晦日のUta~在れば~
きっと
必要なエキスの摂取を怠ると
もしくは
必須の栄養素が不足すると
inochiを維持する組織や組成の
あらゆる
部分や部位や分野に影響する
加えて
心身や対人や対物や環境や昼夜やetcが
unbalanceになってしまうと
同様に
真っ当なinochiの道順や成り行きや青史が
不完全になったり
未完成のままだったり
未熟のまま放置されたり
老病死を早めたり
遂には
自死を選んだりもする・・
生きるとは
更に、生き続けるとは
誰にとっても
斯様に至難の業だが
人として在れば
人間として在れば
それは
万人に否応なしの試錬でも在る
雲が多いものの、陽射しが有難い🎵
先日のNHK短歌は、大河ドラマ光る君へが終わったので、道長役の柄本佑さんをゲストに俵万智さんの担当だった。
「このよをば わがよとぞおもふ もちづきの かけたることも なしとおもへば」が取り上げられた。
このうたは権力者道長の傲慢と悪を連想されるとして、これまでその解釈が流布してきた。小生もそのように思ってきた。
ところが、゙このよ゙を「この世」でなく「この夜」と捉えて、道長が夜空の月を愛しく眺め、月は皇后となった三人の愛娘を指していると云う。又このシーンは道長と同座していた十数人全員で唱和した。脚本家も演出家もそんな風景にしたのである。又柄本佑はこの詩の中に「思う」が二度も使われているので、従来のように道長は捉えられたのではないか?と言うと俵万智さんも同意していました。
「海馬にーー
ただ出合ったというだけなら それは廻る月日の間に 数え切れない程に訪れて・・
出会いという事に絞っても 僕らは数多の擦れ違いを 恒常的に繰り返し もはや 百万遍もの束の間の会者定離を 積み重ねているけれど それは唯の行き擦りというだけで 誰も彼も 僕を記憶したりはしていないのだ
そこには絶対的に 触れ合いがなければならぬ 心の揺れが派生しなければならぬ 気が
働いた痕跡が残っていなければならぬ 海馬に正しく筆記されていなければならぬ 光沢を無くさぬ珠玉でなければならぬ いつでも自由にいつでも心の欲するままに 抽斗から取り出せなければならぬのだ そうでなければ イノチの出会いだとは 決して記録されないのだ そうして その様に交わったヒトの数こそが 人生lifeの豊かさを計るバロメーターであり 命lifeの熱さを教えてくれる温度計になる
僕が絶え間なく発信するのは 常備するボクの音叉と 同じように共鳴する誰かの その懐の音の有無を訪ね宛てたいからなのだ
僕がwriterとして発信しなければ それは 何一つとして成就しない想い それこそが 僕のhopeの有り様の表現なのだ
それ故僕は夜でも朝でも昼間でも 運命を帯びた欠片たちが降って来ると
それを文字と言葉に変換して送信する態勢を 常に整えている そう!!
一tの紙と百本のボールペンを・ー(詩集17)」
「神は根、教えは茎、人間は花である。一つも引き離す事が出来ない。茎の養分を吸う者は、根の養分を吸う者である。(智慧の言葉)」
海馬に(詩17)再掲有難うございます!
そうですよね、考えたら下井足に居を構えたのも
彼の地に家を建てたのも
お隣が一歩さん宅だったのも
僕の詩を読んでくれるようになったのも
単なる出会いから出発して、心を結んできたという証
「心通」の人と巡り会えた幸せの証
来たるべき新しい年にも、同じように
その交流が深まりますように