昨日に続いての西院伽藍、今日は「西院回廊」によって繋がる「経蔵(国宝)」から。元は経典を納める施設として建立されましたが、今は天文や地理学を日本に伝えたという百済の学僧、『観勒僧正像』を安置。また堂内の地下には三伏蔵(さんぷくぞう)の一つがあり、法隆寺を再興できるほどの宝物が収められていると伝えています。
「三経院(国宝)」は、聖徳太子が勝鬘経・維摩経・法華経の三つの経典を注釈された『三経義疏』にちなんで付けられた名称で、西室の南端部を改造して建立。
「上御堂(かみのみどう)(重文)」は奈良時代、天武天皇の皇子である舎人親王の発願によって建立したと伝えていますが、永祚元年(989)に倒壊。現在の建物は鎌倉時代の再建で、堂内には平安時代の「釈迦三尊像(国宝)」と室町時代の「四天王像(重文)」が安置されます。
西院伽藍北西の小高い場所に、峯の薬師と呼ばれる薬師如来像を安置する八角円堂の「西円堂(国宝)」。堂の創建については、光明皇后の母:橘夫人の発願によって、養老二年(718)に行基菩薩が建立したという伝承があります。現在の建物は建長二年(1250)の再建ですが、凝灰岩の礎石や二重の須弥壇に天平期の名残りがみられます。
西院の東大門をくぐると、広い参道の正面に東院伽藍が現われ、甍の上には見事な夢殿の宝珠が輝いています。
「ここは聖徳太子の斑鳩の宮の跡で、朝廷の信任厚かった高僧『行信(ぎょうしん)』が宮跡の荒廃ぶりを嘆いて太子供養の伽藍の建立を発願し、天平20年(748)に聖霊会(しょうりょうえ)を始行したとされる太子信仰の聖地です。高い基壇の上に立つ八角円堂の夢殿は東院の本堂で、天平創建の建築でありますが、鎌倉期の寛喜2年(1230)に大改造を受け、高さや軒の出、組み物などが大きく改変されているものの、古材から天平の姿に復元することもできるほど古様を残しています。」HPより
東院鐘楼は袴腰(はかまごし)と呼ばれる形式の鎌倉時代の建物で、内部には「中宮寺」と陰刻された奈良時代の梵鐘が吊るされています。
東院壁沿いの案内板に「中宮寺」への矢印があったので、閉ざされた門の近くまで行って見ました。中宮寺は、聖徳太子が母の為に建てたとも、また『間人皇女(はしひとのひめみこ)』自身の発願とも言われています。
法隆寺最後の紹介は、百済観音像をはじめとする寺宝を公開する「大宝蔵院」。百済観音堂および東宝殿、西宝殿からなる建物で1998年に完成。歴史の教科書でしか見た事がなかった「玉虫厨子」。実際に目にした瞬間、思わず漏れたため息・・忘れ難い経験でした。
さて、法隆寺といえば『正岡子規』が法隆寺に立ち寄った折に詠んだという有名な句 【 柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺 】
だからと言うわけではないでしょうが、家々の庭先ではたわわに実をつけた柿の木が一杯。周辺の路地では立ち止まる場所ごとに何かの祠が奉られ、そのいずれもが清潔に保たれていたのが心に残りました。
参拝日:2007年10月7日