守田です。(20140208 11:00)
沖縄那覇の国際通りのカフェからです。
『内部被曝』を一緒に書かさせて頂いた琉球大学名誉教授矢ケ崎克馬さんのお連れ合い、沖本八重美さんの一周忌のために沖縄を訪れました。本日午後2時から、八重美さんのお仲間達による偲ぶ会が開かれるので出席します。
せっかくの機会だということで、娘さんで京都在住の矢ケ崎響さんと辺野古、高江訪問を企画しました。
朝7時関西空港発の便で発って、那覇着は9:20。響さんに車でピックアップしてもらい、途中で泊に住む北上田毅さんと合流しました。しかしここで響さんは離脱。矢ヶ崎さん宅への訪問者が多いので、応接にまわられることになったためです。
そのため北上田さんの車で、一路、辺野古へ向かいました。
僕は沖縄には1995年の米兵による少女レイプ事件以来、一時期は毎年のように訪れ、南部戦跡や各地のガマ(洞窟。沖縄戦で避難壕に使われ、集団自決を強いられる場にもなったりした)の見学などを繰り返してきました。
嘉手納基地を囲む人間の鎖に参加したり、各地の基地撤去運動の現場にも足を運んできました。でも、恥ずかしながら辺野古、高江に行く機会がなく、これが初めての訪問でした。
ちなみに今回、案内をしていただいた北上田毅さんは、長らく京都におられて、市民運動の中心を担ってこられた方です。僕もアフガン戦争やイラク戦争に反対して繰り返し行動を重ねてきた「ピースウォーク京都」での行動や、教育改悪に反対する行動などをご一緒してきました。
また北上田さんは、フィリピンのサマール島を繰り返し訪れ、多くのボランティアを送り込んで、京都との太いきずな築かれてきた方でもあります。ちなみにそのときサマールの方たちが、毅=つよしを、「チョイ」と発音したことから、北上田さんのあだ名がチョイさんになりました。それでここからはチョイさんの名で呼ばせていただきたいと思います。
実はチョイさん、普天間基地への抗議行動を終えてから待ち合わせ場所にこられました。なんでも毎朝5時半に起きて、普天間基地ゲート前まで行き、抗議を行っているのだとか。この日の行動は25人で行われたそうです。すごいなあ・・・。
これらについて、詳しくは「チョイさんの沖縄日記」をご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/chuy
高速道路を北に向かいました。沖縄は前夜に相当な雨が降ったそうですが、今朝は天気が回復に向かい、ややもやがかってはいるものの、晴れ間が見え始めていました。
とにかく暖かい。ダウンジャケットの上にマフラーをはおって関空から乗り込んだ僕には暖かいを通り越して暑かった!なんだか別世界に感じられました。
車の中で今回の名護市長選について、北上田さんからお話を伺いました。名護ではこれまで何度も選挙戦が繰り広げられており、基地反対派と賛成派の固定票がすでにあって、残りの浮動票をめぐる攻防が繰り広げられてきたのだそうです。
ところが今回は自民党の「重鎮」たちの多くが、基地反対を明確に掲げている稲峰さんの支援に回った。安倍政権の沖縄自民党の意向を上からつぶしにかかったあり方への怒りからです。
僕は安倍政権の強権姿勢は、必ずや多くの人々の反発を生みだし、かえって民衆的な覚醒が高まるのだと思ってきましたが、その一端が名護の選挙にあらわれてきたことを知ることができたように思い、嬉しくなりました。
車が高速を降りて、いよいよ辺野古に近づき、浜に出ました。車を降りて、何度も写真でみたテントを訪れました。テントの前には座り込み3582日目という表示が。いやはやすごいなあ。
この日は数名の方が詰めておられました。そのうちの一人の方は、毎日、名護市から通っておられるそうです。運転免許を持ってないので、乗り合わせてきたり、バスを使ったりしているそうです。ここに来る人には免許を持ってない方が多いのだとか。「時代への逆行ですね」などと笑いました。
お話をしていて感じるのは、この場をえんえんと守り続けてきた方たちの誇りと自信でした。それはさまざまな思いの重なりで支えられているのだと思いますが、その一つは全国の人々と強く結びついている実感でないかと思います。
訪ねた人の署名簿があり、書きこんでいると「最近、地方の議員さんがよく来られるのですよ。今日は岩手県北上市の議員さんたちがこられました」と教えてくれました。ペラペラとめくってみると本当に多彩な人々が全国から駆け付けてきている。民衆の力の連なりを感じることができました。
浜を歩いて、キャンプシュワブとの境界線まで行きました。かつてはグルグルと渦のように巻かれた有刺鉄線で区切られていたそうですが、今は米軍が作った頑丈な金網のフェンスが海の中にまで入る形で立っています。
その金網にここにこられたたくさんの方が、基地撤去を訴えるバナーを結び付けています。ときどき米兵が来てとってしまうのだそうですが、繰り返しバナーが結び付けられる。そばでみると、小さいリボンを無数に結び付けた方たちもいました。米兵がとるのを少しでもやりにくくしているのでしょう。やるなあと思いました。米兵が「めんどだなあ」と思いながら取り外している姿が目に浮かぶようで、なんだか笑ってしまいました。
金網の向こうには基地が広がっており、その内部では、埋め立てを前提とした工事がどんどん進んでいるそうです。
しかし「沖縄の人々の熱き思いと、それにつらなう全国の人々の息吹がある限り、できやしないさ」と僕もそんな民衆的な自信を感じれる気がしました。
もちろん、そのためには僕自身が努力をしなくては。ともに辺野古への滑走路建設を許さない輪に加わり続けていこうと思いました。
高江まで行くために、早々に辺野古を後にすることにしましたが、ここで辺野古を訪れていた一人の若者を高江まで車に乗せていくことになりました。彼の名はケータ君。岩手県盛岡市からきた若者で、沖縄に移住し、自然農をやりたいと飛び込んできたばかりです。
建設業で働いていたそうですが、働けば働くだけ「これは違うだろう」という思いを募らせ、どうしても沖縄に行きたくなったのだそうです。基地に反対する沖縄で自然農の経験を積み、いつかそれを岩手に還元したいのだとか。そのためにとにかく高江に行ってみたいのだとか。
「ここにもこういう素晴らしい若者がいる」と、なんだかとても嬉しくなってしまいました。現代の経済成長中心の世の中の在り方に背を向け、新しい生き方を模索する若者が今、急速に増えていることを僕は感じています。これまでの社会の在り方に魅力を感じず、基地に反対する人々の生き方に共感し、同時に土に触れ、土とともに生きる生き方に魅力を感じているのです。僕にはこれもまたこの社会が、確実に深いところから変わりつつあることの証左だと思えます。ケータ君、がんばれ!
続く
なおこの日の写真を多数Facebookページに載せています。ご覧ください。
https://www.facebook.com/toshiya.morita.90