車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

旧秋田商会ビル in 山口県下関市南部

2024年03月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

下関市南部・唐戸地区には当ブログ作者(私)垂涎の、歴史的建築物が幾つか残されています。2012年、2017年、二度の下関訪問で目にする事が出来た素晴らしい建物たち。忘れ難い旅の記憶です。

下関市南部、道路に面した一画に、ひときわ目を引くモダンな塔屋の「旧秋田商会ビル」。

木材取引中心の商社活動と海運業を営む秋田商会の事務所兼住宅として大正4年(1915)に竣工。施工は大阪の駒井組。現場監督は関門商事に勤める新富直吉。設計者は西澤忠三郎。和風建築部分は京阪神で活躍していた宮大工の後藤柳作と推測され、西日本で最初の鉄筋コンクリート造の事務所建築。

地上3階、地下1階、塔屋付き、塔屋に設けられた螺旋階段で上る屋上には日本庭園。お庭を見ながらくつろぐ茶室兼離れ座敷・・と、和洋折衷のユニークなつくりで、現存する同種建築物としては最古級と言われています。

かって事務所として使われていた一階フロア。現在は下関観光情報センターとして一般開放されており、屋上以外はほぼすべての建物内部の見学ができます。

明治38年(1905)、秋田寅之介によりに設立された秋田商会。国内や満州、台湾など25カ所に支店・出張所を開設。建築用の木材や食料などを運搬して莫大な資産を築き上げた人物。胸像の顔は、Wikiで見る写真よりもずっと柔和で、穏やかな笑みさえ浮かべて見えます。

こちらは何時の時代のお写真でしょうか。秋田家二代目当主のご案内で興味深く周囲をご覧になる昭和天皇。その影を踏まないようにと三歩下がって後に続かれる香淳皇后。私の知らない時代の古き良き・・そして美しいお二方のお姿に思わず目頭が・・・

こちらの写真は「竣工当時の秋田商会」。初めてこの建物を見た時、町の人たちはさぞかしビックリした事でしょう。

秋田商会の社章「一文字三星」紋が染め抜かれた法被。これって毛利家の家紋と一緒だねと思ったら、まさにビンゴ(笑)。どんなコネがあったのか、それともトラック一杯分の袖の下を用意したのかヾ(- -;)□  毛利家から許可を得て社章として使用していたそうです。

ご亭主殿の一押しは、手動式エレベーター「ダムウェーター」。屋上や2階・3階の各部屋に料理や小荷物などを運んだそうです。それにしても大正4年の建築で既にこうした設備を備えられるとは・・・富豪階級の凄さを実感するご亭主殿😆

何を見ても、どこを見ても目移りする素晴らしさに出るのは感嘆の溜息。鏝絵が施された漆喰壁、嵌めこまれたアメリカ製の時計のモダンさがひと際引き立ち、まずはここで大きく感嘆の溜息(^^;) さらに1915年に嵌めこまれてから2017年の今日まで、一度も止まった事がない・・と言う事は102年間!!と、今度は驚愕の溜息(◎_◎;)

小心者の二人は階段を上る時も足音を消して、そろり・・そろり(^_^;)

外観からは想像しがたい、しっとりと落ち着いたたたずまいの座敷。座敷というより大広間。こんな場所に座るにはもう少しフォーマルな服装が良かったかも?、今度来るときは羽織袴を持参しようか(笑)

2012年・・記念の写真に快く応じて下さった受付の方。その節は色んなお話を聞かせていただき有難うございました。

2017年の来館では、全体像を見るには一段高く離れた場所から・・と言う事で、教えて頂いた唐戸交差点の歩道橋の上から。なるほど、ここからだと屋上の離れがちゃんと見えました。

下関市内の素敵な歴史的建築物、明日に続きます。

訪問日:2012年11月15日&2017年12月3日

 

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住吉神社~其の二 in 山口県下関市一の宮住吉

2024年03月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

文化財の拝殿で終わった「住吉神社~其の一」、今日は九間社流造・国宝の本殿からの紹介です。!

大内弘世寄進 応安三年(1370)建立ー九間社流造・正面五カ所千鳥破風附檜皮葺。昭和28年11月:国宝に指定。左右それぞれを正面から。

色んな場所から写して見ました。カメラの腕は上等では有りませんが、被写体が良いと何処から写しても一応絵になって・・・ますよね(笑)

「武内宿祢命のお手植の御神霊樹:大楠」樹齢 約1800年・根回り 約60m。三韓征伐の出陣の際、武内宿禰がこの地に立ち寄り、この楠を植えたと伝えられています。

境内社に建つ明神鳥居は天保13年(1842)建立。鳥居額は「蛭子神」

左より「末社:高元社(須佐之男命)」「摂社:若宮神社(穴門直祖踐立命(神託により神功皇后が長門国に住吉神社を創建した折の初代宮司)』「末社:田尻社(大宮司家祖神)・摂社:蛭子社(事代主神・蛭子神)・末社:七社」

「末社:稲荷神社(宇迦之御魂神・大宮能売命・猿田彦命)」

「厳島社(宗像三女神)」

「東方遥拝所」

「神宮祭主 池田厚子様お手植え」

「宮地築始(みやじきづきはじめ)記念碑 神籠石(こうごいし)」 

「鐘楼」

「日清戦争従軍記念碑」

参拝日:2017年12月3日

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住吉神社~其の一 in 山口県下関市一の宮住吉

2024年03月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

下関市一の宮住吉に鎮座される「住吉神社」。御祭神は第一殿 『住吉大神・荒魂(主神)』、第二殿に『 応神天皇』、第三殿に『 武内宿禰命』、第四殿に『 神功皇后』、第五殿に『 建御名方命』

延喜式神名帳に「住吉坐荒御魂神社三座 ・並名神大」と記載されている古社で長門の国一宮、旧官幣中社・別表神社。大阪:住吉大社、博多:住吉神社とともに「日本三大住吉」の一つとされます。

由緒「仲哀天皇九年(200)神功皇后三韓征討の折に住吉大神現れ、「吾和魂は玉身の寿命を守り、荒魂は軍船を導かん」との神助を得て交戦することなく戦勝。凱旋の途中「吾荒魂は穴門の山田邑に祀れ」と神託がありこの地に祠を建て、住吉大神の荒魂を祀ったのが住吉神社の起こり。軍事・海上交通の神として厚い崇敬を受け、鎌倉時代以降、源頼朝を始め歴代将軍から社領などの寄進を受けた。戦国時代に一時衰退するが大内氏、毛利氏からの崇敬を受けて復興。江戸時代には長州藩主・毛利氏が社殿の修復をする。明治4年、官幣中社に列せられた。」公式HPより

鳥居を潜り朱塗りの神橋を渡り・・・

手水舎の中央で参拝者を迎えてくれるのは、吐水龍ならぬ「吐水鬼??」

石制の神橋を渡り石段参道の下、左右より神域を守護されるのは、何ともユニークな表情の狛犬さん一対。以前は村田寅太郎制作の青銅製の狛犬さんが居ましたが大東亜戦争時に供出、昭和19年に同じ形状のセメント製の狛犬さんを奉納。

その後終戦70年を記念して2015年に奉納された青銅製の狛犬さん・・随分と沢山の狛犬さんを見てきた私たちですが、それでもこちらの狛犬さんは初めて拝見するタイプ。鼻や口は獅子頭を連想させて、可愛いのか楽しいのか説明に悩む・・・(^^;)

吽形「俺らの顔見て説明に悩むとか言うとるが、随分と無礼なやっちゃで、ここはきちんと締めておくかのぉ」。
阿形「いやまぁ・・わざわざワシ等に会いに遠方からきとるんじゃし、けなしとる訳でも無いしええがな」。妄想です(笑)

朱塗りの楼門(国登録有形文化財)は、檜皮葺・三間一戸・入母屋造で室町時代建立の楼門にならって明治34年(1901)に再建。

神門前左右より神域を守護されるのは昭和56年(1981)10月31日奉納の狛犬さん一対。

狛犬というより獅子。阿吽の別が無く、どちらも大きな玉を口中一杯に咥えております。

楼門は隋神門の形式を持っており、左右には鎌倉時代作の随身様が優雅に弓を手に神域を守護されています。

この美しさで鎌倉時代作と言うのは正直、称賛に値する保存の良さ。化粧直しが施されているとはいえ、俄かには信じられませんでした。

楼門を潜って真っ直ぐ正面に切妻造妻入り檜皮葺の拝殿(国指定重要文化財)。『毛利元就』の寄進により天文8年(1539)建立。

国宝指定の御本殿を含め、広大な住吉神社の境内ですがこの続きは明日に

参拝日:2017年12月3日

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御神名一口メモ

「荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)」とは、古代、神霊は荒魂と和魂という2つの霊魂により成り立つと考えられていました。荒魂は、人間生活促進のため、勇猛果敢に活動する御魂。和魂は、温和で得を備え、平和をもたらす御魂をいいます。

 

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亀山八幡宮~其の二 in 山口県下関市中之町

2024年03月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

国道9号線に面し、関門海峡を一望できる立地に鎮座される「亀山八幡宮」。「かってこの境内地は江戸時代初めまで島でした。島の形は丸く、陸や海から眺めると亀に見え、さらに夏の日照りが続くと亀甲模様の亀裂が現れていたことから、亀山島と言っていました。また亀は水中でも陸上でも生きることが出来ることから、あの世(神の世)とこの世(現世)を行き来できる動物として神聖視されています。」公式HPより

という事で2002年に奉納された御影石の「神亀」。長さ130cm、幅70cm、高さ65cm、重さ650kg、なでると延命長寿といわれます。

もちろん手水舎で吐水してくれるのも子亀を乗せた親亀。

ちなみにこちらの神社には「亀」だけでなく、下関の名産品「ふくの像」も奉納されています。明治21年(1888)、時の総理大臣伊藤博文公が下関でふく刺しを賞味し、その美味を絶賛したことから全国に先駆けてふく食用禁止が山口県で解禁されました。

ちなみに私の数少ない好物の一つが「てっちり」。これだけの大きさ、たらふく食べても一回では食べきれそうにない~♪(笑)

珍しく食い気に走っていますが、話はこれで終わり。境内に建立された碑、順を追って紹介です。

拝殿下右手に昭和天皇御在位60周年を祝して建立された御製碑。昭和8年の歌会始め御題「朝海」から。ちなみに昭和15年に紀元2600年を奉祝してこの御歌に作曲振付けされたのが「浦安の舞」。全国の神社で神楽舞として奉納されています。

【 あめつちの 神にぞいのる 朝なぎの 海のごとくに 波たたぬ世を 】

「中野水月句碑」【 風かほる 宮居や洋を 右左 】大正4年(1915)建立。

室町時代末期の連歌師「飯尾宗祇」の句碑。【 秋遠し 亀の上なる 嶺の松 】文明12年(1840)、京都から九州への旅の途中に参拝した時に詠まれたもの。大正3年(1914)建立。

「前田喜代人」歌碑【 赤埴の 馬関は寒しと君云へど 吾がこゝろ燃ゆ 瀬戸の潮に 】昭和62年(1987)建立

「金子みすゞ詩碑 夏越まつり」。2003年建立

【 うぶすなの 神の潮路や 六連雲丹(むつれうに)】 古川薫

ふくの像で登場した伊藤博文公に縁の「お亀茶屋跡」。お亀茶屋のお茶子木田梅子が長府藩に追われた伊藤博文公を助け、のちに夫婦になったと言うゆかりの地。2012年の参拝時にはこの岩の上に神亀がいました。

何処に行ったのか気になってついつい探してしまう「神亀」の行方。なんと、こんな所に出張していました。

「力石」。撫でると力がつくと信じられています。左は勧進相撲の記念石で、文政10年(1827)の奉納。・・おや、神亀がこんな所にも。

「針塚」昭和57年建立・右「扇塚」昭和45年建立

「亀山砲台跡」碑文抜粋

「文久3年(1863)5月11日、午前2時久坂玄瑞の指揮によりアメリカ商船攻撃合図の砲弾が亀山砲台より発射され、米仏蘭三国相手に6回にわたる馬関攘夷戦の火ぶたがきられた。同年6月1日、藩主は亀山八幡宮に夷敵降伏を祈願した。敵弾は楼門をかすめただけで社殿守兵とも損傷なく、時の人は「これ八幡大神の御神意なり」と称え弾除八幡と称えた。」

最後に色々調べていて偶然見つけた「!ビックリ!」情報。畳三畳分の亀山宮鳥居額。この「山」の文字の左下にある白い物が問題の「!ビックリ!」、何とこれ野球ボール!!しかも昭和33年からここに!?。実は近くにあったガソリンスタンドの従業員が、野球をしている際に打ったボールがスッポリとハマってしまった・・と。これをきっかけに、験担ぎとして地元の高校球児たちがお参りをした所、甲子園で優勝する事となり、地元の球児たちの必勝祈願の場所となっているそうです。

参拝日:2012年11月15日&2017年12月3日

 

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亀山八幡宮~其の一 in 山口県下関市中之町

2024年03月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

下関市の中心地、中之町に鎮座される「亀山八幡宮」。御祭神は『応神天皇・神功皇后・仲哀天皇・仁徳天皇』

由緒「関の氏神さま・亀山さまと親しまれている亀山八幡宮がある地は古くは島で、貞観元年(859)、京の都の守護のため宇佐神宮から石清水八幡宮に勧請される途中、この島の麓に停泊。その夜、「此の山清浄なり、我もっとも愛す。暫らく祭祀し奉り路を進むべし」との神託があり、仮殿を造営させてお祀りしたと伝えられる(享保年間「防長社寺由来」)「亀山」の名は、島の形が亀に似ていたとも、宇佐の八幡様がお祀りされる亀山からとも云われる。戦国時代に荒廃するが、永正3年(1506)大内義興により、社殿・楼門等を修築。明治7年に郷社、同34年県社。昭和43年に別表神社に列し、下関60ヶ町の氏神様として尊崇される」公式HPより

2012年・2017年、二度に渡る参拝。画像取り混ぜてのスタートは昭和8年建立の日本一の御影石の大鳥居(高12.7m、幅15.15m、柱の直径1.2m)

「亀山宮」と書かれた額は縦3m ・ 横1.5m、約畳三畳分の大きさ

参道石段半ばより神域を守護されるのは建立年不明。ひしゃげた様な容貌に似合わず精悍な面構えの狛犬さん一対。特に吽形さんの噛み締めた口元や見開いたギョロ目にタジタジ・・。

石段参道を上がり切った正面に拝殿

拝殿右手の脇参道より神域を守護されるのは三体の仔狛を連れた狛犬さん一対。「文久3年(1861)12月吉日 発起人黒崎屋善文」の刻。

吽形さんの胸にしがみ付き、一杯に開いた両の前足を親狛の体にまわす。しっかりと仔狛を抱きかかえる親狛の手。その背には能天気な笑顔の仔狛さん。さり気ない技法ですが、仔狛も阿吽の一対になっています。

三体目は阿形さんの左前脚に隠れるようにしがみ付いています。体の大きさから見るにこの子が最年長に見えるのですが、臆病なのか単に人見知りなのか(笑)

脇参道と向かい合うように鎮座される「お亀明神社」。御祭神は『お亀明神』

由緒「江戸時代の始、毛利藩によって街の発展のために社地を陸続きにする工事が起こされます。しかし海峡は急潮で工事は多大の工費と、人の命を犠牲にするのみで進展は見られず、遂に人柱募集の高札を立てる事に。時に、疱瘡を病み顔に「アバタ」のある稲荷町のお亀という遊女が、「我が身を滅して功あるならば」と人柱に立ち、月夜の海に白衣に身をつつみ、海に身を投じて埋立の礎石となりました。その後急潮に悩まされる事もなく難工事は無事終了。人々は境内に銀杏の木を植えお亀さんの功績を讃えました。お亀銀杏は先の戦禍にあい焼失しましたが、やがて新芽が成長し、今なお母なる木の面影を偲ばせています」公式HPより

亀池

お亀明神を守護されるのは、御大典記念:昭和3年(1928)11月10日建立の一体だけの狛犬さん。

手水舎の吐水亀

拝殿左手の脇参道

脇参道石段下左右より神域を守護されるのは、文化11年(1814)甲戌6月建立の狛犬さん一対。表情の読めない吽形さんと、頑丈そうな歯をちらつかせて不敵に笑う阿形さん。

拝殿左手の一段下に鎮座される「恵比須神」。御祭神は『社事代主神・大国主命』

「宮地嶽神社」。御祭神は『息長足比売命(神功皇后)・勝村大神・勝頼大神』。福岡県宗像の宮地嶽神社よりの勧請。

「熊鷹(くまたか)稲荷神社」、御祭神は『倉稲魂命』。伏見稲荷の熊鷹社から勧請。“人助け稲荷”とも称されます。

境内には昭和天皇の御製碑を始め、文学碑や旧所跡の碑などが沢山あります。という事でこの続きは明日のブログで(^-^)

参拝日:2012年11月15日&2017年12月3日

 

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大坪八幡宮 in 山口県下関市羽山町

2024年03月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

下関市羽山町に鎮座される「大坪八幡宮」。御祭神は『應神天皇・仲哀天皇・神功皇后』合祀『高龗神(たかおかみのかみ)』

境内由緒「清和天皇の貞観2年(860)、宇佐八幡宮より勧請この地区の守護として羽山ケ丘に祀ったと伝う。寛文8年・元禄13年・宝永4年修築の匠あり。明治7年、村社に列され、明治24年現在の拝殿を修築、42年貴布禰神社(金比羅町にあった)を合祀し、高龗神を合祀神として祀る。昭和13年、社号を字名を冠して大坪八幡宮と改める」

参道入り口、鳥居の左右より神域を守護されるのは、昭和16年(1941)10月吉日建立の狛犬さん一対。この二か月後に日本は大きな歴史の渦に突入していくのですが、知ってか知らずか阿形さんの威勢の良い大口が小気味よい。

参道途中より神域を守護されるのは「石工・大森藤助 萬延元年(1860)10月吉日」建立の狛犬さん一対。丸い大きな目、丸い大きな鼻、顎まで垂れた丸っこい耳・・特に吽形さんの顔は仙人の如くで、印象に残るお顔。

参道の先に長い石段、その先に二の鳥居。更に石段があり三の鳥居と拝殿が僅かに見えています。・・・・が、立て続けの神社参拝、無理は禁物という事で石段下からの拝礼で失礼させて頂きました。

拝殿前には安政7年(1860)・皇紀2571年(1911)建立の狛犬さんがおいでになるのですが、狛犬さん目当てのご亭主殿が異を唱えず単独行動もしなかった事を思うと、自身でも無理と判断したのでしょう。

参拝日:2012年11月15日

 

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生野神社 in 山口県下関市幡生宮の下町

2024年03月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

下関市幡生(はたぶ)宮の下町に鎮座される「生野神社」。御祭神は『応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・宗像三女神・彌都波能売神(みづはのめのかみ)』

「旧、幡生八幡宮、第五十六代清和天皇、貞観二年(860)九月の創祀、当時京都大安寺の僧行教、天皇の勅命を受け、九州宇佐八幡宮に趣き、八幡宮の御分神を奉戴して、京都男山(今の石清水八幡宮)に皈る途中、当地が清地であり又、神功皇后ゆかりの地であることから、ここに仮泊し、御分神を奉祀したと伝えられる。又、古来武将の崇敬も篤く文禄元年豊臣秀吉、朝鮮の役に出陣の際、松の木を八本手植し、戦勝を祈願したと云う。往時この附近数ヶ村の総氏神として、地方人の崇敬は篤かった。響灘に浮かぶ六連島も古くはこの神社の氏子であったが海上より遠い為、昭和四年二月、こ御分神を勧請して六連島八幡宮を建立せし。」境内由緒より

一の鳥居の奥にかなり長い参道石段

二の鳥居・左右より神域を守護されるのは天保6年(1835)4月吉日建立。小さな真ん丸お目目にぷっくりほっぺが可愛い狛犬さん一対。吽形さんには小さな角も。

「豊臣秀吉御手植松記念碑」

拝殿左右に奉納された懸崖菊

拝殿前左右より神域を守護されるのは天保6年(1835)10月吉日建立の狛犬さん一対。顎下の梵天の様な毛玉に比して顔立ちがインベーダーっぽい・・・下から見上げる所為か、全体的に鋭い顔つき。

「幸せふくろう:世の中も豊(ホー)に、家庭、家族も皆豊(ホー)、我が身心も豊(ホー)に生野。フクロウの頭をホーホーホーと三回撫でて三度唱え三豊願い。」by宮司様

境内社「人丸神社」。御祭神は『柿本人麻呂公』

「人丸は、火止まる→防火の神、人産まる→安産の神と解し篤く崇められています」現地案内より

人丸神社の御社殿を守る東大寺型狛犬さん一対。阿吽の別はありません。

人丸神社参道を守護されるのは万延元年(1860)8月吉日建立の狛犬さん。吽形さんのすましこんだ顔、対する阿形さんの耳まで裂けた大口。かなり個性的な一対。

人丸神社の右手に「子守り女石 周りの石は大人、中の石は子供等、大人が囲み子供を守るサークルストーンです。」

「幡生(旧生野村)の火山伝説と溶岩  往古、此の地に火山の噴火が有ったと伝わる。(ペディオニーテ火山)大正5年(1916)椋野に火山弾の集積が発見され、一里山(石神)から戦場ヶ原(忠霊塔)にかけて、溶岩質の玄武岩地層が確認され、昭和46年(1971)戦場ヶ原公園造成の際、玄武岩層を発見~」案内より

「宮山古墳 当神社神域には14~500年前と推定される、下関市指定文化財前方後円墳が保存されている。」

「幡生古代地図」by宮司様

参拝日:2012年11月15日

 

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高杉晋作を訪ねて~東行庵:文学碑 in 山口県下関市吉田町

2024年03月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

東光庵には実に多くの歌碑・句碑・詩碑が建立奉納されています。東光庵ラストは、カメラに収める事が出来た文学碑を紹介します。スタートは2001年3月18日に建立された有名な連歌から。

(正面) 面白きこともなき世を面白く 高杉晋作
     住みなすものは心なりけり 野村望東尼

高杉晋作と野村望東尼の合作として有名な句で、病床での作と思われます。望東尼は福岡藩士の妻で夫と死別後剃髪。しかし尊皇の熱情に燃え、志士を励まし、平尾山荘に高杉晋作を匿った事から、慶応元年(1865)玄界灘の姫島に流されましたが、晋作によって救い出され、下関で晋作を看病の後、現在の防府市で没しました。

(右側面)吾すれば人もするかと思ひきに 人々そなき人の世の中

(左側面)【西へ行く人を慕ひて東行く わが心をば神や知るらむ】

    文久3年(1863)3月、剃髪し、西行法師にちなんで東行と号した時に詠んだ句。

白石正一郎(資風)歌碑【白たへに にほへる梅の花ゆえに あけゆく空もみどりなるらん】 文久3年(1863)6月8日、高杉晋作は竹崎町の白石家において奇兵隊を結成。同時に白石正一郎と弟の廉作が入隊、さらに正一郎は奇兵隊を財政的にも支えていました。歌碑の文字は「幕末の豪商志士・白石正一郎」の著者『中原雅夫』

「無隣庵の歌碑」慶応元年(1865)、山縣有朋が奇兵隊の軍監であったころ、現・下関市豊浦町の石川良平の娘友子と結婚、現在の東行庵の付近に小庵を建て無隣庵と称し、新婚生活を営んでいました。そのころ詠んだものです。【となりなき世をかくれ家のうれしきは 月と虫とにあひやとりして】碑は明治十七年五月十五日に建立、字は山縣の自筆。

「高杉春風隊長墓前作 小原六六庵:自筆」

奇兵隊長睡斯山 (奇兵隊長は斯の山に睡(ねむ)る)
明治以来悠俗寰 (明治以来(このかた)俗寰(かん)に悠(とおし))
想起當年不堪見 (当年を想い起せば見るに堪えず) 
杜鵑花発松柏間  (杜鵑(とけん)花発(ひらく)く松柏の間)
昭和41年、東行の百年祭に詣でたときの墓前の作。昭和54年、高杉晋作の113回忌に清水流東行庵吟詠会結成10周年の記念行事として建立されました。

「山中茂樹歌碑」昭和3年(1928)、30歳の時に東行庵を訪れて詠んだもの
【偉(おお)き人ここに眠るか直土(ひたつち)に 散りてひそけし松の落葉は】

『横山白虹・横山房子』句碑

梅寂し 人を笑はせをるときも 白虹】【欄(おばしま)に 尼僧と倚(よ)りぬ花菖蒲 房子】

「飯田蛇笏句碑」【松風にきゝ耳たつる火桶かな】昭和6年(1931)、木枯らしの東行庵を訪れ、紀行文「旅ゆく風詠」の中に碑文の句が残されています。句は自筆の短冊をもとにしたもので、昭和53年、東行庵の前庭に建立されました。

東光庵の文学碑・碑巡り、こうして書いていくと随分と沢山取りこぼしています。最後は「川上米男翁顕彰之碑」。長府製作所の実質的創業者で、同社の社長と会長を歴任。高杉晋作を尊敬し、東行庵の歴史と自然を愛し、東行庵に多額の浄財を寄贈した実業家と刻まれています。

訪問日:2017年12月2日

 

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高杉晋作を訪ねて~東光墓 in 山口県下関市吉田

2024年03月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

慶応3年(1867)4月14日、27年8ヶ月の生涯を閉じた『高杉晋作』。その遺骸は彼の遺言により奇兵隊の本陣が置かれた吉田清水山に葬られました。奇兵隊の本営は庄屋の末富寅次郎家に置かれていた為、墓地の選定には彼が尽力。葬儀は4月16日数千人が吉田に会葬し、白石正一郎などが神式で一切を取り計らって執行。晋作没後、愛妾『おうの』は出家し東行庵の庵主『梅処尼』となり、生涯、晋作の墓を守って暮らしました。

激動の時代を疾風の如く生きて駆け抜けた高杉晋作。切ない程の深紅の紅葉に迎えられて進む参道、この先に幼い頃に憧れた彼の人が眠っている。

「史跡 高杉晋作墓」

着流しに羽織姿、剣をつかんで彼方を見る晋作の姿は、子供の頃に歴史本で見た姿とちっとも変っていない。石でも銅でもない、陶器ゆえの温もりがある。

「山形有朋:像」

「東行墓」と刻まれた高杉晋作の墓。墓前には木戸孝允、井上馨、伊藤博文により寄進された石灯籠。晋作は元治元年(1864)12月の功山寺決起直前に、大庭伝七あて書状に遺言として墓誌を記していましたが、それが判明したのは葬儀の後であった為、墓碑銘は晋作の号より『東光』と刻まれました。

2016年4月14日:高杉晋作没後150年記念事業として、作家の故・古川薫氏らが中心となり、晋作が遺言で記した墓誌の墓碑銘が建立されました。

【故奇兵隊開闢総督高杉晋作則 西海一狂生東行墓 遊撃将軍谷梅之助也】
   裏面には【毛利家恩古臣高杉某嫡子也】

明治44年(1911)5月20日、井上馨によって「高杉晋作顕彰碑」が除幕。撰文は伊藤博文、揮毫は杉孫七郎。頭書きの「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し~」はあまりにも有名で、高杉晋作の人となりと行動をよく表しています。

「高杉晋作顕彰碑・除幕式記念碑」

高杉晋作:東光墓と並ぶ「福田公明(侠平)の墓」高杉晋作に最も信頼され奇兵隊参謀として活躍。北越に従軍しましたが、病気で下関に帰り、明治元年(1868)に死去。

高杉晋作顕著碑と並ぶ「福田公明顕彰碑」。

東光墓の一段下には、42年間晋作を弔い続け明治42年(1909)に亡くなった『梅処尼』が晋作を守るように眠っています。

維新戦争で亡くなった長州諸隊士の多くは十代~二十代の青年で子孫もなく、無縁仏となり荒れ果てるケースが多かったといいます。東行庵三世・谷玉仙尼は昭和46年に墓地を開き、全国各地から隊士の墓を集め供養顕彰をしました。

ここには奇兵隊に支援を続けた白石正一郎、奇兵隊三代総督を務めた赤根武人の墓など140基が建立されています。

「今井万太郎の墓」年齢を偽り小倉戦争に従軍、14歳で戦死。

姓名・出身・来歴の判明した墓には、詳細を記した駒札がそれぞれに添えられています。

太田里灯句碑【 蟻の列 奇兵隊小者 喜作の墓 】(喜作の墓の前を蟻の列が続いている。それをじっと見ていると、明治維新に奇兵隊の隊士として活躍、名もなく消えていった草莽の人たちのことが思われる)

勝者となった討幕軍側の兵士達の墓は作られていた。後年、無縁仏となる事を憂えた人物の手によって新たな墓所を与えられる状況であった・・・墓碑に手を合わせつつも・・・その反対側には、せめて埋葬だけでもと懇願し続ける寄る辺の眼前に、これみよがしに野ざらしにし、言葉にするのもおぞましい陵辱を加え、鳥獣の餌食とさせ、腐乱するまで打ち捨てさせた多くの会津藩士達への惨い仕打ちがあった事を考えずにはいられません。

参拝日:2017年12月2日

 

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高杉晋作を訪ねて~東行庵(とうぎょうあん) in 山口県下関市吉田町

2024年03月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

下関市吉田町の一画に残る「奇兵隊陣屋跡」

文久3年(1863)、高杉晋作らの発案によって組織された「長州奇兵隊」。慶応元年(1865)に拠点を吉田に移した奇兵隊が、慶応3年(1867)8月から明治2年(1869)11月の解散まで陣屋(本陣)を置いた所。当時の堤防が僅かに名残を留めています。

私たちがこれから訪ねるのは功山寺の末寺でもある「史跡・高杉晋作墓所: 東行庵(とうぎょうあん) 」

幕末維新の志士 高杉晋作の慰霊の地「曹洞宗清水山(せいすいざん):東行庵」。山陽花の寺二十四ケ寺第8番札所。『白衣観音菩薩』を本尊とします。

「維新の革命児・高杉晋作の霊位礼拝堂として明治17年(1884)に創建。初代庵主となったのは、高杉晋作の愛妾おうの。晋作の死後、明治14年(1881)に永平寺の貫主から得度を受け「梅処(ばいしょ)」と称して晋作の菩提を弔うことを余生としたと伝えられ、今もその法灯は受け継がれています。
当初は山縣有朋所有の建物「無隣庵」をあてていましたが、旧藩主毛利元昭・伊藤博文・井上馨等の寄付で、新たに「東行庵」として建てられ現在に至ります。庵内の仏壇には高杉晋作と共に山縣有朋の位牌も安置されています。」
公式HPより

高杉晋作(東行)詩碑:元治元年(1864)晋作24歳、晩秋の作(自筆)

題焦心録 焦心録に題す。
内憂外患迫吾州(内憂外患吾が州に迫る)
正是邦家存亡秋(正に是れ邦家存亡の秋)
将立回天回運策(将に回天回運の策を立てんとす)
捨親捨子亦何悲(親を捨て子を捨つる亦何ぞ悲しまん)

「横山健堂顕彰碑」大正時代を中心に活躍した評論家で、功山寺にある「高杉晋作回天義挙之所の碑」を揮毫した人物。

「日露戦役凱旋紀念碑」:題字『山縣有朋』

「時山尚八手植えの樫(かしのき)」明治元年、奇兵隊参謀として北越に出征する時ここに植えたもの。

東光会館

境内に建立された「高杉晋作像」。

台座の下に「平成26年7月19日 東光庵来所記念 第96代内閣総理大臣・安倍晋三」のプレート。

長門国萩城下菊屋横丁に長州藩士・高杉小忠太・みちの長男として生まれる。安政4年(1457)、吉田松陰主宰の松下村塾に入り、安政5年に藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所などで学ぶ。文久2年(1862)、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航。その後尊攘運動に加わり、江戸・京師において勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開。文久3年、身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成。第二次長州征伐では海軍総督として丙寅丸に乗り込み、周防大島沖に停泊する幕府艦隊を退け、周防大島を奪還。小倉方面の戦闘指揮では、軍艦で門司・田ノ浦の沿岸を砲撃、幕軍の砲台、火薬庫を破壊し幕府軍を敗走に追いやる。

慶応3年(1867)肺結核のため桜山で療養生活を余儀なくされ、4月14日、江戸幕府の終了を確信しながらも大政奉還を見ずしてこの世を去る・・享年27歳。

参拝日:2017年12月2日

 

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