明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(848)トルコの炭鉱事故は人災!責任は人命軽視のトルコ政府にある!

2014年05月16日 19時00分00秒 | 明日に向けて(801)~(900)

守田です。(20140516 19:00)

ここ数日、『美味しんぼ』の勇気ある発言を守り、発展させるために論陣をはっているところですが、トルコから大変なニュースが飛び込んできました。
トルコ史上最悪と言われる炭坑事故の発生です。
すぐにニュースを追いかけるとともに、トルコの友人と情報交換をしてきましたが、たちまち見えてきたのは、この事故が明らかな人災であることです。

トルコの人々もこのことに気が付き、すでに全国の町々で政府への抗議デモを行っていますが、暴力的なトルコ政府はまたしても武装警官隊を派遣し、ガス銃を乱射しています。本当にひどいです。
こんな野蛮な政府を相手に原発を売り込もうとしているのが、やはり暴力が大好きなわが安倍首相です。そんなこと、何としてもやめさせなければなりません。
世界にはびこる効率優先⇒金儲け優先⇒人命軽視の流れを食い止め、真に平和で豊かな世界の実現を目指しましょう。トルコの人々と共に。

トルコの親友のプナールさん(Pinar Demircan)が、さっそく事故内容と背景を調べて記事を書き、送ってきてくれたので掲載します。
彼女が書いた日本語を少しだけ僕が修正して仕上げていますが、こちらからのネット検索だけでは得られない貴重な情報がたくさん載っています。ぜひ読んでください。
なお彼女は、涙を流しながらこの文章を綴ってくれました。トルコのみなさんの悲しみと怒りをぜひシェアしていただけたらと思います。

*****

ソマ炭鉱事故 死者283人に 原因は劣悪な労働環境!
2014年5月16日早朝 プナール(Pinar Demircan)

世界中の皆さんがもうご存知のように、5月13日にトルコ西部マサニ県のソマにある炭鉱で火災が起こり、大勢の人が亡くなりました。しかもまだ百数十人が地下に取り残されているようです。
事故発生から1日半。火災を止め、坑内の人々を救うために救助隊が一生懸命に活動していますが、まだ救助隊が入れていないところが2箇所もあるそうです。炭鉱の中ではすでに火は消えているものの一酸化炭素ガスが未だ充満しています。その上、事故で電気が切られたため、鉱床から湧き出る水が排出できず、炭鉱中に水がいっぱい溜まっているそうです。
事故はちょうどシフト変更のところで起きてしまいました。そのため炭鉱内に787人の作業員がいましたが、そのうち今までで283人が亡くなり、80人が重軽傷を負っい、さらに約280人が地下に取り残されているとみられています。

事故から一日後にエルドガン首相(注)が現場におもむきました。たちまちこの事故でお連れ合いや父親、子どもを亡くした遺族たちや市民たち首相に詰め寄り、事故の責任をとって辞やめて欲しいという声を上げました。
それに対し首相は過剰な反応をみせました。遺族や市民の叫びを耳にして反対に怒り出し、市民と争う姿勢を示しました。首相の警備隊も周りで声を出す人を捕まえようとしたそうです。

警察の暴力は、事故のあったソマでだけではなく、事故に対する悲しみを表し、政府にへの怒りを表明した各地の市民に対しても向けられました。
例えば昨日(15日)イスタンブールのタクシムで政府を批判するデモが行われました。新聞各社も集まり、国民の悲しみを代弁して主催団体の声明が発表されましたが、警察はこの時集まった4000人の人々に対して催涙ガスを使い。デモを止めさせようとしました。
しかし怒りの声はソマやイスタンブールにとどまりません。全国の町々でデモが起きています。トルコの人々は、口々に「エルドガン!首相を辞めなさい!」と叫んでいます。フェスブックやツイッターでも多くの人々が怒りを表明しています。
トルコ政府は今後3日間を「忌中」とすると発表しましたが、公務員の方たちも、この悲劇のために、今日(16日)は働かないことを自主的に決めました。事故からもうすぐ2日間が過ぎようとしていますが、全国の人々が深く心を痛めています。そして政府と与党である公正発展党(AKP)こそが事故の責任者だと感じとっています。
(注)日本ではトルコ首相の名は「エルドアン」と表記されていますが、トルコ語ではErdoğanで、ときに日本でも「ガ」と表記されることもあるようです。この点、プナールさんに確かめると、「彼はトルコのガン(癌)ですから、エルドガンでいいです!」とのことでした。この点、付記しておきます。

政府の19年前からサインしていない労働協定

それはなぜでしょうか。
世界中の国々で、危険性が最も高い作業現場は炭鉱であると考えられてきたのに、トルコ政府は1995年にILO(国際労働機関)が打ち出した「鉱山における安全及び健康条約(第176号)」にサインしていないのです。19年間もです。
サインしていない理由は、下記の規則を守らないといけないからです。

1-常時、炭鉱に何人がいるかが分かるためのシステムを作らないといけない。
2-炭鉱の中で安全性を高めるための連絡システムを持たなくてはいけない。
3-常時、地下に何人が居るも分かるようなシステムを作らないといけない。
4-作業中に作業者が安全で元気に働けるように、コミニュケションの円滑化も含め十分の技術が使われなければならない。
5-いつなんどきでも地上に安全に出られるように、各ゲートからの出口を二つ確保しておかなければならない。
6-現場の作業条件が不断に改善され、危険な状態がないか点検するために、現場の定期的な監査がなされなければならない。
7-十分な空気交換が行われなければならない。
8-火事や爆発が起きないような対策が講じられなければならない。
9-労働の安全性が悪化した場合はすぐに作業を中止し、緊急対応プランが実施されなければならない。
10-災害や事故が発生した場合の、緊急対応プランが作成されていなければならない。
11-作業者に安全な作業を行うための専門的な教育やトレーニングが、無料でなされなければならない。
12-作業のリスクについて作業者の意識を高めることがなされなければならない。
13-事故が発生した場合の、被災者の救助や治療について作業者の意識を高めることがなされなければならない。
14-監査体制がプランニングされるとともに、万が一、事故が発生した場合の検査体制が作られなければならない。

この他、インフラ整備として、炭鉱の中に非常時に難を逃れるシェルターを作ることも義務付けられています。このための12人用のシェルターのコストは8万ドルです。
ソマ炭鉱の場合、一番込み合う時の人数分として780人のために20個のシェルターが必要ですが、それがあれば深刻な事故があっても、作業者が15から20日間は生き伸びられるとされています。
しかしトルコ政府はILOのこの協定へのサインをしてきませんでした。また掲げられた規則の一つも守っていません。このように政府が、本来、設置すべきだったシェルターを作ってこなかったために、今回の事故でもたくさんの作業員が亡くなってしまったのです。

ソマ企業と公正発展党(AKP)の癒着

問題はトルコが、ILOの炭鉱関係の条約にサインをしていないことだけではありません。問題点のもう一つはソマ炭鉱が2005年に国立の炭鉱から私営の炭鉱になり、「ソマ企業」が運営を始めたことです。トルコの中で国立の炭鉱と、私営の炭鉱の差は、先ず安全性に現れます。
トルコで国立炭鉱での事故の率(1000人中、事故で亡くなった人の数)は2.4人なのに私営の炭鉱の場合は20.3人と10倍になっています。同じ事故の率はヨーロッパの場合は1.8人だそうです。ちなみにトルコで2000年からあった炭鉱事故での死亡者総数は1308人だそうです。

残念なことですが、一般のトルコ人には、日本人のような「安全第一」という意識がありません。安全性の向上のためには特別な教育が必要です。ところが私営の企業の場合、お金をたくさん稼ぐための一番簡単で安い方法が考えられる場合がたくさんあります。
例えばソマ企業は、事故の前にテレビで「大きなコストダウンをした」と自慢していました。おかしいのはそのコストダウンが経営コストを140$より24$に下げたことだったです。
コストを約6分の1にして、6倍の利益を上げたということですが、それはありえないことです。コストと生産性のバランスをなくしてまともな仕事ができるはずがないでしょう。

しかしこの事故の2週間前に、偶然にソマ企業があるテレビに取材され、ソマ炭鉱が良い評判を受けました。ソマ企業はソマ炭鉱のことを「危険性のない素晴らしい現場で、事故が起きても作業者は20日間ぐらい地下で生きられます」と説明したそうです。
ソマ企業がいかに「素晴らしい」か、私たちは今回、全国で泣きながら良く理解しました・・・。

実際にはソマ企業の炭鉱では、この3年間以内で11回も死亡事故が起きています。さらに15歳の子供でも働かそうとしていているのに政府にサポートされている。こんなこと、信じられますか。
ソマ企業は下請け業者もたくさん使っているそうです、そのことだけでも事故の数が増えています。下請け業者が使われると現場の安全教育レベルが下がるからです。
しかもソマ企業は、今まであった11回起きた死亡事故の原因を把握しようとしてきませんでした。対策も作らなかったし、事故が二度と起きないようにする教育も与えず、現場の改善もしてきませんでした。
そのことに気が付いたAKPの反対党のCHPが、議会で質問を出して、「ソマ企業ではなぜ事故が多いのか」と問いただし「定期的に監査を行うべきだ」と提案しましたが、AKPは簡単にこの提案を断ってしまいました。

政府与党のリーダーであるエルドガンと、ソマ企業のオーナーが癒着していることも大きな問題です。ソマ会社のオーナーのお連れ合いの女性が、ソマ炭鉱のあるマニサ市の市会議員となっていて、市のAKPを代表しているそうです。
更に首相とソマ企業のオーナーの癒着の中で、選挙では作業者に無理やりに利益供与がなされ、AKPへの投票が強制されたそうです。ソマ企業には5000人の作業者と500人の事務員がいます。
ソマ企業のメイン事務所はイスタンブールで一番地価が高い、東京の新橋に当たる「マスラック」にある29階建てで高さ191mの「スパインタワー」にあります。亡くなった作業者の方たちの伸長を計算すると、約288x160cm。リッチなソマビルを7回ぐらい超えることになります・・・。

組合の活動と現場の改善が足りない

トルコで現場の改善が出来るのはそれぞれのセクター(業種)に入っている組合です。とくに社長が利益ばかりを考える会社の場合、それは大事な立場を担っています。
しかしある会社の組合が、自分のセクターの組合に参加できるためには、その企業の作業者の過半数が組合でなければならないと決まっています。しかしそのレベルは高すぎます、ヨーロッパの国々でそれは30%以上ということです。
そのために、現場の改善が出来て安全性が高まるような組合に参加できなかったソマの作業者たちが、すべてオーナの言う通り、コストが低く抑えられたために安全ではないところで、分けが分からずに働かせられてきました。
因みにソマ企業の炭鉱の作業の一ヶ月の賃金はどのぐらいでしょうか。900TL(トルコリラ)す。日本円でいうと9万円です。 
これらをもとに次のことが言えます。今回あったのは「事故」ではありません。虐殺です。犯人は間違いなく政府です。しかしそのことが、政府、そして与党AKPやエネルギー大臣、労働大臣、首相に全く受けいられていません。

政府の犯罪

まとめて言いますとAKPはソマ事故の犯人です。その理由は、

AKPやエルドガンが炭鉱企業と癒着し、政治的な利益を受けるために、ビジネスの足りないところを、安全管理を時過ごしてきたからです。
ソマ企業の作業者に自分に投票してもらうためにもソマ企業が何度事故を起こしても、罰を与えなかったからです。
AKPの反対の党が忠告してたのに聞こうとしなかったからです。
ソマ炭鉱への監査要求を無視したからです。
セクター(炭鉱業)の賃金が危険性に比べて低すぎることを放置してきたからです
ILO条約にサインせず、安全上、絶対に必要なインフラーを作らなかったからです。
この事故のせいで多くのトルコの人々が泣いているのに、まだ暴力を使って人々を抑圧しているからです
未だに炭鉱の中に何人が残っているか分からない程、原始的で劣ったシステムが炭鉱で使われてきているからです。

こんな国に原発発電所を作ろうとしている日本の安倍首相、もう一度考えてください!
このようなひどい政治的な考え方を持つトルコ政府と日本が、原発のビジネスを始めるなら、結果は安倍さんが想像できないひどいものになると思います。
炭鉱もコントロールできないトルコで、原発は爆弾と変わらないです。

以上

 

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明日に向けて(847)メカニズム不明でも放射能による鼻血は証明できる!・・・『美味しんぼ』応援第三弾!

2014年05月15日 23時30分00秒 | 明日に向けて(801)~(900)

守田です。(20140515 23:30)

『美味しんぼ』応援記事の第三弾です。

今回、問題にしたいのは、初めに社会的な関心を集めた鼻血についてです。被曝によって鼻血が出たという経験については、僕もたびたび耳にしてきています。しかも「これまで経験したことのない鼻血」と語る方が多い。だからこそ、多くの人々が不安を感じてきたわけです。
ところが医師や科学者の多くが、「鼻血は高線量でしか起こらない」と何らの調査も経ずにこれを否定してきました。つまり、低線量被曝で鼻血を出るメカニズムが証明されてないからと、多くの人の被曝によると思われる鼻血を否定してきたのです。
重要なことは、こうした多くの医師や科学者の見解にひっぱられる形で、マスコミの多くも「被曝による鼻血は証明されていない」という立場に与してしまっていることです。
マスコミだけでなく、脱原発を目指す人々の中にも、低線量で鼻血が出るメカニズムが解明されてないからと、鼻血と被曝を結びつけることに慎重になっていることも多くみられます。

しかし、メカニズムが解明されていないので、低線量被曝と鼻血の関係は証明されないというのは、科学的に言ってまったく間違った立場です!
にも関わらずこの非科学的な見解が大手を振るっており、多くのマスコミをも規定している。いわゆる「進歩的」な人士の中にもこの呪縛の中にいる人がたくさんいます。ここに現代の日本の医学や科学の大きな限界が現れているとも言えます。
実はこのように「大多数の医師たちの非科学性」を指摘している僕自身、少し前までこの点がよく分かっていませんでした。放射線の害がメカニズムの解明によってしか科学的には証明できないようにも感じ、市民的立場ではとてもではないけれど設備などなく、実験室的な検証などできないので、何とも悔しい思いを感じてもきました。
僕が取材してきた実感として、低線量放射線による健康被害は間違いなく起こっている。しかも深刻に起こっている。しかしそれを科学的に証明する手立てがない・・・と苦々しく思い続けてきたのです。

そんな僕の目からうろこをボロボロと落としてくれたのが岡山大学の津田敏秀さんでした。津田さんは疫学の専門家ですが、そもそも日本の医学者、科学者の多くが、欧米などでは定着している疫学そのものに無知であり、そのために非科学的な見解が横行していると指摘されています。
このことが日本の中で、水俣病が大きく広まり、たくさんの犠牲者を出してしまったことや、さまざまな薬害が繰り返されてきた根拠でもあると津田さんは鋭く指摘しています。
同じ過ちが、低線量被曝問題でも繰り返されつつある。その結果、「低線量被曝で鼻血が出ることなどありえない」という大合唱が「科学」の名を僭称しつつ、なされてきています。
注目すべきは、実際に「起こったのだ」と叫んでいる人に対して、疫学的な研究に基づいて「起こってなかった」と証明している実践的な調査など一つもないことです。すべて「そんなことはメカニズム的に起こりえないのだ」と「起こった」という人を頭ごなしに踏みつけているだけです。実はそこには科学的証明などない。

どういうことでしょうか。
津田さんは、これまで医学界には病を捉える時に、あるいは何をもって科学的というかという場合に、伝統的に三つの傾向があったと言います。
一つは「直感派」です。医師が長年の経験に基づく「勘」によって病や治療法を判断していくことを支持するものです。もう一つは「メカニズム派」です。動物実験や臨床試験などを通じて、病の発生根拠と症状の因果関係を証明するものです。
そして三つ目が数量化派です。症例や治療例を数多く把握してデータ化し、その中で確率論などを駆使しながら「真実」に近づいていく方法を採るものです。

歴史的には前二者が先に定立し、後から「数量化派」が登場してきた。統計学などができてくることとパラレルにです。ところが当初、「直感派」は「統計は現実の人間を診ずに人間を平均化し、抽象化している」として受け入れなかったのだそうです。
これに対して、より科学的な志向性をもって登場したのが「メカニズム派」でした。代表的な人物は、フランスの生理学者、クロード・ベルナールです。ベルナールはメカニズム決定論(デテルミニスム)を主張した。確実に再現されるメカニズムをつかむことこそ科学であり、確率論は不確定的だと数量化派を退けようとしました。
では現代においてはどうなのか。実はこの三者の論争は海外ではすでに決着がつき、第三の数量的な考え方を採用したものこそが科学であるとされ、「科学的根拠に基づいた医療、Evidence-Based Medicine(EBM)」が叫ばれています。もちろんこのもとに第一のものや第二のものもより生きてくるとされています。
ところが日本の医学界、科学界では、この点の主体的把握が極めて遅れており、未だに第三の数量的な考え方、したがって疫学を踏まえることのない「直感派」や「メカニズム派」が幅を利かせてしまっている。その結果、真に科学的な論議が進まず、水俣病や放射能被害などの「公害」にストップがかからない現実が続いていると津田さんは指摘しています。

もう少し具体的に言いましょう。鼻血が出るメカニズム、これは高線量被曝下では科学的な合意ができているわけです。大量の放射線をあびて造血機能を担う造血幹細胞が損傷を受け、血小板の供給ができなくなるなどして起こってくる。この場合、鼻血だけでなく下血なども同時に起こるとされています。
しかしこれは大量の放射線を浴びたときのことだから、低線量では起こりえないとされているのです。鼻血が出るメカニズムが高線量下のもとでしか解明されていないことが分かりますが、しかしなぜそれが低線量下では鼻血がでないことの根拠になってしまうのでしょうか。
ここがおかしい。このメカニズムの解明はあくまでも高線量で鼻血が出てくることを明らかにしたものです。低線量下で鼻血が出ることの解明にならないことはもちろんですが、しかしそれだけでは実は「出ない」ことの何の証明にもなっていない。
決定的に欠けているのは疫学的な発想なのです。低線量下で鼻血が出るのか出ないのか、それは本来、低線量被曝にさらされた多くの人々を調査し、鼻血の実態をデータ化し、数値化することによってのみ見えてくることなのです。

反対のことも真なりです。低線量下で鼻血が出ているという証明は、疫学的な調査によって、放射能を浴びた地域の人々と、浴びなかった地域の人々を対象比較する調査をすれば見えてきます。それで十分に低線量被曝と鼻血の関係は証明しうる。
大事なことは、鼻血が出るメカニズムの解明はさしあたっては必要はないということです。ここがキモです。まずはデータ的に低線量下で起こっているかどうかを確かめた上で、メカニズムはそれから解明していけばいい。数量化によって、低線量被曝と鼻血の因果関係は十分に証明できるのです。
では実際にそうした研究はないのかと調べてみて、他ならぬ津田さんも関わっているデータ、しかも双葉町のデータがあることが分かりました。以下の論文に記載されています。重要部分を抜書きします。PDF版18ページからです。

***

「水俣学の視点からみた福島原発事故と津波による環境汚染」中地重晴著 大原社会問題研究所雑誌 №661/2013.11
http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/8738/1/661nakachi.pdf

岡山大学大学院環境生命科学研究科の津田敏秀氏,頼藤貴志氏,広島大学医学部の鹿嶋小緒里氏と共同で,双葉町の町民の健康状態を把握するための疫学調査を実施した。
福島県双葉町,宮城県丸森町筆甫地区,滋賀県長浜市木之本町の3か所を調査対象地域とし,事故後1年半が経過した2012年11月に質問票調査を行った。
所属する自治体を一つの曝露指標,質問票で集めた健康状態を結果指標として扱い,木之本町の住民を基準とし,双葉町や丸森町の住民の健康状態を,性・年齢・喫煙・放射性業務従事経験の有無・福島第一原子力発電所での作業経験の有無を調整したうえで,比較検討した。

調査当時の体の具合の悪い所に関しては,様々な症状で双葉町の症状の割合が高くなっていた。
双葉町,丸森町両地区で,多変量解析において木之本町よりも有意に多かったのは,体がだるい,頭痛,めまい,目のかすみ,鼻血,吐き気,疲れやすいなどの症状であり,鼻血に関して両地区とも高いオッズ比を示した(丸森町でオッズ比3.5(95%信頼区間:1.2,10.5),双葉町でオッズ比3.8(95%信頼区間:1.8,8.1))。
2011年3月11日以降発症した病気も双葉町では多く,オッズ比3以上では,肥満,うつ病やその他のこころの病気,パーキンソン病,その他の神経の病気,耳の病気,急性鼻咽頭炎,胃・十二指腸の病気,その他の消化器の病気,その他の皮膚の病気,閉経期又は閉経後障害,貧血などがある。
両地区とも木之本町より多かったのは,その他の消化器系の病気であった。治療中の病気も,糖尿病,目の病気,高血圧症,歯の病気,肩こりなどの病気において双葉町で多かった。更に,神経精神的症状を訴える住民が,木之本町に比べ,丸森町・双葉町において多く見られた。
今回の健康調査による結論は,震災後1年半を経過した2012年11月時点でも様々な症状が双葉町住民では多く,双葉町・丸森町ともに特に多かったのは鼻血であった。特に双葉町では様々な疾患の多発が認められ,治療中の疾患も多く医療的サポートが必要であると思われた。

***

ここにはっきりと、「双葉町・丸森町ともに特に多かったのは鼻血であった。特に双葉町では様々な疾患の多発が認められ,治療中の疾患も多く医療的サポートが必要であると思われた」とあります。疫学的調査によって、低線量下での鼻血やさまざまな健康被害の発症が証明されていたのです。
繰り返しますが、疫学はメカニズムの解明までを求めたものではありません。まずは病が起こっているかどうかを把握すること、それが重要なのです。メカニズムが把握されないと病が認定されないだとしたら、病への対処は決定的に遅れてしまうからですが、事実、福島では対処が圧倒的に遅れています。
そのために大量の人々が、すでにさまざまな病を発症しながらも放置されている。こんなにひどいことがこの国の中でまかりとおっているのです。あんまりです。
『美味しんぼ』はその事実の一端を勇気を持って公表したのであって、その行為は英雄的です。このような提言の中でのみ、隠された、あるいは無視された健康被害に光が当たり、病に苦しむ人々へのケアが始まるのだからです。まさに『美味しんぼ』こそが福島の人々と決然と守ろうとしている!

すべてのマスコミ人、医学者、科学者に問いたい。なぜ多くの人々が「鼻血が出た」「体が異様にだるい」「さまざまな不具合がある」と苦しみの声を発しているのにそれを無視するのでしょうか。
なぜこれらの人々の声を、何らの調査もなしに「誤解」だとか「ウソ」だとか決めつけるのでしょうか。それ自身が重大な人権侵害ではないでしょうか。なぜ「それならば調べよう」という立場に立たないのか。そこが決定的に間違っています。
そもそも放射線が人体を傷つけること自身は世界の常識なわけです。ただしどれぐらいの量でそれが起こるのかははっきりしていない。いやそもそも誰がどこでどれだけの放射能を浴びているのかもはっきりしてないのです。だとしたらあれだけの事故を起こした東電と政府に実態調査をする義務があります。
少なくとも福島全域に、いや、放射能が流れたすべての地域に、鼻血があったかどうかの問診票を配るべきなのです。「身体にだるい感じはないか」と聞くべきなのです。そうした調査をしないことそのものが大きな罪です。

もし「低線量下で鼻血は出ない」というのであれば、ぜひともそれを疫学的に証明して欲しい。それは可能なことなのだから。しかし医学界からそうした声はついぞあがってこなかった。ここに私たちの国の危機の一端があります。
水俣病もそうだったのだと津田さんはいいます。水俣病は水俣湾の魚介類を食べて発生した食中毒だった。原因が魚であることはすぐに判明していたのです。だったらすぐに「魚介類を食べるな」という命令を出せば良かった。そうすれば圧倒的な数の人が水俣病を免れえたのです。
にもかかわらず実際の水俣病対策は、メカニズム論の迷宮にはまってしまった。水俣病を起こしている物質の追及が始まり、なかなか水銀までいきつかなった。その間、魚は食べ続けられてしまったのでした。あまりにもひどい話です。
さらに食中毒なら、水俣湾の魚を食べたすべての人の健康被害が「水俣病」としてカバーされたはずなのに、身体に起こっている被害を水銀が引き起こすメカニズムが分からなければ水俣病は証明されないことにされ、多くの被害者が被害認定すら受けることができなかった。本当にあまりにひどい事件でした。

今、福島で起こっていること、いやこの国の中で起こっていることもそうです。実際にたくさんの人が鼻血を出した。何度も言いますが僕はその話をたくさん聞いています。
いやそれだけではない。先に示した調査の中にも上がっているように、本当にたくさんの健康被害を耳にしています。その多くがチェルノブイリ周辺で起こったことや広島・長崎で起こってきたことと符号しています。
だからこそ、当事者も僕も、被曝の影響を強く疑っているわけですが、そんなこと、メカニズムを解明せずとも、問診による数量化を行えばもっと実態が見えてくるはずなのです。
その中で「どうもこの病は放射能とは関係ないみたいだ」ということだって見えてきて欲しい。それ自身も大きな役に立つのです。それらを含めた大規模調査こそが私たちの国に必要なことです。

そうでないと「メカニズム」が証明されないあらゆる症例がまたも無視されてしまう。そうして多くの人々が原因がよく分からない病に苦しみ、悩みながら、捨てられていくことになってしまう。
そんなことはもう絶対にあってはならない。私たちの社会は、福島原発事故で被曝したすべての人々を救わなければなりません。健康被害を最後までカバーしていく必要があります。だからこそ、どんな被害が起こっているのかからまずは調べてデータ化しなくてはならないのです。

最後に、現代を生きる上での必読書である津田敏秀さんの本を紹介しておきます。
一押しは『医学的根拠とは何か』です。岩波新書から出ています。次に読んでいただきたいのは『医学と仮説』です。岩波科学ライブラリーから出ています。
現代に必須の良書を紡ぎ出してくださった津田敏秀さんと岩波書店への感謝を添えて、今回の記事を閉じます。

 

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明日に向けて(846)除染するほど「住めない」と思う・・・荒木田さんの除染についての問いを考察する!(1)

2014年05月14日 22時30分00秒 | 明日に向けて(801)~(900)

守田です。(20140514 22:30)

『美味しんぼ』応援記事の第二弾です。
表題は、この漫画の今週号の後半に登場している福島大学准教授で、友人の荒木田岳(あらきだたける)さんが、『週刊朝日』(2011年11月4日号)に寄稿した胸を打つ文章のタイトルに触れたものです。
僕はこの文章を、ゲラの段階で直接、荒木田さんに見せてもらいました。2011年10月20日頃のことです。福島大学と京都精華大学の教員有志が立ち上げた「放射能除染・回復プロジェクト」に参加したときのことです。
まずはこの文章をみなさんに読んでいただきたいと思います。福島を思う荒木田さんの優しくも悲しさにあふれた名文です。

***

除染するほど、「住めない」と思う
荒木田岳(あらきだたける)

5月から福島大の同僚や京都精華大などの先生たち、市民の方々と一緒に福島県内の除染に取り組んでいます。最初は、通学路や子どものいる家から作業を始めました。

政府は「除染をすれば住めるようになる」と宣伝していますが、それは実際に除染活動をしたことのない人の、机上の空論です。現場で作業している実感からすれば、除染にかかわるたびに、「こんなところに人が住んでいていいのか」と思います。
原発から約60キロ離れた福島市内ですら、毎時150マイクロシーベルトなんて数字が出るところがあります。信じられますか?今日もその道を子どもたちが通学しているんです。

30マイクロくらいの場所はすぐ見つかります。先日除染した市内の民家では、毎時2マイクロシーベルトを超えていました。つまり、家の中にいるだけで年20ミリシーベルト近くを外部被曝する。これに内部被曝も加味したらどうなるのか。しかもそんな家でも、政府は特定避難推奨地点に指定していません。
そしてどんなに頑張って除染しても、放射線量はなかなか下がりません。下がっても雨が降ったら元の木阿弥(もくあみ)です。一回除染して「はい、きれいになりました」という話じゃないんです。
今、私の妻子は県外に避難していますが、電話するたび子どもたちが「いつ福島に帰れるの」と聞きます。故郷ですからね。でも私には、今の福島市での子育てはとても考えられません。

そんな私が除染にかかわっているのは、「今しかできない作業」があり、それによって50年後、100年後に違いが出てくると思うからです。多くの人が去った後の福島や、原発なき後の地域政策を想像しつつ、淡々と作業をしています。歴史家としての自分がそうさせるのでしょう。
結局、福島の実情は、突き詰めると、元気の出ない、先の見えない話になってしまいます。でもそれが現実です。人々は絶望の中で、今この瞬間も被曝し続けながら暮らしています。こうして見殺しにされ、忘れられようとしているわが町・福島の姿を伝えたいのです。そうすれば、まだこの歴史を変えられるかもしれない。今ならまだ・・・・・。

***

このプロジェクトが立ち上がったのは2011年5月のことでした。まだ政府も、福島県も、除染の「除」の字も言い出してないころです。それどころか小学校の校庭や、通学路でものすごい高い値の放射線値が計測されているのに、それを無視して「安全宣言」を繰り返していた。
子どもたちを、いや福島県内の多くの地域の住民すべてを、ただ日々、被曝するにまかせていて、何らの対処もしていないころのことです。
この惨憺たる状況を前にして、京都精華大学の山田國廣さん、細川弘明さん、福島大学の中里見博さん(当時)、荒木田岳さん、石田葉月さんなどなどが、何はともあれ子どもたちの前から放射性物質を緊急除去しようと動き出した。
動き出しながら、いかにすれば除染は可能なのか、そもそも除染に展望があるのかを考察していくことが、プロジェクトの目的でもありました。

当時、細川さんは次のようにメールで発信を行っています。
「プロジェクトでは、5月と6月の実験をふまえ、市民のための放射能除染マニュアルDVD(+資料)を作成し、多くの方に呼びかけていく予定です。類似の活動・実践を すすめている他の市民グループとの連携もとっていきます。
もちろん、一方で、避難・学童疎開の必要性・緊急性についても、認識をひろめていきたいと考えています。「除染活動をすること」は必ずしも「避難しなくてもなんとかなる」という考え方を前提にしたものではありません。」

荒木田さんの文章にもあるように、当時、福島市内には小学校の通学路脇で、毎時150μシーベルトなどというとんでもない値が出るところがありました。
端的に言って、そのような地点からはただちに避難をした方が良いに決まっているのですが、しかし当時、政府も福島県も、何ら意味のない安全宣言を連発しつつ、人々を避難させずに福島に縛り付けようとしていた。いや今もそうですが、当時は「除染」すらも行っていませんでした。
その状態の中で、自らの力では避難などできようはずもない子どもたちが、とんでもない放射線が飛び交っている中を無防備に登校させられている。だとしたら少しでも子どもたちの周りから放射能を除去するしかない。
同プロジェクトはそんな切羽詰まった動機で走り出しました。

僕自身は当初からこのプロジェクトに注目していましたが、実際に自分が参加できるようになったのは10月のことでした。
初めて参加した時の感想を、僕は幾つかの記事に書いています。以下に紹介しておきます。

明日に向けて(301)福島の現状は厳しい・・・放射能除染・回復プロジェクトに参加して(1)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/c0d94dc74a458f49aedd63cf05269777

明日に向けて(303)屋根の放射能は容易には落ちない!・・・放射能除染・回復プロジェクトに参加して(2)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/731ed06108179654ab6d88c4646aa634

僕はこの中で「全体としての率直な感想は、「放射能はあまりに手ごわい」「除染はかなり厳しい」というものでした。」と書いています。
同時に非常にショックを受けたのは、すでに事故から半年以上が過ぎているのに、多くの地域が除染などまったくされないままに放置されていて、とんでもない放射線値が計測されることでした。
記事の中から一部を引用します。

***

まず僕が驚いたのは、市内のある小学校の現状です。20日早朝に除染プロジェクトを精力的に担っている市内のFさんが福島駅についた僕を車で迎えに来て下さり、市内の御山地区に向かい、いくつか汚染の激しいところに案内してくださりました。
御山地区は、福島駅のすぐ北側にある信夫山をトンネルで抜けたところにあります。ここは全体として汚染レベルが高い。

ちょうど近くにある御山小学校が登校時間にあたっていたので、その様子をみることができました。車から見ていると学校に向かう子ども たちのうち、マスクをしている子どもはざっと2割から3割ぐらい。
し かし一方で、多くの親御さんたちが、子どもを車で学校まで連れてきています。夕方には正門前に、迎えの車で列ができるそうです。放射能への対応が、マスクもつけさせない、マスクをつけて登校させる、 車で送り迎えすると大きく3つに分かれている。

この小学校の敷地に隣接してJR東北本線が走っており、通学路の一部が線路がある土手の脇道に当たるのですが、その斜面にたくさんの雑草が多い茂っています。
「ここは線量が高いですよ」というFさんの言葉に基づいて、車を降りて、僕が持参したガイガーカウンターRADEX1503と他の方のTERRAで計測してみましたが、すぐに5μS/h(毎時5マイクロシーベルト)を越えてしまう。0.5ではなく5です。

このとき使ったTERRAは、RADEXより常に少し高めに計測値が出る傾向があったのですが、こちらではより高いところでは8μS/hを越える値が出ました。両方とも、アラーム音がなりっぱなしになり、すぐにアラームの設定値を高く修正せざるをえなくなりました。
ちなみにそれぞれ茂っている草の上で観測したので、地上から10㎝ぐらいだったり、もっと高い地点で測りました。

僕がすぐに思いだしたのは、世田谷の「ラジウム騒動」です。このとき最初に報告された値は2.8μS/hでした。それで周囲は立ち入り禁止措置が取られ、新聞沙汰にもなった。
僕も「明日に向けて」で取り上げましたが、ここではそれを倍する以上の値が計測されるのに、話題にもならない。ショッキングなことにその横をマスクもしないで多くの子どもたちが通学しているのです。頭がクラクラする気がしました。」

***

僕はベラルーシやドイツ、トルコでもこの御山小学校の周りで撮った写真を紹介し、高線量地帯となった福島市の中で人々がどんな生活を強いられているのかを紹介しました。
「この状態を放置してはならない。福島を救うことに協力して欲しい」という僕の訴えに、どこでも人々が非常に強い拍手で応えてくれましたが、ともあれ、同プロジェクトはこうした矛盾を座視しえず、除染の可能性をも探りながらのチャレンジに打って出たのでした。
荒木田さんは当初より参加されましたが、10月までの実践は、ただただ厳しさを実感するばかりでした。それで『週刊朝日』にあの文章を書いた。

『スピリッツ』今号でも彼はこう述べています。

***

「私は除染作業を何度もしました。その度に、のどが痛くなるなど具合が悪くなり、終わると寝込む。」
「しかも除染をしても汚染は取れない。みんなで子供の通学路の除染をして、これで子供たちを呼び戻せるぞ、などと盛り上がっても、そのあとに測ったら毎時12マイクロシーベルトだったこともある。汚染物質が山などから流れ込んで来て、すぐに数値が戻るんです。」
「除染作業をしてみて初めてわかったんです。除染作業がこんなに危ないということを。そして、福島はもう住めない、安全には暮らせないということも。」

「私の買った土地は今でも毎時1.5マイクロシーベルトありますし・・・すぐ下の河原は1キログラム当たり43万ベクレルでした。愛着があっても自分の身体を蝕むかもしれないところで住むのか。その土地が汚染されてしまっている現実を直視するかどうかですね。」
「除染に意味があるとすれば・・・たとえば阿賀野川を除染して日本海に広がるのを阻止するなど、汚染を広げない作業です。」
「福島を広域に除染して人が住めるようにするなんて、できないと私は思います。」

***

実際、同プロジェクトは5月に通学路脇で150μシーベルトが計測された地点(上述の御山小学校のそばの山田電機の駐車場)の側溝の泥をすくい、雑草を刈り取るなど、本当に緊急の除染を行ったのですが、僕が10月に尋ねてみると実は参加者のほとんどがその直後に体調不良を起こしていました。
中には原因不明の全身の筋肉痛に見舞われ、入院された方もいます。当時は破傷風なども疑って精密検査をされたそうですが、明確な苦痛はあるのに、何らの異常も見つけられなれなかったといいます。

今ここで強調したいのは、『美味しんぼ』を口をきわめて罵倒している福島県は、こうした現実を前に何の対処も行っていなかったという事実です。
いや何もしないどころか、繰り返し安全宣言を行っていた。そして広報に「放射能の害よりも、放射能に神経質になることでの精神的な害の方が大きい」などという政府寄りの「科学者」のコメントを載せ、福島県外へ避難した母子のもとに送りつけることまでしていました。

これに対して荒木田さんやお仲間たちは、本当に必死になって、福島の人々の安全を守ろうとしていた。守ろうとして、除染実験も行って、その末に、絞り出すように「福島を広域に除染して人が住めるようにするなんて、できないと私は思います」と語っているのです。
もちろんそう言えばバッシングにあうことなど招致の上だし、これまでも荒木田さんは数々のバッシングを跳ね除けて発話してきました。僕はそんな荒木田さんの、福島を思う深い優しさに心を打たれるのです。

続く

 


 

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明日に向けて(845)『美味しんぼ』素晴らしい!雁屋哲さん頑張れ!勇気ある発言を守り発展させよう!

2014年05月13日 21時30分00秒 | 明日に向けて(801)~(900)

守田です。(20140513 21:30)

日本の食を深く究めてきた雁屋哲さんの漫画、『美味しんぼ』が、福島原発事故の真実の一端をきわめて的確に報じてくれました。
原発事故で多くの人が鼻血を出した事実、さらに高度な汚染にさらされた福島が、人が住むのは困難な地帯になっていること、除染も効果があがらず、とてもではないけれども安全に住むことはできないことなどです。
大拍手です!これでこそ食べること=私たちの生命に一番密着したことを本気になって追いかけてきたこの作品の本領発揮です!

中でも秀逸なのは、原発事故被災者の当事者として、自ら鼻血を出したり、脱毛を味わうなどしながら、一貫して住民の安全のために政府批判を貫き行動してきた井戸川元双葉町長の訴えを、明快に掲載してくださったことです。
さらに早くから内部被曝の危険性を先頭に立って暴き、放射線防護活動を担ってきた松井英介医師のコメントや、一貫して福島全体の除染などとても無理だと主張してきた荒木田岳福島大学准教授の発言も丁寧に載せてくださっています。
先週発売された23号では、福島を取材に訪れた主人公らが鼻血を出すシーンが描かれましたが、本日発売された24号ではもっとつっこんだコメントが掲載されました。内容を少し紹介したいと思います。

まず井戸川さんはこう述べています。「私が思うに、福島に鼻血が出たり、ひどい疲労感で苦しむ人が大勢いるのは、被ばくしたからですよ」
続いて松井さんがこう説明しています。「大阪で、受け入れたガレキを処理する焼却場の近くに住む住民1000人ほどを対象に、お母さんたちが調査したところ、放射線だけの影響とは断定できませんが、眼や呼吸器系の症状が出ています。鼻血、眼、のどや皮膚などに不快な症状を訴える人が約800人もあったのです。」
「鼻の粘膜や毛細血管細胞の70~80パーセントは水でできています。水の分子(H₂O)は放射線で切断されて水酸基(・OH)のような毒性の強いラジカルと呼ばれるものになる。しかもラジカルがくっついて分子に戻ったとき、今度はオキシフルとして消毒薬に使われるくらい毒性の強い過酸化水素分子(H₂O₂)になることがある。
このように放射線は直接粘膜や毛細血管の細胞・DNAを傷つけますが、同時に水の分子が切断されて細胞の中にできる、ラジカルによる間接作用が大きいのです。まだ医学界に異論はありますが、鼻血や強い疲労感などに、その影響は十分考えられます。」

この松井さんの確かな説明を受けて、井戸川さんは再びこう語っています。
「だから私は前町長として双葉町の町民に福島県内には住むなと言っているんです。今までの対応から東電と国の言うことを信じてはいけないと思うからです。
今度の事故まで東電は原発は絶対安全だと私たちに信じ込ませていた。事故の起こった3月11日の15時36分には原発は電源喪失して冷却もできないことがわかった。そうなれば次にどうなるか誰にでもわかる。しかし国が避難指示を出したのは12日の朝5時44分です。」
「避難指示は出たけれど避難場所は用意されていない。避難道路も作られていないから道が混雑して逃げられない。そのうちに12日の午後3時36分頃1号機が爆発した。
しかし、それ以前の2時半頃、東電は圧力容器内の蒸気を抜くためのベント作業を行い、その際に大量の放射性物質を放出した。それで爆発以前に双葉町では毎時1590マイクロシーベルトを計測しているんです。そうとは知らず避難最中われわれはその放射線を浴び続けてたんです。」

「私は政府の事故対策会議にも、福島県の会議にも呼ばれたことがありません。それなのに、汚染土壌を貯蔵する放射性廃棄物の中間貯蔵施設を双葉郡に作ると国と福島県が言う。私はその福島県と双葉郡の会議に出席しなかった。それを町議会でとがめられて不信任決議を受けたので辞任しました。」
「私はとにかく今の福島に住んではいけないと言いたい。どんな獣でも鳥でも自分の子供を守るために全力を尽くす。どうして人間にできないんですか。子供の命が大事でしょう。」

さらに場面が変わって、主人公たちは「福島に住んではいけないというもう一方」に会いにいきます。福島大学行政政策学類准教授の荒木田岳さんです。荒木田さんはこう述べています。
「福島がもう取り返しのつかないまでに汚染された、と私は判断しています。問題の出発点として、この現実を認めるかどうかで対応が違ってきます。」
「私は除染作業を何度もしました。その度に、のどが痛くなるなど具合が悪くなり、終わると寝込む。」
「しかも除染をしても汚染は取れない。みんなで子供の通学路の除染をして、これで子供たちを呼び戻せるぞ、などと盛り上がっても、そのあとに測ったら毎時12マイクロシーベルトだったこともある。汚染物質が山などから流れ込んで来て、すぐに数値が戻るんです。」
「除染作業をしてみて初めてわかったんです。除染作業がこんなに危ないということを。そして、福島はもう住めない、安全には暮らせないということも。」

「私の買った土地は今でも毎時1.5マイクロシーベルトありますし・・・すぐ下の河原は1キログラム当たり43万ベクレルでした。愛着があっても自分の身体を蝕むかもしれないところで住むのか。その土地が汚染されてしまっている現実を直視するかどうかですね。」
「除染に意味があるとすれば・・・たとえば阿賀野川を除染して日本海に広がるのを阻止するなど、汚染を広げない作業です。」
「福島を広域に除染して人が住めるようにするなんて、できないと私は思います。」

まったくその通り。井戸川さんの言っていることも、荒木田さんが述べていることも、僕はまったく正しいし、勇気ある正義の発言だと思います。松井さんは医師としてそれを力強く補強してくださっている。
もちろん3人ともこのことを初めて述べられたのではありません。これまでも堂々と実名で、たくさんのバッシングをはねのけながら発言し続けています。その結果、たくさんの方の支持も集めてきています。
今回はそれを雁屋哲さんが取り上げてくださり、一気に社会的な論議にまでこの話題が高まりました。

みなさん。私たちは今こそこの勇気ある真実の声を守り、発展させる必要があります!
僕もこれまで繰り返し鼻血を出した体験者の方のお話を聞いてきました。いや鼻血は序の口に過ぎない。もっとたくさんの健康被害を耳にしています。
にもかかわらず、政府はこうした調査をまったく行わなかった。本当にそれが放射能のせいではないというのなら、実態調査を行い、データを示せばすむことであるにもかかわらずです。
こうした調査は、事故によって多大な不安をも社会的に作り出してきた政府が当然果たすべき責任でもありました。しかし政府は、実際には放射能による被害が広がることを知っていたから、そうした調査をしてこなかったのです。

政府が行ってきたのは、当初から事実をもみ消すことばかりです。そのことは井戸川さんがはっきりと指摘しています。
そもそも事故直後などは、膨大な放射能が出ているのに、それを周辺住民に教えもしなかった。そのためにあたらたくさんの方たちがしなくてよい被曝をしてしまったのです。
福島県もまったく同じ態度をとりました。それどころか福島県は、唯一、放射性ヨウ素の到来を前に安定ヨウ素剤の配布を行った三春町に「配布を止めよ」という強権的な命令まで発していました。
今、その政府と福島県が、『美味しんぼ』に罵声を浴びせていますが、「盗人猛々しい」とはこのことです。あるいは自らが人々を大量被曝させた後ろめたさがあるからこそ、真実を告げる人々を口を極めてバッシングしているのでしょう。

現実に広がっている健康被害は、鼻血だけではありません。視力が低下したり、記憶力が落ちたり、そればかりか心臓の病による突然死も増えています。これは福島市の大原総合病院が一時期データとして示したことです。
それだけではない。そもそも原発関連死によって2013年3月31日までで1300人以上の人々が亡くなっているのです。にもかかわらずこの原発事故による死についても政府はきちんと扱ってきていません。
事故がなければ亡くなることのなかった1300人以上の死の責任者の追及もまったくなされていないのです。あのひどいフェリー事故のあった韓国社会で、首相が辞任し、大統領が弾劾されていることと雲泥の差です。

こうした中で、今回、『美味しんぼ』は、封殺されようとしている健康被害を、断固として明らかにしてくれました。
国と福島県が強行してきた、まやかしの「除染」の矛盾も明快に示してくれています。このことにこそ、福島の人々、いや日本に住まう人々の命を真に守っていく明快な方向性があります。
だからこそこの声をみんなで守っていく必要があります。守るだけでは足りない。発展させなければいけない。

とくに私たちは今こそ、原発事故で最低でも1300人以上を死においやった政府と東電の責任を追及していく必要があります。
責めるべきは私たち民衆の側です。守るだけではいけない。責任者を追及しなくてはならない。その中で避難の権利を拡大し、被曝医療の充実化をはからなければなりません。
だからこそ、この論争にそれぞれの地域で、職場で、生活圏で、参加してください!自分の知っている真実を語り、『美味しんぼ』を応援し、雁屋さん、井戸川さん、荒木田さん、松井さんと肩を並べて、真実を響きわたらせようではありませんか!
今こそ、頑張り時です!私たち一人一人が未来のために奮闘すべき時です!


 

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明日に向けて(844)ベラルーシ・ドイツ・トルコを訪れて(4)・・・奈良測定所講演録から

2014年05月12日 21時00分00秒 | 明日に向けて(801)~(900)

守田です。(20140512 21:00)

奈良市民放射能測定所の開設1周年記念企画でお話した内容の起こしの11回目です。今回はベラルーシ訪問に関するまとめです。
ドイツの方たちが作りだしてくださった国境を越えた交流への情熱とその意義について論じました。今回は事前コメントをつけずに掲載します。

なおこの講演録は、奈良市民放射能測定所のブログにも掲載されています。前半後半10回ずつ分割し、読みやすく工夫して一括掲載してくださっています。
作業をしてくださった方の適切で温かいコメント載っています。ぜひこちらもご覧下さい。

守田敏也さん帰国後初講演録(奈良市民放射能測定所ブログより)
http://naracrms.wordpress.com/2014/04/08/%e3%81%8a%e5%be%85%e3%81%9f%e3%81%9b%e3%81%97%e3%81%be%e3%81%97%e3%81%9f%ef%bc%81%e5%ae%88%e7%94%b0%e6%95%8f%e4%b9%9f%e3%81%95%e3%82%93%e5%b8%b0%e5%9b%bd%e5%be%8c%e5%88%9d%e8%ac%9b%e6%bc%94%e3%81%ae/

*****

「原発事故から3年  広がる放射能被害と市民測定所の役割  チェルノブイリとフクシマをむすんで」
(奈良市民放射能測定所講演録 2014年3月30日―その11)


Ⅲ ベラルーシ・ドイツ・トルコを訪れて(4)

【国境を越えた交流への情熱】
今回、ドイツで行われたドイツとベラルーシと日本の医師を集めた「国際医師協議会」も、ドイツの方たちのチェルノブイリの被災者を支えたいという熱い思いに支えられた歴史的な経緯の中で立ち上げられたのだと思います。
僕はずっとなぜこのような企画が立ち上がったのか考えていたのですけれども、もともとドイツの医師たちがベラルーシの医師たちをどんどん他の国々に連れ出し、さまざまな医師や科学者、人士との交流を促すことを行ってきた蓄積があって、それを促進する位置があったのだと思います。
要するに、ベラルーシの医師たちも本当は事実を知っているのです。ベラルーシで起こっている多くの病が、チェルノブイリ原発事故の被害だということをです。しかしベラルーシの中では、そうしたことはなかなか言えないのですよ。言ったら国立機関の中では働いていくことは難しいのだと思うのですね。

だけれど、そのような医師たちがドイツに「国際医師協議会」ということでやってきて、いろいろな見解を語っている人士と交流できる。このことがとても大きいのだと思います。
なぜならベラルーシの医師たちは、現実にはもっともたくさんの被害者に接しているからです。また病の原因が何であれ、それを治すために尽力している。その医師たちを支えることは被災者を支えることであり、被害の根拠を探ることとは別に、やり続けなければならないこととしてあります。
そのために、シーデントップさんなど、もう20年以上も地道にベラルーシの医師たちと連帯をして、支援を続けてきた。人道援助としてしっかりやってきているので、ベラルーシ政府も拒否できないし、しないのです。そのつながりを通じて、ベラルーシの国立機関の医師たちをドイツに連れてくる。「低線量被曝は非常に危険だ」という見解が、わあわあと飛び交っている場にです。もちろん発表会も一緒に行う。

ベラルーシの医師たちは、ここでも内部被曝のことはほとんど言いません。危ないのは、あるいは影響があるのは外部被曝だと言います。発表内容は明らかに他の医師たちと意見が食い違ってはいるのだけれども、そういう形で、一緒になって放射線障害の問題を話し合って交流する中に、国境を超えた、放射線障害との闘いの共同戦線みたいなものが作られてきているのだと思うのです。
今回の企画はドイツの人たちが中心になって作り上げてくれたのですけれども、僕はそうしたことをとてもありがたいと思いましたね。しかもそこに日本の僕らを呼んでくれたのです。
世界から見ると、日本だってベラルーシとそれほど変わりがあるわけではない。放射能の危険性は低いなどと言っている「科学者」の方が圧倒的に多い。そういう国である私たち日本から、志のある医師や人士を招いて、いろいろな人々との交流の場を設けてくれたのでしょう。

【「チェルノブイリ、そしてフクシマ」というキイワード  ~痛みを吸収しようとすること~】
だからある意味、「チェルノブイリ」と「フクシマ」という言葉は、この混沌とした世界を変えていくための、ひとつのキイワードに転換しつつあるということを感じました。
僕もこの協議会で発言させてもらったのですが、どういうことが「受ける」かというと、福島の人々の生活が、今、どうなっているのかということでした。さらにもっと受けたのは、日本の民衆が、この理不尽な事態をただ黙って見ているだけではなくて、さまざまな抵抗運動を起こしつつあるということでした。そのことを発表すると、強い共感を持って迎えてくれました。
ヨーロッパからは日本の民衆の活動的な姿がなかなか見えないのですよ。民衆サイドにたったマスコミがないので、アクティブな姿はなかなか伝わらない。それは相互に言えることでもありますが、そのため、「日本人はおとなしくて、慎ましくて、理不尽なことがあっても押し黙って耐えているのではないか」と思われています。

ドイツのヘアフォートというところに行ったとき、ドイツの女性が怒りながら「日本人はなぜあんなにひどい放射能のあるところで文句も言わずに黙って働いてるんだ」と言うのですね。直接には福島原発サイトのことをさしていたのですが、そういう時は「いや、理不尽な現状に対して、あちこちで文句を言っている。押し黙っているだけではない。たくさんの抗議行動を行っている」とお答えします。
また「あんな秘密保護法みたいなひどい法律を通されて、なんでデモの一つも起こさないんだ」ということに対して、「いやいや、たくさんのデモを起こしている」と語って、そういう写真を見せると「あっ、そうなのか、日本の民衆は黙っていたのではないのか。これほど抗議を行って、アクティブに活動しているんだ。ああ良かった」となるのです。シンプルです。そういう点での感じ方は、どこの国の人でも大して変わらないというか。

今、僕はずっとベラルーシのことを話しました。そのことの中からみなさんと共有したいことがあります。
ドイツの人々が素晴らしいと思ったのは、ベラルーシの人々が被ったきた痛みを自らのものとして考える中から、世界を捉えようとしていることです。痛みを通して、自分たちも担わなければいけない共通課題を見出している。
そういう観点から「チェルノブイリ、そしてフクシマ」というキーワードを自分の課題としてとらえ、私たち日本人、あるいは日本に住まう人々の痛みを吸収しようとしてくれているのです。

その中で紡ぎ出されてきた国際的なつながりの中に僕は参加させていただくことができた。後から考えてみたら、あのような、ベラルーシという難しい国の国立機関の中を案内してもらうことなど、なかなか簡単に得られる経験ではないですよね。あれはドイツの人たちが20年間かかってコツコツと作りあげてきた信頼関係の上に成り立った、貴重な機会だったのです。
僕はゴメリでの晩餐会の時に調子に乗って、英語で「みなさん、平和のために断固として一緒に闘いましょう!」みたいなことを言ったのです。そうしたら後からドイツの方に「守田さんはすごく活動的で素敵だと思うのだけれど、ちょっと言い過ぎのところもあるわよね」と言われました。つまり「彼ら彼女らは国家機関の中枢に抑えられてる医師たちなので、その立場をもっと分かってあげてね」というのです。恥ずかしかったです。
ドイツの方たちはさまざまな矛盾も踏まえてベラルーシに通いながら、国の体制がどうであろうとも、チェルノブイリの事故で苦しんでいる人々を救おうとしています。救うのは侵略を行ったドイツ人の責務なのだ。自分たちはそれをやらずにはおかないのだというような思いを強く感じました。僕が見た限りでは、ヨーロッパの中でドイツが一番、チェルノブイリの問題で動いているのではないかと思うのですが、その根拠がここにあることを感じました。

それで僕はドイツの方と、次のような話をしました。
「あなたたちがゴメリに行って、顔が硬直して、心に痛みを感じている姿を見たときに、僕は深く感動しました。僕はそのことで、日本軍の中国やアジア各地への侵略のことを思い出しました。日本人とドイツ人は同じ痛みを持ってると僕は思います。同時に、ドイツも日本もものすごく酷い空襲をされたわけですよね。だから戦争の酷さを両面から知っている点でも共通しています」と。
実は、僕の母は東京大空襲のサバイバーなのです。父は広島原爆のサバイバーです。このことはベラルーシでもドイツでも何度も話したのですが、その意味で僕は、東京大空襲と、広島原爆の狭間から生まれてきた子どもであるわけです。
僕は「そういうドイツ人と 日本人こそが、正義の戦争なんかないということを一番知っています。だから一緒になってこの世から戦争をなくすために一緒に努力していきたいです」と語りましたが、向こうの方たちもとても深く共感してくれて、気持ちを分かってくれました。深いところでつながることができたと思うのですが、みなさんにもぜひこういう点を共有していただけたらと思うのです。

「チェルノブイリとフクシマ」は、世界の人々の間に共通に記憶された非常に大きな事故であり事件です。この悲劇を通じて、世界の方向を変えようという共通の意志が生まれてきている。核のない世の中はもちろんですが、ごく一部の金持ちが私有財産をどんどんかすめ取っていく世の中ではなくて、もっと良い方向に変えていこうという思いもそこには懐胎しています。
ただし、具体的にどういう方向に進めばいいかグランドプランはなかなか見えてこない。だとしたら今、自分ができることをしよう。そのためには、チェルノブイリの子どもを一人でも救おうと、そのような切々たる思いで行っていることが、今回の企画の底流にあったことで、そこに触れることができたことが、僕にはとても大きなことでした。

続く

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明日に向けて(843)ベラルーシ・ドイツ・トルコを訪れて(3)・・・奈良測定所講演録から

2014年05月11日 06時30分00秒 | 明日に向けて(801)~(900)

守田です。(20140511 06:30)

間が空いてしまいましたが、3月30日に奈良市民放射能測定所の開設1周年記念企画でお話した内容の起こしの10回目です。今回はベラルーシ訪問の続きです。

なお本日は二つの講演会に出席します。午前10時からの「桃山保健協議会講演会」と、午後1時からの「ドイツ国際会議報告講演会」です。
前者では放射能から子どもたちをいかに守るのかをお話します。京都市伏見区・桃山会館(京阪電車丹波橋駅近く)にてです。
後者ではこの連載の内容にも触れます。ベラルーシ・ドイツ訪問を30分、トルコ訪問を30分の割合で話します。ハートピア京都(地下鉄丸太町駅直近)にてです。

さて、今回は初めてのベラルーシ・ミンスクへの訪問に続いて、チェルノブイリ原発直近の町、ゴメリへの訪問について述べますが、この過程で知ったこれらの地域の歴史について触れたいと思います。
中でも大変重要であり、僕自身、強いインパクトを受けたのは、ベラルーシとウクライナがナチスドイツの旧ソ連邦への大規模な侵攻作戦の主戦場であったことです。
ナチスは多くの地域を数年にわたって占領しました。これに対してソ連赤軍は猛烈な反撃を行いました。激しい攻防が行われ、最後にナチスは占領地の大くに火を放って撤退しました。
つい先日、知ったことですが、ベラルーシの現在の首都、ミンスクの攻防戦では、ソ連赤軍の中に編成された「グルド特別連隊」が、大きな貢献を果たしたとされているそうです。
この点は、今回の講演ではまったく触れることができていないのですが、クルド人問題も、この地域における、あるいは現代社会における非常に大きな政治的、人間的課題です。

また今回、僕が理解できた非常に大きなことは、こうした過去のナチスの侵攻に対して、心を痛めてきたドイツの人々の中から、チェルノブイリの被災者への持続的で献身的な援助がなされてきた事実です。
この点を多くの方と共有したいと思います。私たちは歴史の痛み、そしてそれを越えようとしてきた人々の努力を共有することの中から、明日に向けての何かをつかむことができると思うからです。
まだ十分な答えに到達できているとは言えないのですが、国境を越えて人々ともっと積極的に交わり、互の歴史を交換し合い、その痛みにも喜びにも共感しあって思いを重ね合わせる中で、一緒に平和で豊かな世の中、放射線障害を克服できる社会を築けるはずだと僕は確信しています。
そのための一助に僕の拙い旅の経験がなればと思いつつ、以下、続編をお送りします。

なおこの講演録は、奈良市民放射能測定所のブログにも掲載されています。前半後半10回ずつ分割し、読みやすく工夫して一括掲載してくださっています。
作業をしてくださった方の適切で温かいコメント載っています。ぜひこちらもご覧下さい。

守田敏也さん帰国後初講演録(奈良市民放射能測定所ブログより)
http://naracrms.wordpress.com/2014/04/08/%e3%81%8a%e5%be%85%e3%81%9f%e3%81%9b%e3%81%97%e3%81%be%e3%81%97%e3%81%9f%ef%bc%81%e5%ae%88%e7%94%b0%e6%95%8f%e4%b9%9f%e3%81%95%e3%82%93%e5%b8%b0%e5%9b%bd%e5%be%8c%e5%88%9d%e8%ac%9b%e6%bc%94%e3%81%ae/

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「原発事故から3年  広がる放射能被害と市民測定所の役割  チェルノブイリとフクシマをむすんで」
(奈良市民放射能測定所講演録 2014年3月30日―その10)

Ⅲ ベラルーシ・ドイツ・トルコを訪れて(3)

【苦しみの歴史の中にいるベラルーシ】
ベラルーシの首都、ミンスクの病院などを訪れた翌日に、南のゴメリ市に行くことになりました。ゴメリはチェルノブイリ原発とウクライナとの国境線のすぐ北の街で、原発事故で最も激しく汚染されたところです。ミンスクからバスで4時間の旅でした。
車内でドイツからベラルーシに足しげく通ってきた、核戦争防止国際医師会議(IPPNW)ドイツ支部の、ドローテ・シーデンドップさんが、ベラルーシの国についての解説をしてくださったのですが、その中にショッキングなお話がありました。
実はベラルーシは、ナチスドイツがソ連に攻め込んでいったときの一番の主戦場になったところなのだそうです。

ナチスドイツは1941年の6月に独ソ不可侵条約を破ってソ連に攻め込みました。「バルバロッサ作戦」というのですけれども、北方軍と中央軍と南方軍とに分かれて進撃したのです。
北方軍はレニングラードを目指し、ポーランドから入って今のバルト三国あたりを通過して当時のレニングラードを目指しました。
一番、勢力が大きかったのは中央軍で、ベラルーシを通過し、東側にある首都のモスクワを攻略しようとした。さらに南方軍が行ったのが当時のソ連の穀倉地帯であったウクライナの占領だったのです。数年にわたる占領が行われました。

それに対して一番激しい抵抗をしたのがキエフの街だったそうです。今のウクライナの首都ですね。キエフの攻防戦やミンスクの攻防戦は激しかった。ヒトラーは途中でキエフを落とすために中央軍の力をキエフに持っていきました。
それで占領が実現したのですが、ここで部隊がキエフに釘付けになっている間に侵攻軍全体が冬将軍にも襲われて、結局はモスクワまで行けなかったのです。
だからモスクワの盾になる形で、ベラルーシとウクライナはナチスにめちゃめちゃにされたのです。僕はその事情を知らずにベラルーシを訪問したので驚きました。知らなかったことを申し訳なく思いました。

この地域ではロシア赤軍の兵士もすごくたくさん死んでいますが、ドイツ軍は占領した地域で徹底して略奪を行ったし、さらに撤退するときには焦土作戦といって、地域一帯を全部燃やしてしまった。ゴメリもほとんど建物が残らなかったそうです。
そのゴメリが後年、チェルノブイリ原発事故で膨大な放射能を浴びたわけですが、事故当時は舗装された道路がなく、巻き上げられる土や埃とともに放射能が移動していったそうです。そこで旧ソ連政府が道路の舗化工事を行った。
この危険な仕事に、リクビダートルだった人々や地域の人々がたくさん動員されたそうですが、工事で道路を掘り返すといくらでもナチスのヘルメットだとか人骨とかが出てきたそうです。そのような痛ましい歴史を持っているのがゴメリでありミンスクなのです。

本当にショックを受けました。それだけひどいナチスの侵略でモスクワの盾になり、ボロボロになってしまった。そこから戦後40年、1986年までやっとのことでもう一度復興して、自然に囲まれた豊かな町々を取り戻したベラルーシとウクライナが、チェルノブイリ原発事故で最も汚染されてしまったのです。
両国の汚染比率は、だいたい7対3くらいで、ベラルーシの方が被害がひどい。しかしウクライナも相当ひどくやられている。
そうやってチェルノブイリ原発事故でめちゃめちゃに傷ついて、その後に社会主義ソ連邦の崩壊で、ものすごい混沌の中に落とされてしまった。今も公共財産のもぎ取り合戦の最中です。もう連続的に、次から次へと、ベラルーシとウクライナは、苦しみ続けてきたのだということが分かりました。

今、ウクライナではロシアを離れて、EUの側につこうとする人々が、腐敗していた前政権を倒し、新しい政権を打ち立てました。それに対してロシアがそれを許さないという形でクリミアを併合しようとしている状態にあります。
もちろん僕はロシア軍の行ったことは絶対に間違いで、クリミアを自由にすべきだとは思いますが、ウクライナの住民の中に、ロシアを支持する人々がいるのも事実です。
またウクライナの現政権を支持する人々の中には、極端な右翼排外主義の人々もいるようです。

それらを考えると悪いのはロシアだけだとは言えません。今、世界の中で起こっていることは、どこの国が悪いとかいうことよりも、一部の大金持ちたちがあらゆる公共財を privatization の名のもとにどんどん私有化して、社会を歪めていることだと思います。それが社会矛盾を強め、人々の対立を作り出してもいる。
ご存知のようにベラルーシとウクライナは、原発事故以降、人口が減っている状態にあります。間違いなく放射能の被害があるのです。しかしそれとだけ向き合っていられない状況に二つの国が置かれているのだということがとてもよく見えました。


【ドイツの人々とウクライナ・ベラルーシを訪ねた意味   ―西ドイツと東ドイツ】
ではなぜそのような状態の国を訪ねたのか。そのことを僕はドイツの方たちといろいろと話しました。ベラルーシにドイツの方たちと一緒にいったことが非常に感慨深かった。特に旧西ドイツ出身の人々はナチズムに対する心の底からの反省の気持ちを持っている。
ドイツと言ってももともとは一つではなかったのです。いや1945年までは一つでしたが、その後、東西に分断されてしまった。1989年に「ベルリンの壁」が崩壊して再統合しているわけです。つまり旧西ドイツの人たちと旧東ドイツの人たちがいるのですよ。
その間には明確に違いがあります。何が違うのかというと、東ドイツの人たちは、例えばドイツ放射線防護協会会長のセバスチャン・プフルークバイルさんが典型なのですけれども、科学者になるためにはロシア語が話せないといけなかったのです。博士論文はロシア語で書いていた。だから旧東ドイツのインテリはロシア語の読み書きができるのです。

旧西ドイツの側はどうかというと、当然にも英語の読み書きができる。だいたい大学まで行っていれば、かなりの英語力があります。
この地域ではナチズムの侵略に対する反省を社会全体で随分と深めてきました。なので、ナチスが占領し、蹂躙した場に行くことに対して、旧西ドイツ出身の医師たちは、すごく痛みを持っていた。何とも言えない表情でその場に臨んでいました。
その中に、アンゲリカ・クラウセンさんという非常に仲良くなった女性がいます。彼女も旧西ドイツの出身なのですが、ゴメリで受け入れた病院側が、ずいぶん豪勢な晩餐会を開いてくれて、このとき多くの方がスピーチしたのですけれど、彼女はこんな風に言いました。

「私はかつてポーランドのアウシュビッツに行ったときに、にわかに英語がしゃべれなくなりました。今回もここに来て、またショックで英語がしゃべれなくなるかと心配でしたけれども、今お話ができてます」・・・。
アンゲリカさんのこのお話からも、ドイツの人々がかつて犯した罪に対して、それをいかに償うのかという観点を本当に真剣に深めてきており、そこからチェルノブイリの被災者への支援が行われてきていることが垣間見えました。
実際、旧西ドイツの頃から、ドイツやオーストリアは、凄くたくさんのお金を出しているのだそうです。ミンスクでの小児白血病に対する病院の豊かなシステムが成立しているのも、そういう海外からの支援がたくさん入っていることによっています。

では旧東ドイツはどうだったのかというと、ナチズムに対しては被害者の人たち、共産主義者などが政府を作ったので、ナチズムに対して旧西ドイツほどの深い反省はなされたなかったようで、この点はむしろ東西統一後に深められてきているようです。
そのためベルリンの旧東ドイツ地区に、大きなホロコースト記念館があるのですが、わりと新しく建設されています。おさらく旧東ドイツは、互いに被害者であったという意識の方が強かったのだと思うのですね。ベラルーシなど、ナチスに蹂躙された人たちに対して、一緒に戦ったという感覚があって、もともと強いシンパシーがあった。
また旧東ドイツのインテリ層が、ロシア語が話せるということがすごく大きな位置を持っています。言葉が通じるから当然、意志の疎通もしやすい。そのため東西統一後のドイツは、旧東ドイツの人々を通じて、ロシア、ベラルーシ、ウクライナの人々と結びつくことができたのだと思います。言葉が通じることは本当に大きいことです。

ちなみにドイツ人とロシア人の交流では、ドイツ語とロシア語が主になるのですよ。そこに旧西ドイツ系の人々や他の地域の人々が入ってくると、共通語は英語になる。こういうときの英語は通じやすいです。誰もがネイティブではないから。互いにゆっくり話すし、相手が理解しているかどうかを確かめながら話し合う。発音がお国柄によって違ったりするのですが、それでも十分に通じます。
先ほどの晩餐会で使われた言語は英語、ドイツ語、ロシア語、日本語でした。語学が達者な医学者や科学者が多い場で、英語が一番通じやすい。でもドイツ語とロシア語もかなりの人が理解できる様子でした。もちろん一番通じにくいのが日本語です。
ともあれドイツが長く分裂していて東西に分かれていて、それぞれ東側、西側に窓が開けていたこと、そのドイツが一つに融合する中で、大きくチェルノブイリの人々と、ヨーロッパを結びつける流れができたのだと思いました。その意味でも、ドイツはチェルノブイリ被災者支援の大きな拠点なのだと思えます。

続く

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明日に向けて(842)『るろうに剣心』から平和を考える!

2014年05月08日 07時00分00秒 | 明日に向けて(801)~(900)

守田です。(20140508 07:00)

この記事を投稿するのは5月8日の予定ですが、書いている今はゴールデンウィークの最後の日、手術からの回復期間の最後の一時です。
『るろうに剣心』・・・みなさん、ご存知でしょうか。もう20年以上も前に「週刊少年ジャンプ」に連載された漫画です。正確には和月伸宏さんが描いた『るろうに剣心―明治剣客浪漫譚』です。
その実写版の映画が2012年に公開されました。サイトをご紹介しておきます。

THE JOURNEY BEGINS・・・『るろうに剣心』
http://wwws.warnerbros.co.jp/rurouni-kenshin/1/index.html

実は映画のデータを調べていて、今、続編が撮影中であり、本年の8月1日、9月13日に二部作連続公開が予定されていることを知りました。そのサイトがこれです。
http://wwws.warnerbros.co.jp/rurouni-kenshin/index.html?oro=mile

なぜ今、この作品のことを扱うのか。単純ですがとても感動したからです。何に感動したのかと言うと、殺人―暴力に関する考察が深い。もっと言えば暴力を越えていこうとする志向性に満ちている。
実はこの映画を観たのは、ドイツからの帰国の飛行機の中でした。あのとき僕は体が衰弱しきっていて、そもそも長時間のフライトに耐えられるかどうか心配でたまりませんでした。
どうしようかと考えてひねり出した答えは、「映画を観続ける!」ことでした。妥当だったかどうか分かりませんが、ただじっと耐えているより、何かに没頭できたらと思ったのです。

ではどういう映画を観ようかと考えたときに思い浮かぶのは少しでも語学のレッスンに繋がるものにしようということでした。それで英語の映画を選びましたが、心理劇が描かれているものはとても理解ができない。
それでもっと単純なものにしようと考えると行きつくのはハリウッドのバイオレンスものでした。選んだのは『RED/レッドリターンズ』でした。ブルース・ウイリスやジョン・マルコヴィッチらが主演したスパイ・アクションものの第二作です。
ストーリを説明するよりも、予告編でも見て下さった方が雰囲気が分かると思います。まあちょっとご覧ください。
https://hlo.tohotheater.jp/net/movie/TNPI3060J01.do?sakuhin_cd=010491

退官していた元CIAエージェントのブルース・ウイリスらが、私的な核兵器開発計画を追いかけるという仕立てなのですが、韓国俳優のイ・ビョンホンがブルース・ウイリスの前に立ちはだかる殺し屋として登場しており、「かっこいい」アクションを披露しています。
また個人的には大好きな俳優であるアンソニー・ホプキンスが、ユニークな「怪漢」ぶりを披露しており、それやこれや面白い映画ではありました。
でも映画だと分かっていても、主人公たちはどこでも常に、何の躊躇もなく「悪漢」たちを殺していくのです。タンタンと銃を撃って。その「カッコよさ」が描かれているのでもあります。
観ていてだんだん疲れてきました。英語にも疲れました。

それで何か違うものはないかと探して見つけたのが、『るろうに剣心』だったのでした。頭が疲れていたので日本語が柔らかく入ってくると同時に、作品に一貫して込められているメッセージ・・・「不殺」の志がとても良かった。
時は幕末。主人公である緋村剣心は、「人きり抜刀斎」の名で知られた維新志士側の暗殺者でした。若くして「飛天御剣流」(ひてんみつるぎりゅう)の剣を学んだ剣心は、10代半ばにして長州藩の山縣有朋らに見出され、維新成就のために幕臣を次々と切り殺していきました。
しかしある時、自らが切り捨てた若い侍の許嫁が、死骸に縋り付き、泣き叫ぶことを見てしまうことから、深い葛藤の中に入っていきます。例え、未来の豊かな社会を作る「維新回天」のためといえど、殺人は許されるのか、その問いが剣心の中に深くしみ込んで行ったのです。

そうして維新後10年が経ち、剣心は、「抜刀斎」の名を捨て、1人の剣客として放浪の日々を送っていました。映画は幕末の戦闘シーンからすぐにこの10年後に飛び、ここから新たなストーリが始まっていきます。
あるときある町を歩いていた剣心は、伝説の人斬り「抜刀斎」が夜な夜な殺人剣をふるっているという噂に出くわします。偽物の抜刀斎は、「不殺の剣」を掲げていた神谷道場の剣の後継者をうたっていました。
これに怒った道場の若い女性、神谷薫がニセ抜刀斎と対峙し、殺されそうになったところを救ったことから、剣心は神谷道場に居候することになります。そしてここがニセ抜刀斎を抱える悪漢一味との決戦の拠点になっていくのです。

詳しいストーリーは映画案内に譲るとして、そこで描かれている主題は先にも述べたように、幕末に暗殺者として、つまりはテロリストとして闇から闇をかけた剣心の葛藤です。
維新後、不殺を決意した剣心は、再び戦闘の中に巻き込まれていくのですが、彼は「逆刃刀」という普通の日本刀と刃が逆になっている特殊な刀を使うことで、殺人を避けていきます。刃が反対についているため人を斬れないのです。
しかし技量の近い敵との決戦では大きなハンディになっていく。そのため敵からも、味方からさえも「お前は甘い」と言う突きつけを剣心は受けていきます。
殺人剣をふるわなければ守れないものもあるかもしれない。しかし自分はもう二度と殺人は犯したくない、犯しはしない・・・。

僕が共感したのは、映画がこの主題を最後まできちんとおいかけて作られていることでした。たとえ正義であろうとも、悪漢を倒すためであろうとも、殺人は犯したくない、犯さない・・・時に大きく揺らぎながらも、その剣心の思いが貫かれていく過程が見事にかつさわやかに描かれている。
その時、僕の胸のうちに去来したのは、ドイツの方たちとベラルーシを訪問した時のことでした。ナチスの侵略を捉え返そうとし、かつ日本帝国主義のアジア侵略を捉え返そうとしてきたドイツ人と日本人の間には共通の痛みと、その中から育ててきた知性がある。
それはいかなる「正義」と思われる戦争もまた、「悪」である可能性がありうるという事実への認識です。いやあるものにとっての正義はあるものにとっては悪でもありうる。この世には絶対的悪はあったとしても絶対的正義などはないことへの認識であると言っても良い。
だからこそ「正義」を逡巡なく肯定する思想性の中に、私たちが私たちの時代が越えねばならない重要な課題を見据えなければならず、そのためにはドイツや日本の中で培われてきた侵略戦争の捉え返しには普遍的な意義があるということです。

そしてそれはかなりの強さで私たちの社会に浸透しているのではないか。それはとても重要であり、かつ素晴らしいことなのではないか。それが僕がこの映画をみながら強く思ったことでした。
『レッド・リターンズ』・・・ハリウッドのアクションものにはこうした問いが一切ない。悪は仮借なく殺して良い対象なのです。しかし剣心は、絶対悪を前にしても逡巡する。もう誰も殺したくないという心の叫びに従おうとするのです。
「こんな映画は日本の中でしか作れない!」僕はそう思い、拍手をしたい気持ちになりました。心があたたくなるのを感じました。いつしか身体の苦しさと、長時間フライトへの怯えはまったくなくなっていました。
「そうだ。日本に帰ってから、これを主題に記事を書こう。タイトルは『るろうに剣心』から平和を考えるにしよう」とその時、決意しました。

それで帰国してからすぐに『るろうに剣心』28巻を一括購入しました。読んでみて、映画が1巻から3巻ぐらいまでのストーリをコンパクトにまとめながら、主題をきちんと表している良作であることを知りました。
ところがその先を読み進んでいって、さらに内容が深まっていくことが分かりました。大きく前半は、不殺の決意をした剣心が、人を殺さずに悪を倒していくこと、倒せるようになっていくことが描かれています。
さらに後半に入ると、もう一歩進んで、ではかつて人をたくさん殺害したこと、テロリストとして闇をかけたことをどう捉え返していくのか。人を殺めた罪は何によって償われるのかと言う主題に入っていきます。
その答えはぜひ本編にあたって欲しいと思うのですが、僕はその問いのあり方そのものがとても見事であり、貴重であり、ありがたいものだと思いました。深く共感し、私たちが時代的に背負っている課題への重要な一つの回答を得られような気がしました。

今、ウクライナでは争いがどんどん激化しています。親ロシア派が次々と地方政府を暴力で占拠していますが、これに対してオデッサでは、親ロシア派の人々がたてこもった労働組合の建物への放火が行われ、40名近い人々が焼き殺されてしまいました。
火を放ったのは、公然と反ユダヤ主義を掲げる、現政権に議席をも持っている極右の人々であったと言われています。これに対して親ロシア派の人々は、怒りを掻き立てており、東ウクライナの政府機関の多くがこれらの人々に消極的にせよ同調しつつあります。
これに対してウクライナは政府軍を派遣して東ウクライナに迫っている。反対にロシア軍はウクライナとの国境線沿いに軍隊を集結させ、大規模な軍事演習を行いながら、ウクライナ軍を牽制しています。
アメリカやEU諸国は一方的にロシアの非だけをなじっており、私たちの国、日本もそれに同調しつつあります。とこらがお隣の国、中国はクリミア半島での大規模工事を受注することから、親ロシア的な立場を示しつつある。

まさに世界は正義と正義に分裂しつつあります。そして正義の名の下の暴力が振るわれ、正義の名の下の殺戮が進められつつある。この事態を前に、どちらが正義であるかを論じても決着はつきません。
「ただ正義だからといって殺人を犯していいのか。殺人を忌み嫌い、相手を生かしたままに問題の解決を図ろうとすることこそが、ありうべき道なのではないか。人類は戦争と紛争の世紀を越えてそこにこそ歩みを進めなければならないのではないか。」
僕はこう主張することこそが今、一番、大切だと思うのです。もちろんそれは「敵」からも「味方」からも「甘い」と言われる道でしょう。剣心が繰り返し言われたように。
でももう私たちは、「殺人は止めよう。もう人殺しはたくさんだ。うんざりだ。殺人をこそ越えよう、不殺の可能性を切り開こう」・・・と叫んで良いのではないでしょうか。それこそが世界史の中で最も必要なことなのではないでしょうか。

そんな問いを明治維新の一つの捉え返しとして描いた漫画が、長い間若者たちの支持を受け、今また映画化されていく・・・つまり問いが大衆化されているこの事態の中にこそ、僕はこの国の中に育ちつつある新しい可能性を感じます。
それを大事に育てたい。育てる一員でありたい。そのために僕自身もまた善悪二元論や一面的な正義論を、柔らかく、豊かに越えていきたいと思うのです。

最後に蛇足になりますが、映画の主人公=剣心の役を担っているのは佐藤健さんという若い俳優さんです。実は彼は数年前に放映されたNHKの大河ドラマ『龍馬伝』で、土佐藩の人斬り、岡田以蔵を演じた役者さんであることを今回の調べて知りました。
監督も『龍馬伝』と同じ大友啓史さんでした。僕は『龍馬伝』そのものは思想的に中途半端に思えて、残念な面も多かったのですが、僕の知る限りこの作品の中での岡田以蔵の描かれ方=ナイーブで傷つき易い青年としてのそれはとても斬新でしたし、佐藤さんも見事に演じていました。
今回の剣心役を演じるにあたって、かつて岡田以蔵を演じたことは大きな意味があったのではないでしょうか。その点にも感慨深いものがありました。
夏に封切られる次回作も楽しみにしたいと思います。世界が悲しい暴力的対立を深めつつあり、私たちの国の政府が・・・平和の尊さを理解しないままに・・・集団自衛権を強引に推し進めようとするこの時だからこそ、多くの人々にこの映画を観て、「不殺」への思いを深めて欲しいと思うのです。

 

 

 

 

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明日に向けて(841)蘆葦の歌―台湾の日本軍「慰安婦」被害者たちの回復への道のり―東京上映会に向けて(下)

2014年05月07日 06時00分00秒 | 明日に向けて(801)~(900)

守田です。(20140507 06:00)

昨日6日に、台湾のおばあさんたちの映画、『蘆葦(あし)の花』上映会のことを書きました。
僕は予定通り、今日はこれから家を出て東京に向かい、夕方にこの上映会に参加しますが、楽しみなのはそこに訪れてくれる陳蓮花(チンレンファ)アマアとお会いすることです。

このアマアに関して、昨日の記事では、彼女が初めて被害事実に関する証言を行ったのが2006年、私たちが京都にお招きした時のことだったことを書きました。
今回は、そのときのことを僕が書き残したおばあさんたちの訪日記の中の一節をご紹介するところから、お話を続けたいと思います。
アマアたちの旅の様子をいろいろと報告したのちに、証言集会について触れたくだりからです。
なお、ここでは陳蓮花(チンレンファ)アマアを、陳樺(チンホア)アマアと紹介しています。これはカムアウト前に使われていた、本名をもじった仮名です)

***

台湾からアマアたちを迎えて 2006年12月より
守田敏也

肝心の証言は、私たちの集会と、仏教大学での講演会の都合2回お話してもらいましたが、どれもが尊厳に溢れていて、強く感動させていただくものでした。
そのすべてをご紹介したいところですが、あえてそのうちの一つを紹介したいのは、陳樺(チンホア)アマアの証言です。なぜならこれは、彼女の初めての証言だったからです。とくに圧巻だったのは、二度目になる仏教大学でのお話でした。
彼女はフィリピンのセブ島に連れて行かれ、性奴隷の生活を強制されました。それだけでなく、フィリピン奪回のために大軍で押し寄せたアメリカ軍と、日本軍の戦闘に巻き込まれ、地獄のような戦場をさまよいます。
私はフィリピンからフリアスさんをお招きする過程で、このセブ島やその対岸のレイテ島などで戦った、旧日本軍兵士のおじいさんからの聞き取りも行っていたため、とくにその背景がよく見えるような気がしました。
 
陳樺アマアは、戦闘の激しさを身振り手振りで表現しました。米軍は海から凄まじい艦砲射撃を加え、さらに徹底した空襲を加えて日本軍を圧倒していくのですが、アマアはそれを「かんぽうしゃげき」と日本語で語り「パラパラパラ」と空襲や米軍の銃撃の様子を伝えました。
装備の手薄な日本軍兵士とて、鉄兜ぐらいはかぶっています。そのなかを粗末な衣服で逃げねばならなかったアマアのみた地獄はどのようなものだったでしょうか。
そればかりか彼女たちは弱ったものから次々と日本軍に殺されていったのです。そして20数名いた彼女たちはとうとう2人になってしまいます。そこで米軍に投降した日本軍とともに米軍キャンプに収容されるのです。
ところがそこまで一緒だった女性が、キャンプの中で日本兵に殺されてしまいます。そのことを語りながら、アマアは号泣しました。過酷な地獄を励まし合って逃げたのでしょう。その友の死を彼女は、泣いて、泣いて、表現しました。
聞いている私も涙が止まりませんでした。20数名のなかの1名の生き残りは、この地域の日本軍兵士の生き残り率と気味が悪いぐらいに符合します。日本軍が遭遇した最も過酷な戦闘の中にアマアはいたのです。

この話を聞いているときに、私は不思議な気持ちに襲われました。
被害女性たちが共通に受けたのは、言うまでもなく男性による性暴力です。その話を聞くとき、男性である私は、いつもどこかで申し訳ないような気持ちを抱かざるを得ませんでした。いや今でもやはりその側面は残ります。私たち男性は、自らの性に潜む暴力性と向き合い続ける必要があるのです。
私たちの証言集会では、このことを実行委メンバーの中嶋周さんが語りました。「男性ないし、自らを男性と思っている諸君。われわれはいつまで暴力的な存在として女性に向かい合い続けるのだろうか」「われわれは、身近な女性の歴史を自らの内に取り込んでいく必要がある。まずは女性の歴史に耳を傾ける必要がある」。
すごい発言だなと思いました。正直なところ進んでいるなと思いました。そうあるべく努力をしてきたつもりでも、どこかでそこまで自信を持っていいきれないものが私の内にはある。

ところが戦場を逃げ惑う陳樺アマアの話を聞いているうちに、私にはそれが自分の身の上に起こっていることのように感じられました。まるで艦砲射撃の音が聞こえ、空からの攻撃が目に映るようでした。そして友の死。その痛みが我がものとなったとたん、それまでのアマアの痛みのすべてが自分の中に入ってきました。
騙されて船に乗せられ、戦場に送られ、レイプを受ける日々の痛みと苦しみ。同時にそこには、これまで耳にしてきた被害女性全ての痛みが流れ込んでくるような気がしました。私は私の内部が傷つけられ、深い悲しみに襲われました。
そのとき私は、男性でも女性でもなく、日本人でも、韓国人でも、フィリピン人でも、台湾人でもなく、同時にそのすべてであるような錯覚の中にいました。陳樺アマアの体内に滞ってきた悲しみのエネルギーの放出が、私に何かの力を与え、越えられなかったハードルがいつの間にか無くなっていくような感じが私を包みました。
残念ながら、その感覚はすでに去り行き、私は今、やはり男性で日本人です。しかしあのとき垣間みたものを追いかけたいとそんな気がします。そこにはここ数年、この問題と向かい合う中での、私の質的変化の可能性がありました。今はただ、それを私に与えてくれたアマアのエネルギーに感謝するばかりです。

全文は以下に収録
明日に向けて(548)台湾のおばあさんのこと・・・福島原発事故は戦争の負の遺産とつながっている(中)
2012年9月23日
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/fa4f3e76c32de1f65b67cffe2748f976

***

ここでは僕にとっても彼女の発言の大きな意味を書きましたが、実はここには書けなかったもう一つの忘れがたいことがありました。
アマアが大きな声を出して公衆の面前でさめざめと泣いたとき、アマアたちを支えるべく一緒に来ていた呉慧玲(ウホエリン)さんが「よしやった!泣いた。それでいいのよ。泣くことはとっても大事なの」と、僕の横で手を握りしめながら呟いたことでした。
あの時、アマアの中に封じ込められていた悲しみ、痛み、さらにそれらが混沌となった何かが思い切り外に放出されたのでした。彼女にとって、己を癒し、尊厳を回復していく大きな突破口が開いた。それを知るホエリンは、唇をかみしめるようにして「よしやった!」と小さく叫んだのでした。
実際にそれ以降、陳蓮花(チンレンファ)アマアは、どこでも堂々と発言してくださるようになりました。発言するたびに、力強さが増し、尊厳を輝かせてくれるようになった。その出発点が京都での証言集会なのでした。

婦援会の素晴らしいところは、これまでもさまざまな性暴力に苦しむ女性たちに関わることの中から、その痛みを癒し、尊厳を回復していくプログラムを持っていたことでした。それをアマアたちに適用してくださった。
柴さんが紹介してくれたようにその場がアマアたちのワークショップなのでした。アマアたちはこのプログラムの目的に、ものの見事に応えてくれた。応えてどんどん尊厳を回復していき、明るく、活動的になっていったのです。
プログラムが素晴らしかったことはもちろんですが、僕はやはり、自ら名乗り出ることができたアマアたちの人間的な強さ、豊かさこそが、回復を可能にする大きなエッセンスだったのだと思います。
今回の映画はアマアたちのワークショップの最後の3年間を追いかけたものです。痛みからどんどん回復していく過程を辿ったものです。僕たちもその一部に参加させてもらった日々でした。・・・映画がとても楽しみです。

これまで繰り返し論じてきましたが、旧日本軍が作りだした性奴隷制度は、この軍隊が構造的に持っていた兵士たちに対する内向きの暴力を大きな背景にしていました。
兵士たちは日常的に虐待され続けていた。その上で過酷な戦場に駆り出されました。もちろん戦場とはどこも過酷には違いないでしょうが、日本軍の場合は作戦指揮もめちゃくちゃなものが多く、食料調達がまともにできなかったため戦死者よりも餓死者の方が多いほどで、二重三重の過酷さがありました。
しかし兵たちは構造的な虐待に抗議することができなかった。「上官の命令は天皇陛下の命令だ」と言われ、どんなに理不尽なことを命じられてもただ黙って聞いて、実行するしかなかった。そうしなければ凄惨なリンチにさらされ、殺されてしまうこともあったからです。
そのため当然にも兵士たちの中にはどうともならない鬱憤が溜まり、戦闘になると強烈な暴力性として噴出しました。とくに無抵抗な民間人に対して、絶望的なまでの暴力性が開花し、レイプやむごたらしい殺戮が、あちこちで繰り返されました。中国侵略戦争の過程でのことです。

旧日本軍指導部はこれに頭を悩ませた。兵士が暴虐を働くことで、中国の人々の日本軍への憎しみが募るばかりであることも頭痛の種でしたが、それ以上に軍部が懸念したのは、兵士がレイプをすることでときに性病にかかってしまい、兵力が削がれることでした。
このため日本軍は「性」の管理を考え始めた。兵士たちの絶望的な暴力を「管理」するために、そして「性病を防止」するために「慰安所」を作った。このために慰安所に集められたのは処女の女性たち・・・女の子たちなのでした。
まだ性のことに何の知識もないような女の子たちまでもが集めあれ、レイプされ、軍による兵士の暴力の管理のために踏みにじられていった。それが世界に例をみない旧日本軍性奴隷制度の酷さ、非人間性、野蛮性なのでした。
アマアたちのワークショップは、そんな絶望的な暴力を受けた彼女たちの、心の奥底にまで入り込んだ傷との人間的なたたかいでした。まさに尊厳を取り戻すための挑戦が行われ、実際にアマアたちは傷を回復していったのです。

僕は実はそのことの中ではじめて、旧日本軍兵士たちの尊厳の回復の道を作り出されてきたこと、男性の暴力のからの解放の回路切り拓かれてきたことを強く感じてきました。
まだまだできていないことですが、僕は日本軍兵士たちが受けた構造的暴力ももっと解明し、その痛みへの手当てがなされていかなけばならないと思っています。もちろん構造的暴力の責任者が罰せられなければならないし、社会的反省がなされなければならない。
そうして若くして構造的な暴力の中に叩き込まれ、人間的尊厳をずたずたにされ、自らもまた鬼のようになりながら戦場に散っていった多くの兵士たちにも、私たちの社会からの謝罪と鎮魂の祈りを送らなければならないと思うのです。
「慰安婦」制度の現実を否定しようとしている人々は、このことをまったく考えていない。性奴隷制度とももに、多くの日本軍兵士もまた奴隷のように戦場で扱われていたこと、構造的暴力の犠牲者でもあった事実も消し去り、その尊厳の回復の道を閉ざしているのです。
僕は断言できますが、このような軽々しい人々に比べるならば、絶対に僕の方が日本軍兵士たちの生きざま、死にざまに心を寄せているという確信があります。だからこそ僕は、彼らの罪を背負っていこうと思うのです。

おばあさんたちのたたかいは、その意味で、すべての人々の尊厳を守り、育て、発展させていく道に大きくつながっています。未来への強い希望がそこにはある。どれだけ感謝してもしたりません。
今は解決の方途の見えないものであったとしても、人間が人間である限り、やがて出口を見出すことができ、明るい展望を切り開くことができる。僕はそれをおばあさんたちの生きざまから学んできました。
どうかみなさま。おばあさんたちの生きざまに様々な機会を通じて触れて下さい。何かの機会を捉えて、おばあさんたちが繰り返してきた証言に触れてください。上映会にご参加できる方はぜひいらしてください。
あなたにとって、そして私たち全体にとって必要な何かの力がそこから必ず得られるし、さらに大きなものをみんなで一緒につかんでいきたいと僕は思うのです。

終わり

 

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明日に向けて(840)蘆葦の歌―台湾の日本軍「慰安婦」被害者たちの回復への道のり―東京上映会に向けて(上)

2014年05月06日 09時00分00秒 | 明日に向けて(801)~(900)

守田です。(20140506 09:00)

みなさま。ゴールデンウィーク最後の日になりましたが、いかがお過ごしでしょうか。
僕は今日までゆっくり過ごし、明日からまた動き出します。すでにお知らせしたように8日に東京でトルコ訪問に関するお話をさせていただきますが、前日の明日、7日には台湾のおばあさんたちの映画を同じ東京で鑑賞します。
映画のタイトルは『蘆葦の歌』。「あしのうた」と読みます。台湾人映画監督の呉秀菁(ウシュウチン)さんのもと、3年がかりで撮影されたものです。まずは予告編をご覧下さい。北京語ですが様子が伝わると思います。

【 蘆葦之歌 】慰安婦阿嬤的光影紀實 ☆電影首波預告☆
https://www.youtube.com/watch?v=V2lpKsdZi0g

昨年9月28日に台北市でオープニング試写会が行われましたが、その時の記事もご紹介しておきます。日本語記事です。

台湾人元慰安婦の記録映画、プレミア上映 「歴史の傷忘れるなかれ」
中央社フォーカス台湾  2013年09月29日15時13分
http://news.livedoor.com/article/detail/8110613/

内容はどのようなものでしょうか。おばあさんたちを長く支えてきた「台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会の柴洋子さんが次のように説明しています。

***

「台北市婦女社会福利事業基金会(通称:婦援会)は、1996年から被害者たちを支える活動のひとつとして心理治療を兼ねたワークショップを実施してきた。
ワークショップは、絵画、小物づくり、ヨガ、料理から、生まれて初めて持つカメラでの写真撮影会や自分たちが演じる即興のドラマまで様々な内容があり、たいていは台北郊外に1泊旅行を兼ねて行われた。
阿媽(アマア 台湾語でおばあさんのこと―守田注)たちの希望で金門島や澎湖島など台北市を出る旅行もあった。阿媽たちはみんなに会えるからとワークショップを楽しみにし、歌い、踊り、笑い声をあげた。
最初は口を閉ざしがちだった自分の被害についても語り合うようになった。この『蘆葦の歌』は、そんなワークショップの最後の3年間とともに、家族が静かに阿媽を支え続けた様子、台湾・日本の支援者との交流の中で阿媽たちが歩む様子を記録している」

―上映会案内チラシより

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Facebooのページもお知らせします。同じく北京語ですが、雰囲気をくみ取ってください。
https://www.facebook.com/SongoftheReed


以下、上映会の案内も先に貼り付けておきます。

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  蘆葦の歌 Song of the Reed 上映会
  台湾の日本軍「慰安婦」被害者たちの回復への道のり

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沈黙し続けた女性たちが、語り出した。
そこにはどんな努力があったのか。

ここ3年間、家族に支えられ、台湾・日本の支援者との交流を通して、被害女性たちが歩んできた回復への道をたどったドキュメンタリー。

■日 時 5月7日(水)午後6時30分~9時30分(開場6時)
■参加費 900円
■場 所 なかのZERO(本館) 視聴覚ホール(地図)
     JR中央線・地下鉄東西線 中野駅下車、徒歩8分

■プログラム
映画上映
「蘆葦の歌」(呉秀菁監督/76分/2013年/婦援会制作)

トーク
・陳蓮花さん(日本軍「慰安婦」サバイバー)
・康淑華さん(台北市婦女救援社会福利事業基金会執行長)
・呉秀菁さん(「蘆葦の歌」監督)

■ゲスト紹介

陳蓮花(チン・リェンファ)さん
1924年生。看護婦の仕事があるといわれてフィリピンのセブ島で被害を受けた。

康淑華(カン・シュウファ)さん
日本軍「慰安婦」の支援をしてきた婦援会執行長。

呉秀菁(ウ・シュウチン)さん
国立台湾芸術大学電影学系助理教授。「蘆葦の歌」の監督。

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 主催  台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会/日本と台湾の歴史を考える会/
    アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)
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実はこの映画、僕もほんの少しだけ出演しています。監督のインタビューを受けて、僕の阿媽への思いを語っています。
このため昨年の試写会には、婦援会から正式なご招待をいただき、航空運賃も負担してくださるとの連絡が来たのですが、あいにくすでに自分の講演が入っており、お断りせざるを得ませんでした。
その映画がやっとのことで日本にもやってくることになったので、今回は是非、参加したいと思っていました。幸いにも手術の予後がとても良いので、上映に駆けつけることにしました。

映画と共に、作品の中に登場する阿媽の一人、陳蓮花(チンレンファ)さんが来日されます。というか映画に登場するおばあさんの多くがすでにこの世を去っており、今もお元気なのはお二人だけ。
そのうち体調の問題で何とか日本に来れる最後の一人がレンファアマアなのです。そのレンファさんも身体の心配から何度か、行く、行かないとの迷いを重ねたのち、最終的に来てくださることになったのだとか。
この他、監督の呉秀菁さん、婦援会の執行長の康淑華(カンシュウファ)さんも参加されます。みなさん、それぞれトークもしてくださる予定です。
同じく長く阿媽たちを支えてきて、僕ら日本からの参加者ともとても親しい友人になってくれた呉慧玲(ウホエリン)さんも参加されます。みなさんにお会いするのがとても楽しみです。

とくに僕は個人的に蓮花(レンファ)アマアに特別な思いがあります。というのは婦援会の活動に参加しながらも、自らはカムアウトしていなかった彼女が初めて証言を行ったのが、私たちが2006年に京都にお招きしたときのことだったからです。
このとき来てくださったアマアは3人。その中で蓮花(レンファ)アマアだけがまだ公の場で証言をしたことがありませんでした。ところが他の二人の発言と、会場の温かい反応を見た彼女が、「自分も話す」と言い出して、証言が実現したのでした。

続く

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明日に向けて(839)ベラルーシ、ドイツ、トルコへの旅の報告講演を行います!(5月8日東京、11日京都市)

2014年05月04日 11時00分00秒 | 明日に向けて(801)~(900)

守田です。(20140504 11:00)

昨日帰宅し、のんびりと過ごしていますが、連休明けより活動を再開します。
まず東京と京都市で旅の報告を行います。

東京でのお話は5月8日。この間、日本とトルコ・UAEとの原子力協定国会承認を食い止めようと、目覚ましい活動を重ねてきたFoE Japanの方々のお招きによります。
与えてくださった時間は1時間ですので、トルコのことにしぼり、主に日本が輸出を目指している原発の建設予定地、シノップ訪問のお話をします。
JACSESの田辺有輝さん、FoE Japanの満田夏花さんもお話してくださいます。
東京方面の方、ぜひご参加ください。

なお参加を呼び掛けていただいたものの、体調を考えて、申し訳ないですがお断りした企画に、明日5月5日に同じく東京で行われる「丹下紘希 あなたを心配する手紙を巡る出来事」があります。
丹下さんはすでにご紹介したトルコへの素晴らしいビデオメッセージを発してくださり、現地で大きな反響を受けている方です。日本人の良心を代表してくださっています。
この方は、映像関係のアーティストでもあり、昨日5月2日から東京で開催されている「NOddIN 2nd Exhibition」に参加されています。
この中の一環としてご紹介した企画があります。こちらにもぜひご注目ください。以下、企画紹介と展覧会全体の案内のアドレスを貼り付けておきます。

***

5月5日(月) 17:00~19:00
丹下紘希「あなたを心配する手紙を巡る出来事」トークセッション
NOddIN 1st Exhibitionで発表された丹下紘希による映像作品「あなたを心配する手紙」は、原発輸出相手国であるトルコ国内でSNSを通して予想以上に拡散して、話題となりました。今も反原発運動をする市民活動家の人たちへも届きました。
トルコとの原子力協定が可決されてしまった今、わたしたちはどのように進んでいったら良いのか?トルコ現地の方々とスカイプでトークセッションを行います。

***

トルコからのスカイプ参加には、僕がトルコにいったときに素晴らしい通訳をしてくださったプナールさんも加わられるそうです!うーん、僕も東京の会場に駆けつけたかったなあ。でも今回は我慢です!
なおNOddINとは、「今までと違う視点を持って生きていきたいと思う心の集まり」のことだそうです。詳しくは以下をご覧下さい。東京方面の方、ぜひ他の企画も含めてご参加ください。
http://claska.com/studio/8th_gallery/2014/04/noddin_2nd_exhibition.html


5月11日には京都市内で、ベラルーシやドイツに一緒にいったみなさんとのジョイント企画に参加します。
僕以外では、関西医療問題研究会に属している高松勇医師、『週刊MDS』記者でジャーナリストの豊田護さん、福島から京都に避難され、原発賠償京都訴訟の原告としても活躍されている萩原ゆきみさんが参加されます。
高松さん豊田さんとは、医師国際会議への参加で、ベラルーシからドイツへの旅をご一緒しました。萩原さんはヨーロッパ・アクション・ウィークに、福島からの証言者として参加されました。

高松さんは、日本国内の多くの医師が、福島の子どもたちの中での甲状腺がんの広がりを「アウトブレーク」と断定することを尻込みしている中で、同研究会の山本医師や入江医師とともに、早くから「甲状腺がん多発」をはっきりと指摘されている方です。
道中、いろいろとお話しましたが、もともと医学生時代に薬害の問題に関心を抱き、「飲む意味のない薬を飲まされて、かかる必要のない病にかかっている」現代医療の歪みに抗すまっとうな医師になろうと歩み始めたのだとか。
小児科の臨床医として今も日夜働かれていますが、例えば子どもがインフルエンザで高熱を出した際、問題の多いタミフルの処方などは絶対に行わずに、丁寧な対処をされています。
タミフルを使わないことに心配になる親御さんもおられますが、その場合は「タミフルなど絶対に必要ないです。その代わりに心配な時はいつでもいいですからすぐに連絡してきてください。私が対処します」と言われているそうです。立派です。

ただでさえ小児科は夜間の駆け込み診察依頼なども多いハードな仕事。その上に「いつでも連絡してきてください」と告げれば、365日、休む間もなくなります。
しかし高松医師はそんなことに躊躇せずに、危険な副作用の多いタミフルを安易に処方している現代医療のあり方を、自らの実践を通して批判され続けているのです。
福島の子どもたちへの対処でも、ただ甲状腺がんの多発を指摘しているだけでなく、各地で健康相談会を開き、あるいは参加し、放射線被曝下での多くの親子の不安に丁寧に向かい合い続けておられます。
そんな高松医師のベラルーシやドイツでの講演には、常に他の国の医師たちの大きな反響が集まっていました。今回はその顛末や、他の国の医師の発言から得たものをお話し下さるのだと思います。僕には十分に対象化できない領域でもありましたので興味芯々です!

豊田さんはこれまで反戦ジャーナリストとして米軍が大量虐殺を行ったイラクを訪れ、人間の盾ともなって戦争に反対しながら現地を取材されるなど、反骨の取材をなされてきた方です。
実は今回の旅では同室になることが多く、いろいろとお話しながら過ごしました。また僕の発言のシーンなども撮影していただけました。ベラルーシやドイツでの僕の写真が残っているのは豊田さんのお蔭です。
豊田さんが今回の旅でどのようなことを感じ、考えられたのかお話いただけるのだと思います。

萩原ゆきみさんは、僕にとっては旅の後半であったアクション・ウィークのオープニング・セッションから一緒になりました。ドイツのドルトムント市で、ともに記者会見に参加した後に、市庁舎で行われた集会でそれぞれ発言しました。(この時まで高松医師、豊田さんも同行)
萩原さんは、原発事故が起こりただちに避難しなければならなくなったことの顛末を、臨場感たっぷりにお話されます。ドルトムントの会場でも多くの方が引き込まれ、涙を流されていました。
この後、彼女はドイツ各地を講演して回られましたが、途中まで豊田さんが取材同行されたと聞いています。
彼女とは僕がトルコから戻った時もドイツのヘルフォートで一緒になり、同じ集会に参加して発言をしました。

3人の方々はそれぞれに違った立場から今回の旅に関わっておられるので、それぞれが切り取ってきたものに個性があると思います。僕にとってもお話を聞くのがとても楽しみです。
僕自身は1時間を与えていただいたので、前半でベラルーシとドイツで感じたこと、後半でトルコで感じたことをお話するつもりです。

京都市近郊の方、ぜひお集まりください!

以下、それぞれの案内を貼り付けておきます!

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5月8日 東京

セミナー「考えよう!トルコへの原発輸出~現地からの報告」(5月8日)

トルコへの原発輸出が問題になっています。
地震国トルコに原発を輸出しても大丈夫でしょうか?
現地の人たちはなぜ原発建設に反対しているのでしょうか?

原発建設が予定されているトルコ・シノップを取材したフリージャーナリストの 守田敏也さんが、美しい写真をまじえて、わかりやすくお話されます。
また、原子力協定の国会での審議を振り返り、今後、私たちにできることは何かについて、共有します。

日 時 2014年5月8日 18:30~20:30
会 場 地球環境パートナーシッププラザ セミナースペース >地図

内 容(予定・敬称略)
トルコ・シノップの現地取材報告 …守田敏也/フリージャーナリスト
トルコとの原子力協定~国会で何が議論になったのか?…田辺有輝/JACSES
JBIC/NEXIの公的信用付与および私たちの役割 …満田夏花/FoE Japan
 
資料代 500円
主 催 FoE Japan
協 力 「環境・持続社会」研究センター(JACSES)
問合せ FoE Japan Tel: 03-6907-7217 /携帯: 090-6142-1807

※参考)トルコの市民団体から国会議員に当てた手紙
http://hinan-kenri.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-3e84.html

情報掲載先 FoE JAPAN ホームページ
http://www.foejapan.org/energy/evt/140508.html

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5月11日 京都市

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ドイツ国際会議 報告講演会

原発事故がもたらす自然界と人体への影響について
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3月、ドイツで開催された国際会議(ドイツ、日本、英国、米国、スイス、ベラルーシなどから医療関係者、科学者が参加)に参加され、発表された医療問題研究会の医師等から報告、講演いただきます。
 
チェルノブイリから28年、フクシマから3年、人類が歩むべき方向は!?

◇日時:2014年5月11日(日)午後1時15分から5時
◇場所:ハートピア京都第4・5会議室(地下鉄丸太町)

①「ドイツ国際会議の意義について」
  高松勇Dr(小児科医・医療問題研究会)
  国際会議の成果は!?。
  福島健康被害(甲状腺がん異常多発)の具体的事実を訴え、反響は!?
  データの科学的分析、データで厳密に論じていくことの重要性。

②「ベラルーシ・ドイツ・トルコで学んだもの
  -チェルノブイリ支援の社会的背景とトルコ反原発運動のいま-」
  守田敏也さん(ジャーナリスト)

③「世界が見つめるフクシマ」
  豊田護記者(週刊MDS)

④「ドイツで被災当事者として訴えて」
  萩原ゆきみさん(原発賠償京都訴訟原告)


◇参加費 一般1,000円、避難者500円

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【主催】避難者こども健康相談会きょうと
〒612-8082 京都市伏見区両替町9丁目254 北川コンサイスビル203号
ブログ  http://kenkousoudankaikyoto.blog.fc2.com/
問い合わせ先:090-8232-1664(奥森)


 

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