに浜に矢を立てて行部岬まで・・・情景を想像するととても興味深い話です。

市役所の敷地内にあった「片貝町道路元標」。山武郡片貝町は、大正15年4月10日に発足しました。「町の木:黒松」「町の花:オオマツヨイグサ」「町の鳥:シロチドリ」を制定。

キャッチフレーズは「人、自然、風土が活きる 海浜文化都市 九十九里」

明治22年(1889)、町村制の施行により、山辺郡片貝村、豊海村、鳴浜村が発足が発足。

1897年、郡制の施行により、山辺郡・武射郡の区域をもって山武郡が発足。

1926年、片貝村が町制を施行、山武郡片貝町となる。

1940年、豊海村が町制を施行、山武郡豊海町となる。

1955年、片貝町、豊海町、鳴浜村作田地区が合併、山武郡九十九里町が発足。

集排マンホールには「町章」と「町の花:大待宵草、町の鳥:白千鳥、九十九里浜」が描かれています。(展示蓋は市役所内)

昭和37年(1942)10月10日制定の町章は「九十九里町の「九」と「十」を堅く組合わせ男性的に図案化したもので、九十九里町の荒波と団結、躍進を象徴しました。」公式HPより

「山武郡市広域水道企業団」の制水弁

九十九里町イメージキャラクター『くくりん』。実はこの名前は愛称、本名は、舌をかみそうな『ウェーブキャット・くじゅうくりん・クリスティーにゃ』・・・ でもって、彼のおじいちゃんは伝説の「にゃーふぁー(猫のサーファー)」なんです😲

撮影日:2014年5月22日&2019年3月10日

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白子(しらこ)神社 in 千葉県白子町 

2019年07月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

白子町関に鎮座される「白子(しらこ)神社」。御祭神は『大国主大神』。配祀『大日孁大神(おおひるめおおかみ)(天照大神)・月読大神』

由緒に【永承3年(1048)天の中心にあって世を守護するとされる天帝(玄武大帝)である「子(ね)」の大黒(大国主大神)を祀ったのが始めとされる。近世、南白亀郷(なばきごう)12ヶ村の総鎮守であり、社号は白子町の町名の起こりとなった】

また社伝に【大治元年(1126)、海岸に漂着した白亀の甲羅の上に白蛇がわだかまっているのを里人が発見。里人が「神様ならお登り下さい」と潮汲みの柄杓を差し出すと、白蛇が柄を登ってきたので、これを神と崇め、社へ合祀したと伝えられている。久安3年(1147)に現鎮座地の関へ遷祀する】

本殿は宝暦12年(1762)の再建。三間社造りで羽目板・脇障子等に見事な彫刻が施されています。 塀の向こうの画像を撮るには、小柄すぎる私には厳しい条件、でも大丈夫!困った時のご亭主殿頼み。

カメラを向ける事ができたのは一方向だけですが、見事な牡丹の彫刻。 脇障子の彫刻は、多分龍だと思うのですが、逆光に遮られて判別の出来ない画像になりました。

木鼻の唐獅子も一方向のみが辛うじて見られる程度で、日暮れ間近の撮影は今一つ。 記憶の中に焼きついた素晴らしい彫刻も含めて、本殿は千葉県有形文化財の指定。

拝殿前より神域を守護されるのは、明治三十三年(1900)十一月建立、阿吽ともに仔狛をつれた狛犬さん一対。 阿形さんの腕の下の仔狛は、今にも台座からずり落ちそうになり、慌てて親狛にしがみつく始末😅 その姿が、ご亭主殿の膝で無理やりくつろぐ我が家の猫を思い出させ、ちょっとホームシック。

そんな様子を見守る吽形さんと仔狛さん。こっちの仔狛はずいぶんと大人しく抱かれています。

拝殿向背には「龍」の彫刻。まるで朱の海中で眠っているような・・日の落ちかけた時間が見せる不思議な画像となりました。

木鼻の唐獅子は、流れるような鬣を風になびかせ、優雅に体をくねらせこちらを見下ろします。

阿形さんの開いた口から覗く牙は鋭く均等に並び、虫歯に悩む私には羨ましいほど。 そう思ってみる所為なのか、ニヤッと笑っているようで・・・ちょっとだけ悔しいかも😣

朱塗りの柱が美しい手水舎では、社伝に語られる「白亀の甲羅の上に座す白蛇」の吐水。 手水という場所ゆえか、神様らしからぬ可愛らしいお顔で、参拝者の清めの手助けしてくれてます。

朱塗りの柱に、極彩色の木鼻の唐獅子、色合いの所為なのかまるでやんちゃな子供のよう。 緑の体に付けられた獅子の巻き毛模様が、神楽の獅子を連想させて、思わずクスリ😄

「末社:面足神社」。御祭神は『面足命(おもたるみこと)』、通称を『イケメン様』と言うそうです😅 「面足」とは「身体と容貌の完備した最初の神」「男子の顔つきが満ち足りていること」の意。 なるほど・・・確かに『イケメン様』。だから「美男美女御守」なるものも有るんですねぇ。

「末社:八幡社」。御祭神は『応神天皇』。仮奉祀として「子安神社」を合祀。 鳥居の前には、小さいながらも一生懸命に神域を守護されている狛犬さん一対。 小さいものには何故か寛容になる私(もちろん何でもではありません)、応援したくなるのです。

参拝日:2019年3月9日

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ご当地マンホール in 千葉県白子町 

2019年07月08日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

長生郡白子町(しらこまち)は千葉県の中央部、九十九里浜沿いに位置する町です。茂原市、大網白里市、長生郡:長生村に隣接。町の東部は九十九里浜で、白砂青松の景観を有する砂浜と松林がつづき、雄大な太平洋を臨んでいます。また、天気の良い日には、西に富士山を仰ぐことができ、「九十九里浜いわし漁発祥」の地として知られています。現在はテニスコート数・日本一を誇るテニスの聖地として、また白子温泉を有する保養地としても有名。町名は「白い蛇と白い亀」の伝説が残されているという「白子神社」からつけられました。「町の木:黒松」「町の花:ひまわり」を制定。

キャッチフレーズは「海とテニスと温泉のまち」

明治22年(1889)、町村制の施行により、長柄郡白潟村、関村、南白亀(なばき)村が発足。

1897年、郡制の施行により、長柄郡・上埴生郡の区域をもって長生郡が発足。

1940年、白潟村が町制を施行、長生郡白潟町が発足。

1955年、白潟町、関村、南白亀村が合併、長生郡白子町となりました。

見つけたマンホールは町章のみの規格蓋、下に「汚水区間弁」の文字。

昭和49年(1974)12月19日制定の町章は「白子町の「白子」の2文字を図案化したものです。全体の丸い感じは、平和で円満なまちづくりを表しています。」公式HPより

白子町シンボルキャラクター『げんき君』は、白子町40周年の記念事業として誕生しました。 体は太陽と情熱の赤、髪の毛は九十九里浜の大波、緑は町の木:松を表現しています。

この日は前日の雨などでスケジュールが狂ってしまい、「白子海岸」で車泊となりました。 近くのホテルの日帰り入浴でさっぱりした後、薄暗い海岸駐車場で車泊をしたのですが・・・
ド~~~ンと打ち寄せる波の音は、瀬戸内海の海しか知らない私には、とてつもない恐怖でした😭
ネットでは最高に良い車泊地と紹介されていたし、確かに他にも車中泊の車が何台もいました。それでも【波を子守の歌と聞く】には、私たちは軟弱すぎ、夜明けの待ち遠しかったこと😂

とは言え、おかげで夜道を何十キロも走らずに済んだこと、ありがたく感謝しています🙏🙏  打ち寄せる波はきっと昨夜と同じ筈なのに、朝日が反射してキラキラと輝き、不思議な感動の時間を経験させて頂きました。

撮影日:2019年3月9日

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ご当地マンホール と旧千葉銀行大網支店 in 千葉県大網白里市

2019年07月07日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

大網白里市(おおあみしらさとし)は千葉県中央部の山武地域に位置する市です。千葉市、東金市、茂原市、山武郡:九十九里町、長生郡:白子町に隣接。九十九里平野のほぼ中央にあり、東西に細長い市域は西部の「大網地区」である緑豊かな丘陵部、中央は広大な田園部の「増穂地区」、東は白砂青松の海岸部「白里地区」と、特色ある豊かな自然を持つ風土を有しています。「市の木:モクセイ」「市の花:コスモス」を制定。

キャッチフレーズは「未来に向けて みんなでつくろう! 住みたい・住み続けたいまち」

明治22年(1889)、町村制の施行により、山辺郡大網町・白里村・増穂村・瑞穂村・山辺村が発足。

1897年、郡制の施行により、山辺郡・武射郡の区域をもって山武郡が発足。

1935年、山武郡白里村が町制を施行、山武郡白里町となる。

1951年、大網町、瑞穂村、山辺村が合併、改めて山武郡大網町が発足

1954年、山武郡大網町、白里町、増穂村が合併、大網白里町が発足。

2013年、山武郡大網白里町が市制を施行、大網白里市となりました。

漢字四文字の市名は県内で唯一ですが、三町合併で外れた「増穂」からはクレームは無かったのか・・気になるところです😅。

マンホールには「太平洋から昇る鮮やかな旭日と、九十九里浜海岸」が描かれています。(カラー蓋は、大網駅前のタイル歩道の上)

集排地区のマンホールには「田園風景と南玉のゲンジ蛍」「市の花:コスモス」がデザインされています。

昭和30年7月1日制定の市章は「「大」の字を図案化したもので中央の円は穀倉地帯、周囲の浪の花は太平洋の波頭を表しています。大網白里町章として制定され、市制後も継承されました。」公式HPより

「山武郡市広域水道企業団」の制水弁、給水エリアは大網白里市、東金市、山武市、九十九里町、横芝光町。

下に「九十九里地域水道企業団」と書かれた、マンホールサイズの空気弁。給水先企業は「八匝水道企業団」・「山武郡市広域水道企業団」・「長生郡市広域市町村圏組合」。

大網白里市マスコットキャラクター『マリン』。名前の通り、白里海岸の人魚の女の子。 みんなを元気にする「笑顔」と、大網白里市をイメージした「ヘアースタイル」が自慢です。地元でとれた農産物・海産物が大好きだけど、食いしん坊だから何でも食べちゃうそうです。

大網白里市はマンホール収集だけに立ち寄った為、紹介できる名所旧跡は、たまたま見かけた一軒の建物だけ。

昭和45年まで「千葉銀行大網支店」として使用。屋根のパラペット中央には、紋章飾りを据えた半円アーチの装飾が施され、特徴ある表構えを構成しています。五年前に訪問した際は「熱海輪店」というお店でした。建物は大正時期の銀行建築を残す建造物として、国登録有形文化財に指定されています。 

撮影日:2019年3月9日&2014年5月22日

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飯尾寺(いいおじ)~其の二 in 千葉県長柄町

2019年07月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

「飯尾寺」本堂の素晴らしい宮彫刻の数々にすっかりご満悦の私ですが、思いがけない僥倖はご亭主殿にも😍 本堂の前に奉納されている狛犬さん、側には長柄町指定の文化財という案内があります。 で、ご亭主殿を狂喜させたのは、阿吽の狛犬さんが、いわゆる「はじめ」と呼ばれる形だった事。

全くの予想外の出来事、しかも後で調べて分かった事ですが、奉納年は「寛文10年(1670)」。 奉納年の銘が残されている狛犬としては、千葉県下では最古とか、本当に幸運としか言えません。 名工の生み出す華麗な「江戸流れ」はもちろん大好きですが、「はじめ」タイプはまた

機嫌よく「はじめ」を連発していますが、ここでちょっとだけ知ったかぶりを披露します。―「狛犬」とはなんぞや?、初めて狛犬を彫る事になった石工たちは、おおいに考え込みました。そして色んな伝聞を頼りにして彫り上げていくのですが、なにしろモデルがいない。試行錯誤の手探りで生み出されたその姿、その表情は素朴であったと思われます。― 狛犬ファンの中では、初期の頃に彫られたこうした狛犬を「はじめ狛犬」と呼ぶのだそうです。

横向きで見ると何とも座りの良い綺麗な三角形、なだらかなその背中に誘惑されそう😊

実は狛犬の紹介はご亭主殿の担当。私のブログでは一対の1ショット、多くても2ショットです。 でも、たま~~に掟破りで、自分の好みに合う狛犬さんを、色んな角度で紹介する事があります。

狛犬好きは、必ず後ろ姿を画像に納めるのですが、特に「尾っぽ」の形状に心惹かれるとか😄 何がどう心惹かれるんだと聞かれても「いや、とにかく後ろ姿は外せない」としか言えないそうです。

斜めから見ると、背中に丸い模様が刻まれているのですが、あれは多分獅子の渦巻き文様でしょう。

お尻の下から伸びる後ろ足のものすごい不自然さが「はじめ狛犬」の「はじめ」たる所以。 更に言うなら、その不自然さが味わいを感じさせてくれるのも「はじめ狛犬」ならではです。

狛犬さんばかりで何となく片手落ちになってしまいましたが、境内の石灯篭も町指定の文化財。 ちゃんと一対になっているので本来なら二枚の筈ですが、何故かこの一枚しかありません😅 更に、同じく町指定の文化財である「梵鐘」も、向こうに見えているのに画像がありません。
彫刻と狛犬さん以外は目に入らなかった・・・訳ではないですが、結果が全てを物語っています😊

狛犬さんの向こうには、絶対に登れそうにないと諦めた石段が、山門に続いています。 もしかしたら、この狛犬さんたちもあの石段を誰かに担がれて登ってきたのかもしれない。

拝観できるはずもない「重文の不動明王像」があると言うだけで、行ってみようと思った私。 まさかこんなに素晴らしいお宝たちに出会えるなんて、不動明王様の御利益は半端じゃないです😍

参拝日:2019年3月9日

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飯尾寺(いいおじ)~其の一 in 千葉県長柄町

2019年07月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

長柄町山根に建つ「顕本法華宗寺院:威王山:飯尾寺(いいおじ)」「大曼荼羅」を御本尊とします。

山門から見上げる石段は目を見張るほど、しかも軽く眩暈がしそうな高さですが・・実は車で行けます😊 本当は、とても登れそうにないとしょげる私を見て、ご亭主殿が一生懸命、車用の参道を探してくれました。

「創建年代等については不詳であるが、もともとは鎌倉時代から室町時代にかけてこの地方を領した飯尾氏が建立した仏堂に始まるとされる。南北朝時代の僧で法華宗妙満寺派(現在の顕本法華宗)の祖『日什(にちじゅう)』(1314~1391)が開山となり、妙満寺派の寺院となったと伝えられる。」山門説明より

説明版の右上に見る「木造不動明王坐像」は、国の重要文化財に指定されているとか。 像高約85cm、重さ20k、玉眼に檜の寄木造で、寺伝では文覚上人の作と伝えられています。

人気の無い境内はことさらに静かで、差し込む日差しは思ったよりも温かく春の気配。 本堂の前には、長柄町指定文化財として「石灯籠・狛犬」の説明、そして「波の伊八」の文字😲。 これには本当に吃驚、それを目当てに訪ねてきた訳でもないのに、こんな行幸に巡りあえるとは! 大して信心深くも無いのに良いのだろうか😓

締め切られた本堂のガラス越しにしがみつくようにして覗き込む二人、そこには鮮やかな雌雄の龍。この本堂欄間彫刻は『武志伊八郎伸由』の作で、文化11年(1814)に製作されたと言われています。

龍は仏法守護の八部衆の一つで、特に不動明王を本尊とする寺院にはその造形が多く見られます。 ガラス越しなのと、周囲の明り取りから光が入ってくる為、画像としては見辛いかもしれません。

正面向かって左の欄間彫刻は「松に鶴」ですが、こちらに関しては特に作者の説明はありません。

懸魚には「波と鳳凰」。奥には波の間を戯れる二匹の亀の姿があります。これにも特に作者の名はありませんが、個人的には気に入ってます。

彩色が施されていたと思われる「手挟(たばさみ)」は、かなり磨り減ってますが「松に鶴」。本堂が鮮やかな朱塗りなので、創建当時はもっと艶やかで美しいものだったと想像できます。

渦巻く鬣(たてがみ)をなびかせて振り向くのは、木鼻の唐獅子。懸魚の彫刻と似たタッチなので、もしかしたら同一の方かもしれません。

吽形の唐獅子のかみ締めた口元からは、鋭くとがった歯が覗いており、かなりの迫力。 それなのに、一生懸命に見上げた唐獅子から感じられるのは、穏やかで心地よい気配なのです。

もう一対の木鼻の唐獅子は、先に紹介したものよりも更に優しげで穏やかに感じられます。 じっと見上げていると、古い友人と久しぶりに出会ったような不思議な感覚に思わず笑顔に。

どれほどの年月を、この高みで過ごしてきたのか・・きっと大勢の参拝者を見守ってきたんだね。 思いもかけない宮彫刻の数々に出会えて大満足の私、一方ご亭主殿も大満足だったのですが・・・その理由は明日😄

参拝日:2019年3月9日

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ご当地マンホール in 千葉県長柄町

2019年07月04日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

長生郡長柄町(ながらまち)は千葉県中央部、長生地域に位置する町です。茂原市、市原市、長生郡:長南町に隣接。房総丘陵(丘陵地帯)の中に位置し、平地は少なく、山勝ちな地形。大きな川が無い為、水源を確保するための溜池・ダムが多く点在しており、町内には東京湾岸および九十九里平野南部から南房総(安房地域)にかけての地域への水源確保を目的とした「長柄ダム」とダムによって生まれた「市津湖」があり、利根川からくみ上げ房総導水路を通して送られて来た水を溜めます。

町の歴史は古く、宝亀5年(774)に上総介に任じられた藤原黒麻呂が現在の茂原地区を私牧として設定し以降、子春継の代に至るまでその土地を開墾して藻原荘とし、同じ一宮川の上流域の谷戸である田代地区(長柄町)を買得集積、これを田代荘とし平安時代を中心に発展してきました。「町の木:梅」を制定。

キャッチフレーズは「水が輝き、緑が輝き、そして笑顔が輝く、ヒューマンリゾート ながら」

明治22年(1889)、町村制の施行により長柄郡上長柄村・日吉村・水上村が発足。

1897年、郡制の施行により、長柄郡・上埴生郡の区域をもって長生郡が発足。上長柄村が長生郡長柄村に改称。

1955年、長柄村、日吉村、水上村が合併、長柄町が発足。

集排マンホールには町章を中心に、「町の木:梅」が2周にわたって描かれています。

昭和38年1月1日制定の町章は「「ナ」 をデザインの基本にして調和と理想に向かい飛ぶ鳥をイメージ。」公式HPより

「山武郡市広域水道企業団章」のついた「監査孔」親子マンホール。山武郡市広域水道企業団は、東金市、山武市、大網白里市、九十九里町、横芝光町の三市二町で構成されます。

長柄町マスコットキャラクター『ながラン』は長柄町に住む妖精。頭の水のしずくは『長柄ダム』。背中の葉っぱは『長柄町の豊かな緑』、胸のお日さまは『みんなの明るい未来』と・・妙に教科書っぽい説明😅

撮影日:2014年5月22日&2019年3月9日

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笠森(かさもり)観音~其の二 in 千葉県長南町

2019年07月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

笠森寺への参道は二通りあり、それぞれに「男坂」、「女坂」と名づけられています。 わたしたちは「女坂」からの参拝を目指しました。 参道は深い森の中へ吸い込まれるように、手摺りの付いた石段が奥へと続いています。

石段に足を置く前に、花筒一杯の花の中に祀られているお地蔵様に「行ってきます」と軽く合掌🙏。 岩をくりぬいた小さな祠ですが瑞々しい空気に満ちています。

ちなみに笠森観音堂への参道石段は100段以上・・・深い緑に包まれた山肌を縫うように続きます。「女坂」という名称なので、きっと比較的登りやすいのだろうと思いますが、それでもこの石段のきつさ・・手摺りとご亭主殿に助けられて一段、一段、さっき右足を出せたんだから、今度は左足を・・・繰り返しながら前に進みます。

喘ぎながらの石段参道ですが、道々に説明のあるものには、けっこう敏感に反応する私😲 こちらの巨大な三本杉は、根元の部分が3本全て繋がっており、日本国内でも珍しいと言われています。 でも肝心の根元部分を写していないので、これでは単なる三本杉と区別が付きません。「私・・やっぱり疲れてるのよ😔」

こちらは子宝の神木「子授け楠」。この穴を夫婦でくぐれば子宝が授かるんだそうです。 子宝を望むお年頃はとっくに卒業した二人😅 代わりにと思う人も身近にいません。

そういう事なので😅 潜るのは無し。穴の向こうを見るだけにしましたが、これが中々に良い眺め。 大きく開いた穴の向こうには、「子授け観音」のお姿があり、何とも神秘的な光景でした。

「子授け観音」の側からから見るとこんな感じ。絡まりあう何本もの木の根に生命力があふれています。

参道の途中に作られた平地には、三基の碑が並んでおり、中央に『芭蕉』さんの句碑。上総国で建立された芭蕉句碑の最古のもので、安永6年(1777)の建立。 【五月雨に 此笠森を さしもぐさ】 さしもぐさはヨモギの異名、仏教用語ではこの世に生きる人すべて、一切衆生のことを指します。

芭蕉句碑の左には、江戸時代前期の俳諧師で蕉門十哲の一人『各務支考(かがみ しこう』の句碑 【片枝に  脈や通ひて 梅の花】

右には、義仲寺無名庵の庵主で、先の『各務支考』の弟子と言われている『渡辺雲裏』の句碑。【すへられて  尻の落着く瓢(ひさご)かな】

芭蕉さんの句碑の右側には、石仏や石碑がいくつかありましたが、特に説明は有りませんでした。

ここまでくると笠森寺の境内まではあと一歩、ゴールが見えてくると不思議と気力が復活します。 ここから先は昨日のブログで紹介したのですが、一箇所だけ書き漏らしていた場所がありました。観音堂の北側の「仁王門」で、一応阿吽の仁王様がひっそりと頑張っておられます😊  仁王門の先は、細い山道が続いているようでしたが、二~三歩進んだだけで引き返しました。

さぁ、参拝も終えたし、見たいと思っていた日本唯一の「四方懸造」の観音堂も拝観しました。 くだりの帰り道は、一歩先の様子が分かっている分、短く感じられるもの、出口はすぐそこです。 車を停めた場所までの道すがら、満開のしだれ梅に見送られて気分は上々。

御詠歌【日はくるる 雨はふる野のみちすがら かかる旅路を たのむかさもり】

参拝日:2019年3月9日

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