車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

平城宮跡・朱雀門 in 奈良市二条大路

2023年04月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

奈良市二条大路のこの地に、『元明天皇』により遷都の詔が出され、都が移されたのは710年。恭仁京や難波京への遷都で一時的に放棄はされましたが、745年には再び平城京に遷都。その後784年に長岡京に遷都されるまで、この地は政治の中心地として栄華を誇りました。

1998年12月、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産を構成するひとつとして登録。私たちが平城宮跡を訪れたのは2002年の夏。古の地に朱雀門が復元されたと聞いてからです。

「平城宮朱雀門」。考古学的研究と奈良県下の寺社に残る門を参考にして、1998年に五間三戸の二重門がかつての位置に等寸復元。大内裏において南面する正門であり、宮城の12の門のうち最も重要とされていた門です。

朱雀門の向こうに見えるものはひたすらに青い草原、時折吹く風が草をなびかせる様はとても幻想的。このすぐ向こうが喧騒を極める奈良の市街とは、とても信じがたい・・・・

こちらには「平城宮第一次大極殿正殿」が復原される予定だとありました。これだけの規模の基礎に建てられる正殿、どれほど見事な情景だろうか・・ねぇ、正殿が完成したら、その時もう一度ここを訪ねようね。

2010年に第一次大極殿は復元。はじめてこの場所に立ったときから実に21年もの歳月が過ぎてしまいました。あの日のもう一度の約束は、車中泊の予定に追いやられたまま実現せず・・今ではもうすっかり「無かった約束」に変わりました。

朱雀門の東南に建つ銅像は、平城宮跡の保存活動の先駆者として知られる『棚田嘉十郎』氏。大和奈良町の植木商であった彼は、自らの私財を投じて平城宮跡の保存運動に力をつくしました。彼が指差す先には、見事に復元された南都・平城京がきっと見えているのでしょう。

【 いにしへの ならのみやこの八重桜 けふ九重に にほひぬるかな 】(昔、都であった奈良の八重桜が、今はこの平安の宮中でいっそう美しく咲いていることよ。)伊勢大輔

それにしても21年・・・何と二昔も前の事なんだと今更ながらに過ぎてゆく歳月の速さに驚きを禁じえません。こうして画像を見ることで当時の情景が思い出せるうちに・・書き残していければと願っています。

訪問日:2002年8月31日

 

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鎮宅霊符(ちんたくれいふ)神社 in 奈良市陰陽町

2023年04月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

奈良市陰陽町に鎮座される「鎮宅霊符(ちんたくれいふ)神社」。御祭神は『天之御中主神(鎮宅霊符神)』

「創建は永久5年(1117)、『元要記』に『興福寺行疫神、鳥羽院御宇、永久五年正月社壇建立、南都四箇陰陽師仕之』との記録が残る」Wikipediaより

ちなみにこちらの阿形さん。「笑うこまいぬ」としてパンフレットなどでも頻繁に登場しています。確かに「笑っている」と言われればその通りで、この笑顔の所為で、ちょっとした観光名所にもなっています。

吽形さんは「笑う」というより「微笑んでいる」表情ですが、何故か観光案内では阿形さんだけが目いっぱいクローズアップ。じっと見ているだけで優しい気持ちになれる、柔和なお顔なのにね(笑)

参拝日:2009年7月4日

 

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御霊(ごりょう)神社 in 奈良市薬師堂町

2023年04月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

奈良市薬師堂町に鎮座される「御霊(ごりょう)神社」。御祭神は『井上皇后(いのえこうごう)、他戸皇太子(おさべおうじ)』。本殿東側社殿に『早良親王、藤原大夫人、藤原廣嗣』、西側社伝に『伊予親王、橘逸勢、文屋宮田麿』

由緒「当神社は延暦19年(800)人皇第五十代 桓武天皇の勅命により御創祀された社です。~薨去後、都に天変地異が相次ぎ疫病が流行した為、母子の祟りと恐れた天皇は墳墓を改葬して山陵とし、吉野皇太后の追号を贈り、手篤く慰霊されました。 奈良時代、平安時代の人々は無実の罪を着せられて非業の死を遂げた人の怨みの心が怨霊となって災いを起こすと恐れました。しかしその怨霊を丁重にお祀りすれば御霊となり守護してくれる神になるという風に考えるようになりました。これが御霊信仰の始まりです。」公式HPより

朱の鳥居の左右より神域を守護されるのは、ユニークさではおそらく群を抜く狛犬さん一対。不思議な近視感は、おそらく昔我が家に居たパグ犬の「だいなごん君」に似ている所為かも(笑)

楼門には皇室を表す「十六菊紋」。拝殿には「五七桐紋」がそれぞれに格式の高さを物語っています。

末社:「出世稲荷神社」「天正15年、豊臣秀吉公が聚楽第の造営に際し、邸内に稲荷神社を勧請。翌年、後陽成天皇が聚楽第に行幸し、稲荷神社に参拝した時に立身出世を遂げた秀吉公に因で「出世」の称号を授けたと言われる。昭和27年に御分霊を頂きお祀りする。」公式HPより

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『井上皇后(いのえこうごう)』、宝亀3年(772)3月、光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、同年5月には息子『他戸親王(おさべしんのう)』も皇太子を廃された。翌 宝亀4年(773年)10月、『難波内親王(光仁天皇の同母姉)』への呪詛・殺害の嫌疑が掛かり『他戸親王』と共に庶人に落とされ、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)の没官の邸に幽閉。同6年(775年)4月、幽閉先で他戸親王と共に薨去。

『早良親王 追諡:崇道天皇(すどうてんのう』、藤原種継の暗殺に関与した罪により廃され、自ら絶食して没す。

『藤原 吉子 尊称:藤原大夫人』『伊予親王』、『桓武天皇』の夫人と、『桓武天皇』の第3皇子。大同2年(807)、謀反の嫌疑をかけられ、伊予親王とともに川原寺(弘福寺)に幽閉。飲食を絶たれ、母子ともに自害。

『藤原廣嗣』、親族への誹謗を理由に天平10年(738)12月に大宰少弐に左遷。兵力を率いて反乱を起こし、捕らえられた後、処刑。

『橘逸勢(たちばなのはやなり)』、謀反の疑いをかけられ、姓を「非人」と改められた上で伊豆国へ流罪となり、護送途中に遠江国板築駅で病没。

『文屋宮田麿』、新羅との貿易トラブルに関わり、謀反の嫌疑をかけられ伊豆国へ流罪となる。

まぁ・・・こうして列挙してみると、祟りの規模も半端ではなかっただろうと推測されます。後に神として祀る心理の裏には「もしかしたら無実かも」「実は濡れ衣だ」「政争の具となって陥れられた」等々・・があったのだろうと思います。

「怨霊(おんりょう)」を祀り、神と奉る事で「御霊(おんりょう)」とする。それもまた言霊が持つ神秘の力かもしれません。

参拝日:2005年10月1日

 

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氷室(ひむろ)神社 in 奈良市水門町

2023年04月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

奈良市水門町に鎮座される「氷室(ひむろ)神社」。御祭神は『闘鶏稲置大山主命(つげのいなぎおおやまぬしのみこと)・大鷦鷯命(おおささぎのみこと)・額田大仲彦命(ぬかたのおおなかひこのみこと)』

由緒「元明天皇の御世、和銅3年7月22日、勅命により平城新都の左京、春日の御蓋の御料山(春日山)に鎮祀され、盛んに貯水を起こし冷の応用を教えられた。これが平城七朝の氷室で、世に平城氷室とも御蓋氷室とも春日の氷室とも言われた。翌和銅4年6月1日初めて献氷の勅祭を興され、毎年4月1日より9月30日まで平城京に氷を献上せられた。奈良朝七代七十余年間は継続せられたが、平安遷都後はこの制度も廃止せられ、遂に150年を経て、清和天皇の御世、貞観2年2月1日現在の地に奉遷せられ、左右二神を増して三座とせられた。」公式HPより

沢山の灯篭が並ぶ参道、ゆるやかな石段の先には朱と白漆喰が美しい表門の四脚門(奈良県指定有形文化財)。もとは内裏の日華門で応永9年(1402)に現在地に移築されました。

その入り口にて神域を守護されるのは関西と丹後系が合わさったような顔立ちの安政4年(1857)建立の狛犬さん一対。ツンと澄ました吽形さん、大らかな笑顔の阿形さん、個人的に好みの顔立ちです。

奉納「明治27年 ドイツ・クルップ制 砲弾」

石燈篭・火袋の獅子と牡丹

石灯籠に刻まれた十二支「巳・辰」

石灯籠に刻まれた十二支「未・午」

石灯籠に刻まれた十二支「亥・戌」

「鷹乃井」

参拝日:2009年10月18日

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御祭神一口メモ

『闘鶏稲置大山主命(つげのいなぎおおやまぬしのみこと)』、闘鶏国造の人物。所有する氷室の氷を仁徳朝に献じたと伝わり、氷の神とされる。

『大鷦鷯命(おおささぎのみこと)』、仁徳天皇。

額田大仲彦命(ぬかたのおおなかひこのみこと)』、仁徳天皇の異母兄で応神天皇の皇子。

 

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奈良市内の歴史的建物・エトセトラ in 奈良市

2023年04月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

奈良市内の歴史的建物訪問、しつこく続きましたが、今回が最終回(笑)。

奈良市高畑町にある「奈良教育大学・教育資料館」。明治41年(1908)に「旧日本陸軍第38連隊糧秣(りょうまつ)庫」として建築。

その後、附属図書館書庫、工作実習室、書類・物品倉庫として使用され、1992年に教育資料館に改修されました。

奈良教育大学が建っている場所は、かっての奈良連隊敷地内であることから、敷地内にはこうした遺構が幾つか残されています。

キャンパス北西部には『吉備真備』の墓といわれる吉備塚古墳があります。2002~2003年度に実施した学術調査では、二基の埋葬施設が確認され、三累環頭大刀、貝装雲珠、挂甲など学術的価値の高い遺物が多数出土しました。

大学に隣接する地方合同庁舎前に、軍旗がピラミッド状に組まれた碑が建立されています。碑の上には銃、台座には【奈良連隊跡記念碑】の文字。調べた碑文の最後の一文は 【由緒ある奈良連隊跡を偲び 先輩戦友の遺勲を永く後世に伝える為記 念碑を建立する】

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奈良市高畑町にある、木造2階建・瓦葺:大正8年(1919)築の「旧足立家住宅」。家屋を取り囲む塀の腰部分は乱石積で、上はモルタル仕上げ。屋根には主屋同様、赤桟瓦が葺かれ、主屋と共に国登録有形文化財の指定を受けています。

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奈良市角振町にある「ぜいたく豆本舗本店」。有形文化財の主屋は明治期(1868-1911)の建築。

その向かいに見つけた「三条会館ビル」。昭和初期に建築されたと思われる鉄筋コンクリートの建物には、レトロな建物好きの目をひきつけてくれる装飾が幾つも見られます。

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「鷺(さぎ)池」に架かる蓬莱橋の先に見えるのは、檜皮葺き八角堂形式の「浮見堂」

浅茅が原の深い林の緑と濃い水の青が、いかにも古都らしい佇まいを見せており、思わずお昼のお弁当はここで・・と思ったのですが、よく考えたらお弁当を持参していない(笑)。

奈良市内に残された歴史的建造物。もっとじっくり見て歩けばまだまだ沢山ある筈ですが、今回はこれで打ち止め。いつかまたこんな風にのんびりと歴史ある町並を歩けますように・・・願いを籠めて。

訪問日:2009年10月18日

 

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志賀直哉旧居&菊水楼&江戸三 in 奈良市

2023年04月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

奈良市高畑町にある「志賀直哉旧居」。昭和3年(1928)に建てられた木造二階建・瓦葺の建物で、設計は氏自身の手と言われています。

大正14年(1925)に京都山科から奈良市幸町に引っ越してきた「志賀直哉」は、奈良公園に隣接し若草山の眺望も良い高畑に居宅を建設し、昭和13年(1938)から東京に移り住むまでの10年間を家族と共にこの家で過ごしました。

現在は「奈良文化女子短期大学セミナーハウス」として使われており、高畑サロンとして一般公開されている建物は、2000年に国の登録有形文化財として認定されています。

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奈良市高畑町にある奈良の老舗料亭「菊水楼」。格式のある本瓦葺の薬医門は「圓成寺塔頭」の門で、元和元年(1615)~慶応3年(1867)の築とされています。

入母屋造、桟瓦葺の純和風木造3階建の本館は、明治34年(1901)に増築されたもので、正面に突出する入母屋造の玄関が特徴となっており、天井には菊水の彫刻が施されています。料理旅館として多くの賓客を迎えた建物は、2000年12月4日に表門・裏門・旧本館共に国指定登録有形文化財の指定を受けています。

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奈良市高畑町、時折鹿も訪れる奈良公園の中に、創業明治40年の料理旅館「江戸三」が点在しています。点在と言う表現は不思議に聞こえるかもしれませんが、この「江戸三」は、数寄屋風の離れがそれぞれに独立しており、11室(11軒)のどれもが粋を凝らした造りとなっています。

まるで秘密の隠れ家のような離れで、日常を忘れて過すなんて、なんて贅沢な趣向でしょう。公園内という立地は、季節ごとの移ろいを目の当りに出来、たまに鹿と戯れたりも出来ます。

超がつく偏食家の私には、料理旅館ほど無用な存在は無いのですが(笑)、それでも大好きなご亭主殿と二人で過すのなら、こんな場所での贅沢な一時も悪くないかも(*^^*)

上品な和空間で、厳選旬食材を使用した会席料理・・本当に!フレーズは良いんですけどね ミ(ノ;_ _)ノ =3

奈良市内に残された歴史的建造物、文化財指定の建物も、そうでない物も含めて明日に続きます。

訪問日:2009年10月18日

 

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旧帝国奈良博物館本館&旧奈良県物産陳列所&奈良ホテル in 奈良市

2023年04月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

奈良市登大路町・奈良公園内にある「奈良国立博物館・旧本館(旧帝国奈良博物館 本館)」。設計は、赤坂離宮(迎賓館)などを手がけた宮廷建築家『片山東熊』、施工は『清水満之助』。明治27年(1894)に竣工し、帝国奈良博物館として開館。

フレンチルネサンス高揚期の様式を持った煉瓦造石貼りの建物は、明治中期の代表的遺構として、昭和44年 (1969)に「旧帝国奈良博物館本館」として重要文化財に指定。

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奈良公園内にあるもう一つの重要文化財建築「仏教美術資料研究センター」。日本建築史学者として著名な『関野貞氏』の設計により、「奈良県物産陳列所」として明治35年(1902年)竣工。

奈良公園周辺の景観に調和した和風の外観を擁し、東西に設けられた特徴的な屋根は平等院鳳凰堂の様式を、また飛鳥時代以降の様々な日本の古い建築様式を取り入れた構造になっています。

和風に拘った外観とは相対的に、内部は洋風の意匠が取り入れられており、窓はイスラーム建築のモチーフなど、明治時代らしい古今東西、和洋折衷の建築様式が取り入れられています。

春日大社参道沿いから見る美しい外観の建物は、昭和44年(1969年)に国指定重要文化財に指定されました。

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奈良公園の高台、奈良市高畑町にある「奈良ホテル」。設計は「辰野金吾、片岡安」が行い、明治42年(1909)に竣工。木造2階建て和風建築の建物は「関西の迎賓館」として多くの著名人をもてなして来ました。

大正2年(1913)に鉄道院の直営となり、戦後はGHQが接収。その後は「日本交通公社」「都ホテル」と経営母体が変わり、昭和58年(1983)に「奈良ホテル」として今に至ります。

皇室関係者を始めとして、宿泊者の多彩な顔ぶれは、まさしく迎賓館の名に相応しいもの。『乃木希典・東条英機・アインシュタイン・エドワード8世・ヘレン・ケラー・ダライ・ラマ14世等々・・・』他にどんな人がと気になる方は、是非ともググって、「ほぉ~」と感心してみてください(*^^*)

奈良市内に残された歴史的建造物、文化財指定の建物も、そうでない物も含めてさらに続きます。

訪問日:2009年10月18日

 

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JR奈良駅旧駅舎&奈良基督教会&南都銀行本店 in 奈良市

2023年04月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

奈良市三条本町にある「JR奈良駅旧駅舎」。昭和9年(1934)に竣工され2003年まで2代目の駅舎として古都:奈良の玄関口として活躍してきました。

鉄筋コンクリート造2階建ての駅舎は、和洋折衷の外観と内装が特徴で、方形屋根に寺院風の九輪をのせ、四隅には風鐸を持ち、内部中央には大仏殿に見られる格天井が施されています。

JR奈良駅が高架化される際に取り壊しが一時検討されたものの、保存への機運が盛り上がったことから曳家で現在の場所に移動。観光案内所として活用する形でそのまま保存されることになりました。旧駅舎は、2007年に近代化産業遺産、2011年に土木学会選奨土木遺産に認定されています。

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奈良市登大路町、興福寺境内の西隣に位置する「日本聖公会 奈良基督教会 会堂」。当時、奈良公園地区の景観にそぐわない洋風建築は認められなかったため、純和風教会として、教会の信徒であった奈良の宮大工『大木吉太郎』の設計施工により、親愛幼稚園舎は昭和4年・会堂は同5年にそれぞれ竣工されました。

日本国内には、宮大工の手によって建てられた和風のキリスト教会が5箇所あるそうです。私がこの教会の存在を知ったのは、その一つ、彦根の「スミス記念堂」に置かれた資料からでした。古都奈良の景観に相応しい教会は、宮大工の腐心によって見事に成功したと言えます。

入母屋破風に千鳥破風を組み合わせ、和瓦葺の屋根、真壁造りの寺院風の外観を持った建物は1997年に登録有形文化財に登録され、2015年には重要文化財に指定されました。

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奈良市橋本町にある「南都銀行本店」は、大正15年(1926 )4月、奈良郵便電信局跡地に「旧六十八銀行:奈良支店」として竣工されました。設計監理は工学博士で建築士の『長野宇平治』氏、施工は大林組。外壁には岡山産の花崗岩と褐色の煉瓦を使用し、構造は鉄筋コンクリート造の3階建(一部4階建)地下1階の建物で、奈良唯一の壮麗な外観のギリシア様式建築となっています。

正面に4本のイオニア式の列柱を並べ細部に装飾が施された外観は、古典様式を簡潔にまとめた好例とされており、1997年に国登録有形文化財に指定されています。

奈良市内に残された歴史的建造物、文化財指定の建物も、そうでない物も含めてまだ続きます。

訪問日:2009年10月18日

 

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奈良少年刑務所&奈良女子大学記念館 in 奈良市

2023年04月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

奈良市般若寺町にある「奈良少年刑務所」。明治41年(1908)の竣工当時は「奈良監獄」と呼ばれていました。設計は『山下啓次郎』。調べてみると文化財指定の「旧鹿児島監獄」「旧長崎監獄」「旧千葉監獄」などを手がけた人物で、そのいずれの建物も、語弊を恐れずに言えば非常に美しいデザインとなっています。

ロマネスク調様式の煉瓦造り表門は、ややもすれば御伽噺に登場する異国の城門にも見えて、固く閉ざされた鉄柵がなければ本来の用途を忘れそうになります。

監獄と言う言葉からは想像できないこの美しい建物は、設計者であった山下啓次郎の「罪人を懲らしめるための暗くて冷たい監獄」ではなく、「罪を深く悔いて再出発をするための希望の場所」でありたいと考えた事に起因すると言います。

黎明期の日本、罪を犯す者もまた、止むに止まれぬ暗い事情があったのだろう・・この美しい建物は、行き場を失った罪びとの家たりえたのかもしれない。  ただし!人の命を玩具の如く弄ぶ者、己の身勝手な主張で他者の命を殺める者、それを英雄だと称賛する輩に対しては、永遠に地獄の業火で焼かれれば良いと思います!

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奈良市北魚屋東町にある「国立:奈良女子大学」。ここに、明治42年(1909)に竣工された「旧奈良女子高等師範学校:本館」が「奈良女子大学記念館」として残されています。

旧本館は大学本部と講堂として使用されていましたが、昭和55年(1980)に本部管理棟が、昭和58年に講堂が新築されたため、1994年2月から10ヶ月をかけて改修工事を行い「奈良女子大学記念館」として保存。同年12月27日に守衛室(附 正門)とともに国の重要文化財に指定されました。

一階は展示室、二階は講堂として学内活動で使用されるとともに、春と秋の期間限定で広く一般に公開されているとの事。時期が合えば是非とも内部を見学したいと願いながら・・14年近い歳月が過ぎてしまいました。

春日の山にいずる日の 曇らぬひかり仰ぎつつ 

かざせや心の花さくら つめよまことの教え草 

みなもと清き佐保川の みぎわの柳うちはえて 

古きをたずね新しき 道にすすめやひとすじに

〔校歌〕大正6年:『貞明皇后』より下賜された御歌より

順番から言えば逆になってしまいましたが、大学敷地の東辺に面して建つ正門。門柱や照明器具の意匠とアクセントの赤が何ともいえない可愛さ。

その正門入ってすぐ右側の守衛室が、これまたおとぎの国の建物のような雰囲気。まさにハイカラさんの時代を髣髴させて思わず笑顔に(⌒∇⌒)

奈良市内の名勝旧跡巡りは、まだバイクタンデムが身体的に余裕だった頃の日帰り旅の思い出などを綴ってみます。市内には歴史的にも価値の高い建物が数多く存在していますが、車だと駐車場を探すのに一苦労。でもバイクだと小回りもきくし、すぐ側まで行けるし本当に楽だったのです。

訪問日:2009年10月18日

 

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ご当地マンホールとマンホールカード in 奈良県奈良市

2023年04月11日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・奈良県

奈良市(ならし)は奈良県の北部、奈良盆地の北端に位置し、生駒市、大和郡山市、天理市、桜井市、宇陀市、山添村ろ、県境を挟んで 京都府木津川市、笠置町、精華町、南山城村。更に三重県伊賀市に隣接。奈良時代に平城京が置かれたことで天平文化が花開いた地として知られており、現在の漢字表記は「奈良」ですが、古文書等の中では「那羅」「寧楽」「平城」とも表記されています。市東部は大和高原の一部をなし、標高300mから600m級の高地が続き、北は古代に平城山(ならやま)と呼ばれた丘陵地帯で京都府と接しています。平城山を越えて山城と通じる奈良坂は古くからの重要交通路の一つとして歴史の様々な舞台に登場してきました。「市の木:イチイガシ」「市の花:奈良の八重桜」「市の鳥:ウグイス」を制定。

キャッチフレーズは「世界遺産に学び、ともに歩むまち - なら」

明治22年(1889)、町村制の施行により添上郡奈良町・佐保村・東市村・安寺村・東市村・辰市村・五ヶ谷村・帯解町・明治村・田原村・柳生村・大柳生村・東里村・狭川村・月瀬村、添下郡都跡村・平城村・富雄町・伏見町、山辺郡都介野村・針ヶ別所村が発足。

1897年、添下郡が生駒郡に変更。月瀬村が山辺郡波多野村大字嵩を編入。 

1898年、添上郡奈良町が市制を施行して奈良市が発足。

1923年、添上郡佐保村を編入。

1939年、添上郡東市村大字白毫寺を編入。

1940年、生駒郡都跡村を編入。

1950年、生駒郡伏見村が町制を施行、伏見町となる。

1951年、添上郡大安寺村・東市村・生駒郡平城村を編入。

1953年、生駒郡富雄村が町制を施行、富雄町となる。

1955年、添上郡都介野村・針ヶ別所村が合併し添上郡都祁村が発足。

1955年、添上郡辰市村・五ヶ谷村・帯解町・明治村・生駒郡富雄町・伏見町を編入。

1957年、 添上郡田原村・柳生村・大柳生村・東里村・狭川村を編入。

1968年、添上郡月瀬村が改称して月ヶ瀬村(つきがせむら)となる。

2005年、山辺郡都祁村・添上郡月ヶ瀬村を編入。現在に至ります。

マンホールには市章を中心に「市の花:奈良八重桜」「シカ」がデザインされています。

「名古屋市下水道科学館:展示マンホール」

「アイドリングストップ」の文字と「シカ」がデザインされたシールタイプマンホール。

「奈良公園のシカ」

明治36年5月5日制定の市章は「天平の昔から奈良にゆかりの深い名花奈良八重桜(ナラノヤエザクラ)をかたどり、花芯に奈の字をえがいています。この奈の字の「示」は、日・月・星の三光にかたどられています。 昔、三笠山で鶯に三光の鳴き声を習わせたという伝説にちなんだものです。」HPより

防火貯水槽

仕切弁

「市の花:奈良八重桜」の中央に「奈」の文字がデザインされた開閉用制水弁の小型蓋。

中央に「下水」の文字が書かれた規格蓋。ぱっと見が自治体章に見えて、何処の蓋なのかと悩まされました。

奈良の寺院の親睦団体:南都二六会所属の「なーむくん」。平城遷都1300年祭の公式キャラクター せんとくん のカウンターとして制作。日本に仏教を定着させた聖徳太子の少年時代がモデル。聖徳太子の十七条憲法にちなみ、まゆ毛と目で「一七」を表現しています。右は奈良市中心市街地活性化研究会所属の「まんとくん」。鹿そのものをモデルに、千よりも大きい万という意味も込めて、背中にマントを羽織っています。2008年4月15日から「新しく、楽しく、愛する奈良と平城京1300年」というコンセプトで誕生しました。ちなみに・・せんとくんの制作費1,518万円に対抗して、どちらも制作費は0円です(笑)

撮影日:2006年9月9日&2008年3月16日&2009年4月29日・・他

(※)旧添上郡月ヶ瀬村は未訪問のため、ご当地マンホールは未収集です。

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記憶に新しい2022年7月8日、大和西大寺駅北口にて『安倍晋三元総理大臣』が銃撃によって殺されるという事件が起こり、世界に衝撃を与えました。いかなる主義主張があっても決して許される行為ではありません。改めて心より追悼の意を捧げます  

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2017年12月9日、第6弾として全国64自治体で66種類(計252自治体293種類)のマンホールカードの配布が 開始されました。「奈良市」のマンホールカードは、「奈良市観光センターナラニクル」でいただけます。

1995年に設置開始されたマンホールには「ナラノヤエザクラ」と「鹿」がデザインされています。

「国際文化観光都市・奈良市の観光のシンボル「奈良公園の鹿」と「市章」を中央に配置し、周囲に、平安期の女流歌人伊勢大輔(いせのたいふ)の歌「いにしえの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな」(詞花集)で知られる「八重桜」をデザインしています。 市章のモチーフになったこの八重桜は、正式には「ナラノヤエザクラ」という固有の品種です。 開花時期は他の桜より遅く、4月下旬から5月上旬にかけて、小ぶりの可憐な花を咲かせます。 古都奈良の風情を感じさせるこのマンホール蓋を観賞しながら、ナラノヤエザクラや鹿が待つ奈良公園まで足を延ばしてみてはいかがでしょうか。」

訪問日:2018年5月21日

 

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