9月3日
今日は、娘とスパゲッティ―専門店で一緒にランチを食べた。
夏休み後半から、娘はろくに口をきかないばかりか、始業式前後はお互いにいろんな思いが爆発してしまい、我が家はちょっと大変な台風状態だった。
『雨降って地固まる』
という言葉があるが、今はまさにその状態。
だが、その雨が降り出す前と、降っている最中は、先が見えないぐらいの修羅場だった。
思春期・反抗期は、同じ兄弟でも子どもの数だけ表れ方は、それぞれだ。
思えば、つわりも陣痛も、三人三様だった。
全く違う人格を持って生まれ、・人生を歩む子ども達。
たまたま、私たちのところに生れ落ちた子供達。それを私たちは望み、親としての責任はあるとしても、子ども達は、親の所有物ではない。
繭の中で自分自身と格闘している娘。
きっと、自力で殻をこじ開け、美しい羽を持って出てきてくれると、信じて見守るしかない私。
でも、それは私が自分に都合の良い様にイメージしている理想・幻想なのか・・・。
親も、毎日が修行のようだ。
子どもとどう向き合うか、ということは、自分自身への「気付き」でもある。
『子どもは親の鑑』というが、まさにその通り。
思春期・反抗期の子どもは、『諸刃の刃』で、相手を傷つけながらそれ以上に自分自身をも傷つけている。
苦しみながら、「自分を見て!」「こんな自分でも、愛していると言って!」全身で信号を送っているのだ。
何を言ってもはねつけ、否定し、毒を吐きながら、一生懸命自分と戦っている。
親は、一緒に毒にまみれ、泥をかぶりながら、この劇的な「さなぎの時代」を、共に乗り越えていくしかない。そして、それは、自分がおなかをいためて生んだ親にしか出来ないことでもある。
娘の毒に当って、あえいでいる時、かつて私を泣かせてばかりいたあの息子が、
「いつか分かる時が来るよ」
と言ってくれた。
嗚呼、この時のために、息子とのあの葛藤の日々があったのだと思った。
娘とはまた違う表れ方ではあったが、本当に、土砂降りなんてものではない、まるで台風銀座のような毎日だった。
でも、そんな時に私を助け、癒してくれたのは娘達であり、励まし、協力してくてたのは親兄弟・友人だった。
それは息子にとっても同じことが言えた。
その息子が、高校受験を前に、だんだんに落ち着きと穏やかな笑顔と素直な態度を取り戻しつつある。
まだ、「さなぎ」から出てきたわけではないが、そのときのための準備に入っていることが分かる。
「きっと、分かる時が来る」
その言葉に励まされ、その時を信じて、まずは、私自身がぐらつかない、つぶれない、「肝っ玉母さん」にならなくては。
午前中、娘といっぱい話を話した。
私の思いを心をこめて話した。
かたくなな心はすぐには解けないようだったが、娘の目からは攻撃色が消えていった。
照れて、嫌がる娘をランチに誘った。
「ママはいつもこんなところに来るの?」
「いつか入ってみたいと思っていたけど、一人じゃ入りにくいし、お友達とでも良いけど、あなたと一緒に食べに来てみたいと思っていたの」
「ふ~ん」
食事の後、娘が、
「私、行きたい高校があるの」
と言った。
娘は中1だ。現実(不登校)に苦しみながら、ちゃんと将来を夢見ている。その現実と理想の未来のハザマで寝ても覚めても悩み、苦しみ、逃げるに逃げられないで葛藤しているのだ。
自分自身でいられる居場所を求め、思いをぶつけ合える相手、生きていることを実感できる「出会い」を求めているのだ。
親としては修行のような毎日だが、子ども達から、毎日たくさんのことを教えてもらっているのだと思う。
明日は、二人で、お芝居を見に行き、その娘が行きたいという学校を見に行く約束をした。
今日は、娘とスパゲッティ―専門店で一緒にランチを食べた。
夏休み後半から、娘はろくに口をきかないばかりか、始業式前後はお互いにいろんな思いが爆発してしまい、我が家はちょっと大変な台風状態だった。
『雨降って地固まる』
という言葉があるが、今はまさにその状態。
だが、その雨が降り出す前と、降っている最中は、先が見えないぐらいの修羅場だった。
思春期・反抗期は、同じ兄弟でも子どもの数だけ表れ方は、それぞれだ。
思えば、つわりも陣痛も、三人三様だった。
全く違う人格を持って生まれ、・人生を歩む子ども達。
たまたま、私たちのところに生れ落ちた子供達。それを私たちは望み、親としての責任はあるとしても、子ども達は、親の所有物ではない。
繭の中で自分自身と格闘している娘。
きっと、自力で殻をこじ開け、美しい羽を持って出てきてくれると、信じて見守るしかない私。
でも、それは私が自分に都合の良い様にイメージしている理想・幻想なのか・・・。
親も、毎日が修行のようだ。
子どもとどう向き合うか、ということは、自分自身への「気付き」でもある。
『子どもは親の鑑』というが、まさにその通り。
思春期・反抗期の子どもは、『諸刃の刃』で、相手を傷つけながらそれ以上に自分自身をも傷つけている。
苦しみながら、「自分を見て!」「こんな自分でも、愛していると言って!」全身で信号を送っているのだ。
何を言ってもはねつけ、否定し、毒を吐きながら、一生懸命自分と戦っている。
親は、一緒に毒にまみれ、泥をかぶりながら、この劇的な「さなぎの時代」を、共に乗り越えていくしかない。そして、それは、自分がおなかをいためて生んだ親にしか出来ないことでもある。
娘の毒に当って、あえいでいる時、かつて私を泣かせてばかりいたあの息子が、
「いつか分かる時が来るよ」
と言ってくれた。
嗚呼、この時のために、息子とのあの葛藤の日々があったのだと思った。
娘とはまた違う表れ方ではあったが、本当に、土砂降りなんてものではない、まるで台風銀座のような毎日だった。
でも、そんな時に私を助け、癒してくれたのは娘達であり、励まし、協力してくてたのは親兄弟・友人だった。
それは息子にとっても同じことが言えた。
その息子が、高校受験を前に、だんだんに落ち着きと穏やかな笑顔と素直な態度を取り戻しつつある。
まだ、「さなぎ」から出てきたわけではないが、そのときのための準備に入っていることが分かる。
「きっと、分かる時が来る」
その言葉に励まされ、その時を信じて、まずは、私自身がぐらつかない、つぶれない、「肝っ玉母さん」にならなくては。
午前中、娘といっぱい話を話した。
私の思いを心をこめて話した。
かたくなな心はすぐには解けないようだったが、娘の目からは攻撃色が消えていった。
照れて、嫌がる娘をランチに誘った。
「ママはいつもこんなところに来るの?」
「いつか入ってみたいと思っていたけど、一人じゃ入りにくいし、お友達とでも良いけど、あなたと一緒に食べに来てみたいと思っていたの」
「ふ~ん」
食事の後、娘が、
「私、行きたい高校があるの」
と言った。
娘は中1だ。現実(不登校)に苦しみながら、ちゃんと将来を夢見ている。その現実と理想の未来のハザマで寝ても覚めても悩み、苦しみ、逃げるに逃げられないで葛藤しているのだ。
自分自身でいられる居場所を求め、思いをぶつけ合える相手、生きていることを実感できる「出会い」を求めているのだ。
親としては修行のような毎日だが、子ども達から、毎日たくさんのことを教えてもらっているのだと思う。
明日は、二人で、お芝居を見に行き、その娘が行きたいという学校を見に行く約束をした。