車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

金山:功山寺(こうざんじ) in 山口県下関市長府川端

2024年03月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

下関市長府川端に門を構える曹洞宗寺院「金山(きんざん):功山寺(こうざんじ)」『千手観音菩薩』を本尊とします。中国三十三観音霊場第十九番札所、山陽花の寺二十四ヶ寺第九番。

縁起「嘉暦二年(1327)の創建。当初は臨済宗で金山長福寺と称し、足利氏、厚東氏、大内氏など武門の尊敬あつく隆盛を誇ったが、弘治三年(1557)、大内義長がここに自刃、この戦乱によって一時堂宇の荒廃をみた。慶長七年(1602)、長府藩祖毛利秀元が修営、旧観に復し、曹洞宗に転宗。二代藩主光広が、秀元公の霊位をこの寺に安置して以来、長府毛利家の菩提寺となり、秀元の法号、智門寺殿功山玄誉大居士にちなんで功山寺と改称。文久三年(1863)、七卿落ちで京を逃れた7名の公卿のうち5名が滞在。『高杉晋作』はこの寺で挙兵。」公式HPより

総門を潜り石段を登った先に堂々とそびえる、二重櫓造りの山門(市指定文化財)。安永二年(1773)、長府藩主十代:毛利匡芳の命により建立・再建。

山門より真っ直ぐに国宝指定の「仏殿」。鎌倉時代末期の唐様(禅宗様)建築様式は、鎌倉の「円覚寺舎利殿」と共に仏殿建築の代表と云われています。

「二重屋根入母屋造りの桧皮葺、一重裳階(もこし)付き。方三間の身舎の周囲に裳階をめぐらし、扇垂木に花頭窓。柱は上下部を細めた粽型で礎石と柱との間に礎盤を入れ、内陣の天井は鏡天井で石南花を描き、外陣は化粧屋根裏、床は四半瓦敷で建物は一切彩色せず。柱の墨書により元応二年(1320)の建立と判明。建立年代の明らかなものとして貴重である。」公式HPより

仏殿の前に立つと、訳もなく涙ぐみたくなってしまうのは何故だろう・・逝ってしまった二親は浄土の彼方で穏やかにいるだろうか・・そうして私は慣れない「南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)」を唱え、手を合わす。

一切経を納めた土蔵造りの「輪蔵(市文化財)」は、長府藩第十一代藩主毛利元義公が藩祖秀元公百五十回忌の供養として寛政十一年(1799)に建立。入口の向拝は軒下位置に切妻照り破風。屋根は宝型造りで桟瓦葺き。

この輪蔵のすぐ横に「高杉晋作:回天義挙像」。当初はみもすそ川の旅館に建てられていたが、昭和47年に移設。維新に活躍した群像の中では一番好きな人物。何故と問われても「好きなんです」としか言えません。多分・・会津藩に対する非人道的行為に関わらずに死したからかもしれません

【一鞭回天 明治維新 宇内に輝く 嗚呼鬼神 東光先生】

長府藩15代:毛利元雄(もとかつ)による「七卿遺蹤(いしょう)の碑」

「七卿潜居由来」

国登録有形文化財:旧長門尊攘堂(そんじょうどう)」。鉄筋コンクリート造平屋建、瓦葺。昭和8年(1933)10月20日、長府の隠士、桂弥一が吉田松陰・品川弥二郎の遺志を受け継ぎ、維新の志士の顕彰を目的に長門尊攘堂として設立。戦後は財団法人長府博物館となり、昭和55年に下関市に移管。2016年まで、下関市立長府博物館本館として使用されてきました。

この門を潜った先が功山寺墓地。ここに(伝)大内義長主従の墓とされる三基の宝篋印塔があると知ったのは帰宅後の事。

「鐘楼」

句碑【花にまた 萩に慈眼の観世音 (松本)圭二】

吉岡禅寺洞:句碑【功山寺にて 新樹の冷えに いますが如く障子しまる

晩秋の赤の日差しの下に見る境内

石段の下に僅かに見える国登録有形文化財の総門。

燃えるようなモミジの赤と、馬上の高杉晋作に見送られて功山寺を後にします。

参拝日:2017年12月3日

 

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忌宮神社(いみのみやじんじゃ) in 山口県下関市長府宮の内

2024年03月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

下関市長府宮の内に鎮座される「忌宮神社(いみのみやじんじゃ)」。長門二宮・旧国幣社。御祭神は本殿 第一殿に『仲哀天皇』、第二殿に『神功皇后』、第三殿に『応神天皇』

由緒「第十四代仲哀天皇が九州の熊襲を平定のため御西下、この地に皇居豊浦宮を興して七年間政治を行われた旧址で、天皇が筑紫の香椎で崩御せられたのち御神霊を鎮祭す。聖武天皇の御代に神功皇后を奉斎して忌宮と称し、さらに応神天皇をお祀りして豊明宮と称す三殿別立の古社(延喜式内社)であったが、中世における火災の為、中殿忌宮に合祀して一殿となり、忌宮をもって総称するようになった。忌とは斎と同義語で、特に清浄にして神霊を奉斎する意味。現社殿は明治10年の造営で、昭和56年に改修。古来、文武の神として歴朝の尊崇篤く、安産の神として庶民の信仰を受け、長門の国二ノ宮として広く親しまれている。」境内案内より

鳥を潜った先、石段参道正面・四脚門の神門は、大正15年(1926)、石炭財閥の『貝島太市氏』によって奉献。

神門前左右より神域を守護されるのは寛政七年(1795)8月建立の狛犬さん一対。ストレートのタテガミに程よい大きさの口、つぶらな瞳に羨ましいほどの小顔、小顔だけど下膨れ😄

神門の先に、入母屋妻入りの拝殿

拝殿向かって左に「若宮社」。御祭神は『仁徳天皇』

拝殿向かって右に「高良社」。御祭神は『地主大神(とこぬしのおおかみ)・武内宿祢(たけのうちすくね)』

境内右手に鎮座される「荒熊稲荷神社」、御祭神は『宇迦之御魂神・宗像三女神』。文化・文政年間、長府藩主毛利元義公が京都伏見稲荷より御分霊を勧請。嘉永元年に現在地に遷して社殿を再建。

「八坂神社」。神社合祀のため御祭神は『素戔男尊をはじめ42柱』

鳥居の先、玉垣の内より神域を守護されるのは、嘉永五年(1852)2月吉日建立の狛犬さん一対。びっくりしたような目に小さな鼻、耳近くまでの大きな口。吽形さんには目立たない程度の角があり、阿形さんは背中に尾っぽをしょっています。

拝殿・本殿は、野久留米地区にあった塩釜神社を移築。

拝殿前より神域を守護されるのは出雲構えの狛犬さん一対。高く上げた腰のあたりに亀裂が見られますが、まだまだ現役。不敵な笑みを浮かべて、合祀された多くの神々を守護されています。

「さか松」。神功皇后が新羅ご征討に際し、小松を逆さまに植え「我志を得ば、この松枯れずして生い茂りなむ」と神祇に誓われたと伝えられています。明治初年に火災に巻き込まれ後に枯死、根幹が玉垣の内に保存されています。

神門前に設けられた囲いは、豊浦宮に攻め寄せた新羅の武将「塵輪(じんりん)」を射倒しその首を埋めたとされる場所。塵輪の顔が鬼のようであった事から「鬼石」と呼ばれています。毎年夏の夜にはこの「鬼石」を中心にして、神功皇后の出陣、凱旋に由来する天下の奇祭「数方庭祭(すほうていさい)」が行われます。余談ですがここに登場する「塵輪(じんりん)」。出雲、広島神楽の代表作の一つとして人気の演目です。

「蚕種渡来の地」記念碑。三代実録に、約1,800年の昔、仲哀天皇の御代に秦の始皇11代の孫:功満王(こうまんおう)が渡来し、蚕の卵を奉献したとされ、ここから日本の養蚕が始まったと伝えられています。

『魁傑將晃(かいけつまさてる)』が現役時代、荒熊稲荷神社で九州場所の必勝祈願を行い優勝したことが縁となり、荒熊稲荷神社脇に「相撲資料館」を併設。魁傑や大乃国康の化粧まわし、優勝杯、大銀杏などが展示されています。

宿禰手植えの銀杏と伝えられる古木・・は画像に残せませんでしたが、「宿祢の銀杏」を購入。

この日は「 長府時代まつり」という事で、境内には時代装束に身を包んだ方や、関係者の方がたくさん。衣冠束帯の方、カメラの前で気持ちよくポーズをとって下さいました。

参拝日:2017年12月3日

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御神名一口メモ

『仲哀天皇』、日本書紀では足仲彦天皇。日本武尊の子で神功皇后の夫。

『地主大神(とこぬしのおおかみ)』、大地を司る神。土地の災禍を防ぐ神。

長門は、古くは「穴門(あなと)」と呼ばれ、「穴戸」とも表記。「日本書紀」に、大化6年(650)穴戸の国司(草壁醜経)が白雉を献上の記載有り。 穴門とは海峡(関門海峡)を指し、日本神話にも「穴戸神」の名がある。古墳時代に成立した穴門国造の領域と阿武国造の領域をあわせて、7世紀に穴戸国が設置。7世紀後半に長門国に改称。

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下関:関門海峡~2012年~ in 山口県下関市

2024年03月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

下関と言えば関門海峡

関門海峡と言えば関門橋

そして!!日本で最初に完成した海底人道トンネル。下関に来たら絶対に歩こうねと決めていた「関門トンネル人道」。ワクワクが止まりません😆

地上と地下の人道トンネルの間は専用エレベーターで結ばれており、入り口には資料展示施設「関門プラザ」が隣接。真ん丸目玉の陽気なフクが出迎えてくれます。興味はあるけれど無料駐車できるのは1時間。惜しいけどパス。

下関市と福岡県北九州市を繫ぐ全長780メートルの海底トンネルは、ここからスタート。ちなみにこの海底トンネル、れっきとした国道2号線なのです。

壁の向こうからかすかに聞こえる音に耳を澄ます・・この隣は車道だから、きっと車が走りすぎる音だね。

山口県と福岡県の県境は海面下58 m、数字は想像力をかき立てる。そしてお決まりの、県境を跨いでポーズ😍。

ワイワイとはしゃいでいる私たちに、通りすがりのウォーカーさんが記念にとシャッターを押して下さいました。立つ位置の指定も的確で・・慣れておいでのご様子😊 ステキな記念になりました。感謝~💕~

関門TOPPA!記念用の背景。ですが・・突破記念写真は門司までお預け。

門司側のスタンプを押して完成する「通行記念スタンプ」

関門トンネル人道から無事に帰還😄。まだ少し時間があるので周辺をウロウロして見つけた「鯨」の看板。「ふく」ばかりが名物では無いと気勢を吐くのは「鯨肉」の専門店「アンテナ」さん。牛・豚・鶏・・肉は全部アウトの私ですが、甘辛く焼いた鯨肉のつけ焼きだけは食べられます。

この後ほんの少し市内を散策して関門橋:壇之浦PA で車泊。

橋の向こうに見えるのは福岡県北九州市。今日一日門司を楽しんだらもう一度下関に引きかえしてあそことか、こことか・・・

無時関門突破を果たし、記念写真もバッチリ!

が・・世の中そんなに甘くない。一日門司を楽しんで布刈PAに in した途端に暴風雨の洗礼 😱・・話し合った結果、明日もこのままなら旅は中止。

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下関市白崎、予定外の下関の帰路に立ち寄って貰った「白崎の松原」。松原という割には松が少なく、向こうに広い敷地が・・

全く予備知識なしだった為ちょっとビックリ、でもちょっと得した気分にさせてくれたのは「海上自衛隊小月航空基地」の滑走路が見えた事。

この日は暴風雨の為に予定を繰り上げて門司から直接帰路に向かっていたのですが、小降りになってきたからと泣きの一手。もう一日だけと約束して小月ICで下車。 お天気が良ければ海の色も滑走路の色も、もっと明るくて綺麗だっただろうに・・ちょっと残念。

良く分からないまま遭遇した鳥居は「白崎神社」の鳥居。ちょっと歩けば社殿が見えているのに・・足元が悪いからと、参拝はここからの拝礼🙏

この後雨も小降りになった事だからと、一番近い山陽小野田市への旅を続行することに決定😀 

見逃したあれこれはまたいつかリベンジを・・その約束は5年後の、2017年に叶いました。

訪問日:2012年11月15日&17日

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ご当地マンホール in 山口県旧下関市(下関市)

2024年03月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

旧下関市(しものせきし)は本州の最西端に位置し、美祢市、山陽町、菊川町、豊浦町、更に関門海峡を挟んで福岡県:北九州市に隣接します。

市内長府地区は、かって長門国の国府であった事から、和同開珎の鋳銭、大内氏の滅亡、近代においては、四国艦隊下関砲撃事件、功山寺挙兵など多くの歴史を有しています。また下関港周辺は、古くは「赤間関(あかまがせき)」と呼ばれ、これを赤馬関とも書いたことから「馬関(ばかん)」という別名も用いられました。古くから関門海峡に面する港湾都市、大陸への玄関口として栄え、また、日本最大のフグの集積地としても有名です。「市の木:クスノキ」「市の花:ハマユウ」「市の鳥:ツツジ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により赤間関区の一部(六連島・彦島を除く)23町1村をもって市制を施行。赤間関市が発足。
豊浦郡豊東下村・生野村・彦島村・長府村・豊西中村・豊西下村・豊東前村・豊東上村・豊田奥村・豊田上村・豊東郷村・清末村・小月村・西市村・安岡村・小月村が発足。

1898年、豊東下村が改称して生野村に。豊東前村が改称して王司村に。豊東上村が改称して勝山村に。豊西東村が改称して黒井村となる。

1899年、豊田奥村が改称して西市村に。豊東郷村が改称して楢崎村となる。

1902年、赤間関市が改称して下関市(第1次)となる。

1910年、豊西中村が改称して豊浦郡安岡村となる。

1911年、長府村が町制を施行、長府町となる。

1912年、豊田上村が改称して殿居村となる。

1914年、豊西下村が改称して豊浦郡川中村となる。

1921年、彦島村が町制を施行、豊浦郡彦島町となる。

1921年、下関市が生野村を編入。

1922年、豊西上村が改称して吉見村となる。

1924年、西市村が町制を施行して西市町となる。

1925年、安岡村が町制を施行して安岡町となる。

1932年、小月村が町制を施行して小月町となる。

1933年、 下関市が彦島町を編入。

1937年、下関市が長府町・安岡町・川中村を編入。

1939年、 下関市が小月町・清末村・王司村・勝山村・吉見村を編入。

1954年、下関市が豊西村大字吉母・蓋井島および室津上の一部を編入。

1955年、下関市が王喜村、吉田村、内日(うつい)村を編入。

マンホールには「下関市シンボルマーク」がデザインされています。

下関水道局のペットボトル水「あぁ!関露水」のデザインストリーマーマンホール。

左上に、内日第一貯水池:取水塔。 右上に、高尾浄水場4号円形ろ過池付設調節井。 下に高尾浄水場の全景のデザインストリーマーマンホール。


明治42年(1909)11月15日制定の市章は「「関」の字をヒシ形に図案化した ものです。」合併協議会資料より

下関シンボルマークがデザインされたプレート付き側溝蓋。

「市の花:ツツジ」がデザインされたプレート付き側溝蓋

関門橋がデザインされたプレート付き側溝蓋

下関市に本社を置く「山口合同ガス」蓋。上部に社章。下関市、山陽小野田市、宇部市、防府市、山口市、周南市、下松市、光市にガスを供給。

撮影日:2012年11月15日&2017年12月3日

 

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ご当地マンホールとマンホールカード in 山口県下関市

2024年03月07日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・山口県

下関市(しものせきし)は山口県の西部、本州の最西端に位置し三方(西・南・東)を海に囲まれた市です。長門市、美祢市、山陽小野田市、また関門海峡を挟んで福岡県北九州市に隣接。

関門橋や関門トンネル、新関門トンネルなどで繋がる対岸の福岡県北九州市と密接な関係を持ち、関門都市圏を形成。中核市および中枢中核都市に指定され、古くから関門海峡に面する港湾都市、大陸への玄関口として栄えてきました。

2005年2月13日、豊浦郡菊川町・豊田町・豊浦町・豊北町と合併し、改めて下関市(第2次)が発足しました。「市の木:クスノキ」「市の花:ハマユウ」「市の花木:ツツジ、サクラ」「市の魚:フグ」「市の昆虫:ホタル」「市の鳥:ペンギン」「市の動物:クジラ」を制定。

キャッチフレーズは「自然と歴史と人が織りなす交流都市」

マンホールには市の名産であり市の魚・フクを愛らしく、親しみやすく表現した「下関市シンボルマーク」をデザイン。囲みの円は下関の頭文字「し」とダイナミックな海の波を表しています。(山陽終末処理場展示マンホール。)

山陽終末処理場展示マンホール一覧。見学の際には厚かましいお願いに快く応じて頂き、有難うございました。

青い海の中を泳ぐ三匹のフクがデザインされています。

名古屋市下水道科学館:展示マンホール

唐子市場の巨大展示「フク」

2005年10月1日制定の市章は「“しものせき”の「し」「も」の平仮名をダイナミックにデフォルメし、下関市、豊浦郡4町合併により誕生した新「下関市」の調和を5つのラインで表現している。全体的なフォルムは、全国的に名高い「フク」を表し、豊かな自然と世界へ通じる海峡の街、交流の帆として、市民の未来に無限の可能性を秘めた表現となっており、自然と歴史と人が織りなす新「下関市」を個性的にアピールしている。」公式HPより

ふぐをモチーフにした可愛い男の子は、下関海響マラソンキャラクター『カッケルン』。噂では腐女子に人気らしい・・・(^_^;)。下関市立考古博物館公式マスコットは、奇怪なポーズが得意の土笛の『ぶえ吉』。2020年12月には下関市の文化財PR部長に就任しました!

はい!からっと横丁パークキャラクター『からっとくん』は、下関名産のフグとパーク内にある観覧車がモチーフの男の子。はい!からっと横丁の魅力をみんなに伝えるために頑張っています!

「いのちを考え、生きる力を育む」キャラクターとして誕生した『こころん』。みんなで、いのちのハーモニーを奏でる、ぶち元気な下関を夢見るほ。可愛がってね♡

撮影日:2012年11月15日&2017年12月3日

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マンホールカード、頂きました。

2018年8月11日、第8弾として全国76自治体で76種類(累計364自治体418種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「下関市」のマンホールカードは、「下関市立歴史博物館受付」でいただけます。

2002年に設置開始されたマンホールには「下関市シンボルマーク」がデザインされています。

「下関市は、本州最西端に位置し、関門海峡、周防灘、響灘と三方を海に開き、古くから陸海交通の要衛、水産都市として発展してきました。 下関市の水産物5大ブランドの1つである「ふぐ」は、幸福の「福」にかけて「ふく」と呼びます。 このマンホール蓋は、下関市のシンボルマークとなっている「ふく」を、親しみやすく、愛らしく表現し、下関の頭文字「し」を造形化した「波」の中から現れる様子を表しています。 また、マンホールカードの配布場所である下関市立歴史博物館は、明治維新発祥の地である城下町長府にあります。 城下町長府を散策しながら幸福の「ふく」を見つけてください。」

 

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旧小野田市街~あちこちウォッチ in 山口県山陽小野田市

2024年03月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

山陽小野田市小野田、有帆(ありほ)川を渡ってしばらく行くと、日産化学工業倉庫の敷地内にある赤レンガの倉庫が見えてきます。

「旧日本舎密製造:小野田工場」として明治24年(1891)に建築。山口県選定近代化遺産リストに「製品及び原料倉庫として建築。設計者:長坪井仙太郎」とあります。

街角の一画に残る「赤煉瓦の蔵」。特に旧〇〇などの案内はなく、おそらくはこの並びに建つ何方かの所有なのでしょう。

赤レンガ倉庫のすぐ近く、山陽小野田市住吉本町に残る「山口銀行小野田支店倉庫 (旧小野田銀行)」

大正初期の建築で、後に山口銀行小野田支店となり、現在は同銀行の倉庫として使用。壁には、旧山手倶楽部で使われている物と同じコンクリートブロックが使用されています。

山陽小野田市千代町、旦の登り窯に行く途次に見かけた瀟洒な建物は「山口県選定近代化遺産:伊藤医院」

木造2階建下見板張りの建物は『野村伸』による設計で、大正14年(1925)に建てられました。玄関アプローチの植え込みに看板がありましたが、人の気配は感じられません。

旦の登り窯、徳利窯と旧小野田市のあれこれを堪能し今日のラスト「旧本山炭鉱斜坑坑口」に行く予定が・・どこで道を間違えたのか海辺に出てしまいました(^^;)

小止みだった雨は「残念でした」と言いたげに又しても降り始め、視界の先に広がるのは重く垂れこめた灰色の空と灰色の海。

最後の予定地、本山岬公園に至る道の入り口近くで見かけた赤煉瓦の小さな建物。ちらっと内部を確認したところお線香や香炉のようなものが見えて・・良く分からないまま一礼をして辞しました。

時折激しく振り付ける雨の中での海岸の散策は無理と判断。2012年の山陽小野田の訪問は、結局ここで終了となりました。

訪問日:2012年11月17日

🌸明日からは山口県下関市の紹介です。

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旧小野田セメント製造株式会社竪窯 in 山口県山陽小野田市

2024年03月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

山陽小野田市大字小野田(若生町)、「太平洋マテリアル(株)小野田工場」。正面に見える建物は昭和3年に事業所の建物として建築。今は事務所本館として使われており・・・可能であれば、じっくり拝見したいと思う美しい建物。

その敷地内に現存する「旧小野田セメント製造株式会社竪窯」・通称「徳利窯(とっくりがま)」。山陽小野田市訪問で一番のお目当てだった名所です。

「旧小野田セメント株式会社が明治16年(1883)に建造した最初のセメント焼成用の竪窯のひとつで、明治30年頃に焼成容量増加を目的として一部改造された。焼成部分と煙突部分からなる煉瓦構造物で、高さは、焚口底部より約18m。」山陽小野田市公式HPより

焚口部分

わが国に完存する唯一のセメント焼成用竪窯。近代窯業史上、高い価値があり、西日本における建設事業の近代化を支えた旧小野田セメント製造株式会社の中心的施設として重要である事から、竪窯周辺は、昭和44年2月4日に県指定文化財に。竪窯は、2004年12月10日に国重要文化財に、また2017年には未来技術遺産に登録されました。

遠心調速機(ガバナー)

現役の工場風景を背景に、今は役目を終えたセメント容器の木製樽を製造する「樽造機」

「小野田セメント製造会社」は、笠井順八が明治14年(1881)5月に創立した日本で最初の民間セメント製造会社。セメント製造に必要な原料については、石灰石を豊後恒見、無煙炭を紀州天草、粘土は有帆川と厚狭川河口のものを採用。小野田新開作に工場を建設し、明治16年(1883)9月からセメントの製造を開始しました。モニュメントの碑は徳利窯につかわれていた煉瓦。銘板は六基の徳利窯が並ぶ全盛当時の写真です。

帰り際の橋の上から見る徳利窯、右に見える芝生部分は1986年2月に廃止された専用線の跡だそうです。

徳利窯を後にして向かった先は山陽小野田市大字小野田(東住吉)に所在する「小野田セメント山手倶楽部」

旧小野田セメント株式会社第四代社長:笠井真三氏が、ヨーロッパ遊学の帰途、イギリスからコンクリートブロックの型枠を持ち帰り、ブロックを製造。ブロック外面の仕上げは江戸切り、車寄せと西面ベランダにトスカナ式の柱を配した古典的なデザインを取り入れた造りで大正3年(1914)6月に完成。大正時代のブロック建築は大変珍しいものであり、建築史上貴重な建物として2000年12月4日登録に国登録有形文化財に制定されました。

外観のみ自由に見学可と言う事で、見事に手入れされた庭も含めて、外観を存分に堪能してきました😊

隣接地には笠井真三氏の旧宅もありますが、こちらは当然、外観を仰ぎ見るだけ。

訪問日:2012年11月17日

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旦(だん)の登り窯 in 山口県山陽小野田市大字小野田

2024年03月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

山陽小野田市旦西の一画に今も残る、近代化産業遺産及び市指定文化財「旦(だん)の登り窯」

旦の皿山のはじまりは、旦の給領庄屋:作左衛門宅に寄寓していた都濃郡富田の人:甚吉が、周辺の畑土を指し「この土なら焼物がつくれる」と語ったことから始まります。それを受け、長州藩士:前原一誠の父 佐世彦七が援助し、「登り窯」が開かれました。

内部の見学が可能な窯があり、早速中へ。「異常な怖がりの癖に、狭い所は平気なんだね」・・よく言われます😅

廃窯の内部と言うのは何故かしら不思議な空間。窯の外はお天気でも無いのに奇妙に明るすぎて、その場から出る事が一瞬ためらわれ、足が踏み出せなくなる・・・

炎と釉薬が化粧した煉瓦の色、それを綺麗と思うのはたぶんその独特の空気のせいかもしれません。

「明治24年(1891)、日本舎密(せいみ)製造株式会社(現 日産化学工業株式会社小野田工場)が硫酸瓶等を製造、その容器を当初ドイツから輸入していたが、旦の焼物に注目、試作発注し生産をはじめた。本市製陶業の成長は、同社の創業に負うところが多く、石炭とならんで陶器はかつて本市の有力な地場産業品であった。登り窯は、とんばりと呼ばれる煉瓦造り。大口から煙突までの長さ28.6m、幅7.5m、煙突の高さ12.3mで、製品を焼く十袋の窯と火力の調整を行うふかせ一袋の構成。窯では硫酸瓶や焼酎瓶などを焼き、ふかせでは消し壺や焙烙(ほうろく)などを焼いた。」現地案内より

名も知らぬ草に寄り添われるように余生を過ごす旦の登り窯。細い通路の向かいには硫酸瓶を積み上げってつくった瓶垣。いつの間にか雨も止んだようで、草の匂いと煉瓦の匂いが私たちを現実に曳き戻してくれます。

焼かれる硫酸瓶には厳密な規格があり、規格外となった瓶を再利用して作られたのが「瓶垣」と呼ばれる硫酸瓶垣。町の所々には、このような美しい「硫酸瓶垣」を見られるポイントがあり、観光客に人気のスポットとなっています。

小野田橋のたもと、高々と一際目をひくのは、巨大な硫酸瓶のモニュメント

硫酸の運搬容器として山陽小野田で作られていた陶製の瓶。旦地区の土と、島根の石州瓦と同じ「来待釉(きまちゆう)」といわれる耐酸性の釉薬が使われた硫酸瓶は、この橋の近くから船に載せて各地に出荷されていました。

明治24年(1891)に、日本舎密製造会社 小野田工場(現:日産化学株式会社小野田工場)を設立。硫酸を生産するため容器が必要になり、地元の旦地区の土が耐酸性に富むことから試作され、明治26年に製造に成功。昭和20年代に生産のピークを迎え、全国シェアの7割を占めるまでになり、昭和30年代後半まで製造されました。

おまけ・・「厚狭から目出たい」という語呂合わせで、厚狭駅から目出駅までの切符が一時大人気だったそうです。物好きに立ち寄った「目出駅」。目出たい事があると良いね。

訪問日:2012年11月17日

 

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浜五挺唐樋と當嶋(とうしま)八幡宮 in 山口県山陽小野田市西高泊

2024年03月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

山陽小野田市大字西高泊、有帆川河口のほど近くにある「国史跡:周防灘干拓遺跡高泊開作浜五挺唐樋(たかとまりかいさくはまごちょうからひ)」

「高泊の浜五挺唐樋は、江戸時代における周防灘での干拓の実態を示す貴重な遺跡であり、また、切石による精緻な樋の構造は、当時の土木技術の到達点をよく示しています。高泊開作は、小野田の高泊湾を干拓したもので、寛文8年(1668)に完成。樋門は幅10.81m、総高6.18m。現在の新しい樋門が建設されるまで、300年以上にわたって機能しました。」公式HPより

樋門の左端、奉納石灯籠の奥に鎮座される「當嶋(とうしま)八幡宮」。御祭神は『応神天皇、仲哀天皇、神功皇后』。鳥居には奉納年:安政六年(1859)二月、奉納者:『目(さっか)五郎右衛門』・『三戸晋九郎』の名が刻まれています。

由緒「仁和元年(885)、宇佐八幡宮より御分霊を勧請して創建。当初、南向きの社殿で南参道が正面であったが、高泊開作造成時(浜五挺唐樋)に工事の無事を祈願のため参道を現在の東側に移し社殿も向きを変えた。」山口縣神社誌より

手水舎の左右より神域を守護されるのは安政六年(1859)二月『目(さっか)五郎右衛門』建立の狛犬さん一対。小さな目、背中に張り付いた尾、細い胴体、細めの脚に似合わず頑丈そうな足。

阿) 雨も降っとるゆうに、また物好きがきたようだのぉ。」) こらこら!そがいな事を言うたらイカン。聞こえたら気ぃ悪うされるで。」「阿) そうじゃけんど、わしもこがいな雨の中で愛想するのはしんどいんじゃが」・・・一体どこの方言?・・😓

拝殿前左右、四脚台座の上より神域を守護されるのは文政十二年(1829)建立の、出雲構えの狛犬さん一対。手水舎の狛犬さんと比べれば僅か30歳年上なだけですが、おそらくは来待石の宿命。阿形さんは顔の線も朧になり始めてしまいましたが、それでも高く上げた腰の線はまだまだ現役。ただ・・台座の傷みが吽形さんの台座とは比較にならない程酷く、それも気になります。

大正七年奉納の「煉瓦造りの神輿庫(近代化遺産登録)」。もちろん今も現役です。

参拝日:2012年11月17日

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一口メモ

鳥居・狛犬を奉納された「目(さっか)」氏とは・・律令制において各官司の中核職員が4等級で構成されていたことを表す四等官制。その四等官のひとつ「目=さっかorさかん」という位があり、それを名字としたと言われています。

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ご当地マンホール in 山口県旧小野田市(山陽小野田市)

2024年03月02日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・山口県

旧小野田市は山口県の南西部に位置した市です。宇部市、山陽町に隣接。明治維新後、セメントを中心とした工業都市として「民間セメント会社発祥の地」として栄え、隣接する宇部市と共に、北九州工業地帯の一角を担ってきました。市の中央を有帆(ありほ)川が流れて瀬戸内海(周防灘)に注ぎ、両岸をはじめとする平野部に市街地が開ける地形。平野部は干拓地が多く、市北部や宇部市との境は丘陵地帯となっています。「市の木:クスノキ」「市の花:菊」「市の花木:ツツジ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により須恵村が発足。。

1920年、須恵村が町制を施行・改称して、小野田町になる。

1940年、小野田町と高千帆町が合併、市制を施行し小野田市となる。

2005年、山陽町と合併、山陽小野田市となりました。

マンホールには小野田セメントの「徳利窯」ろ、「市の花木:ツツジ」がデザインされています。

山陽小野田市役所別館:展示マンホール

国重要文化財:旧小野田セメント製造株式会社竪窯「徳利窯」

「江汐公園のつり橋(名称・江汐湖橋)」と「市の花木:ツツジ」がデザインされたマンホール。

山陽小野田市役所別館:展示マンホール

小野田西地区集落排水マンホールは、中央に農作業をする女性、周囲に稲穂がデザインされています。

「市の花木:ツツジ」がデザインされた若山公園のマンホール

「若山公園」は、小野田セメントの創設者である笠井順八翁の元私庭。園内には「笠井順八君公徳碑」や忠魂碑などが建立されています。

「日露凱旋記念碑」

「忠魂碑」

昭和16年5月10日制定の市章は「小野田市の「小」をかたどり、中央は煙突を、翼は鳩のはばたきを意味し、躍進平和工業都市を象徴しています。」合併協議会資料より

防火水槽

「セメン樽」と「市の花木:ツツジ」がデザインされた消火栓

「セメン樽」と「市の花木:ツツジ」がデザインされた空気弁

「徳利窯」と「市の花木:ツツジ」、周囲に「セメン樽」がデザインされた仕切弁。

「徳利窯」と「市の花木:ツツジ」「セメン樽」がデザインされた仕切弁。

「徳利窯」を「市の花木:ツツジ」で包み込んだ仕切弁

セメン樽が描かれた歩道タイル

撮影日:2015年11月12日&2017年12月2日

 

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