明日に向けて

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明日に向けて(1868)「黒い雨 活かされなかった被爆者調査」(NHKスペシャル)から考える‐2 アメリカが核戦略維持のために黒い雨の影響を隠した!

2020年08月18日 09時00分00秒 | 明日に向けて(1701~1900)

守田です(20200818 09:00)

「黒い雨 活かされなかった被爆者調査」についての2回目の記事です。

アメリカは核戦略維持のために黒い雨など、被爆被害を無視した

今回、取材班はアメリカに飛び、なぜ黒い雨のデータが放置されたのかに迫りました。
そこで明らかにされているのは、水爆実験を繰り返すなどして核武装を進め、核戦略を強化していたアメリカが、「被曝の安全基準」を作るため、広島と長崎で進められていた黒い雨の調査など、被爆被害調査をもみ消そうとしたことです。

この動きを主導したアメリカ原子力委員会のダナム氏がこう述べたことが紹介されています。
「もしもここでアメリカが引き下がれば、何か悪いもの、時には共産主義の色合いのものまでが、広島・長崎の被害を利用してくるだろう。そうなればアメリカは敗者となってしまうだろう。」

この問題の本質が端的に示されています。アメリカは核戦略(核武装を進め、圧倒的な暴力で世界への支配的な力を維持すること)のために、被爆者調査にブレーキをかけ、ゆがめ、事実を隠したのです。
このため被爆者の被曝被害は、長い間隠され、過小評価されてきました。今回、黒い雨訴訟で国が控訴を行ったのもこの流れの延長です。植民地日本政府は宗主国アメリカの意のままに、被爆者を抑圧し続けているのです。あまりに酷い。
日本政府を批判する人々を「反日」と名指す「ネトウヨ」なども、日本住民を大量虐殺したアメリカ政府に卑屈に追従し、被爆者を圧迫する日本政府を黙認しているだけ。この国の人々を愛する気持ちなどどこにも感じられない・・・。

以下、番組の文字起こしの2回目をお送りします。


被曝の安全基準作りが目的だったとセオドア・ロックウェル氏

*****

「黒い雨 活かされなかった被爆者調査」
2012.8.6NHKスペシャル
http://www.at-douga.com/?p=5774
16分11秒から37分00秒まで

「被曝の安全基準」を作るために黒い雨の調査データは隠された

今、放影研から調査記録を取り寄せる被爆者が相次いでいます。私たちは今回、被爆者の承諾を得て、53人分の調査記録を集めました。被爆者自身、初めて眼にする黒い雨の確かな記録です。
中には、発熱や下痢など、複数の急性症状が、爆心地から5キロの場所にいたにもかかわらず、強く出ていたという記録もありました。
調査を行ったABCCは、黒い雨のデータを集めておきながら、なぜ詳しく調べることなく眠らせていたのか。私たちは調査を主導していたアメリカを取材することにしました。

映像 アメリカ・ワシントン

ABCCに資金を提供し、大きな影響力を持っていたのが、原子力委員会(現エネルギー省)です。
戦時中、原爆を開発したマンハッタン計画を引き継ぎ、核兵器の開発と、原子力の平和利用を、同時に進めていました。

被爆者の調査がはじまったのは1950年代。
「核分裂物質が人類の平和のために使われるだろう」(アイゼンハワー大統領)

アイゼンハワー大統領の演説を受け、原子力の平和利用に乗り出したアメリカ。
しかし核実験を繰り返した結果、国内で被曝への不安が高まり、対処する必要に迫られていました。
原子力委員会の意向を受け、ABCCは被曝の安全基準を作る研究にとりかかります。被爆者93,000人について、被曝した状況と健康被害を調べて、データ化する作業がいっせいに始まりました。

当時の原子力委員会の内情を知る人物が、取材に応じました。セオドア・ロックウェル氏、90歳です。
戦時中、広島原爆の開発に参加したロックウェル氏は、原子力委員会で、原子炉の実用化を進めていました。
安全基準を一日も早く作ることを求められる中で、黒い雨など、残留放射線について調べる気は初めからなかったといいます。
「被爆者のデータは絶対的な被ばくの安全基準を作るためのものだと最初から決まっていました。残留放射線について詳しく調査するなんてなんの役にも立ちません。」


広島・長崎の被害報告を抑えこめ(原子力安全委員会)

さらに私たちは残留放射線の問題に対する原子力委員会の強い姿勢を示す資料にいきあたりました。
「これは原子力委員会からの手紙です。1955年のものです。」

手紙を書いたのは、原子力委員会の幹部だったチャールズ・ダナム氏。調査を始めるにあたって、学術機関のトップにこう説明していました。
「広島と長崎の被害について、誤解を招く恐れのある、根拠の希薄な報告を抑え込まなければならない。」

ダナム氏が抑え込もうとしていた報告とは何か。
ちょうどそのころ、広島のABCCで残留放射線の影響を指摘する報告書が出されていました。
「広島における残留放射線とその症状」。報告書を書いたのは、ローウェル・ウッドベリー博士。広島のABCCで統計部長を務めていました。
報告書の中で博士はまず、黒い雨など残留放射線の影響は低いとした当時の測定結果に疑問を投げかけています。
原爆投下の1ヵ月後、巨大な台風が広島を直撃。ほとんどの調査はそのあとに行われ、測定値が正確でなかった可能性があると指摘しています。

「台風による激しい雨と、それに伴う洪水によって、放射性物質の多くは洗い流されたのかもしれない。」
ウッドベリー博士は、実際の被曝線量は、健康被害が出るほど高いレベルだったのではないかとと考えたのです。

その根拠として、ある女性の調査記録を示しています。
下痢や発熱そして脱毛など、九つもの急性症状が出たことをあげ、黒い雨など、残留放射線の影響ではないかと指摘しています。
「女性が被曝した4930メートルの距離では、初期放射線をほとんど受けていないはずだ。女性は市内をさまよっている間、黒い雨が降った地域を数回通っている。
この領域の放射線量が高ければ、症状が出るほどの被曝をしていたかもしれない。」

女性の名前は栗原明子(くりはらめいこ)。取材を進めると、この女性が今も広島にいることが分かりました。
栗原明子さん。86歳です。当時、ABCCに事務員として務めていたため、ウッドベリー博士の調査の対象にもなっていました。
原爆が投下されたとき、爆心地から5キロの場所にいた栗原さん。その後、市の中心部にあった自宅に戻り、激しい急性症状が出たのです。

「髪をといたら、櫛にいっぱい髪の毛がついてくるから、これはおかしいね思て、髪の毛が大分抜けましたね。」
しかし残留放射線の影響をうたがっていたのは、ウッドベリー博士だけで、ほかの研究者に急性症状のことを話しても、まったく相手にされなかったといいます。
「怒ったように言われましたね。絶対にありえないいうて。二次被曝というようなことは絶対にありえないからって断言されました。
矛盾しているなあ思ったんですけれど、本当に私も体験して、他にも体験した人をたくさん知ってましたからね。なぜそれは違うんかなあと思って、不思議でしかたがなかったんですけれども」。


「二次被曝というようなことは絶対にありえないからって断言されました」と語る栗原明子さん


水爆実験による「反米感情」「反核の意識」を抑えこむために

ウッドベリー博士が報告書を書いた直前、アメリカは太平洋のビキニ環礁で水爆実験を行っていました。
日本のマグロ漁船、第五福竜丸が、放射性物質を含んだいわゆる「死の灰」を浴び、乗組員が被曝。死の灰の一部は日本にも達し、人々に不安が広がっていました。

当時のテレビニュースより
「一方、青果市場には、おなじみのガイガーカウンターが出動しました。青物をしらみつぶしに検査しましたが、ここでも心配顔が増えるばかりです。」


市場で行われたガイガーカウンターによる測定を不安げに見つめる人々 当時のニュース映像より

ウッドベリー博士の報告書より
「最近、日本の漁師が、水爆実験による死の灰で被曝するという不幸な事件が起きた。今、広島・長崎の残留放射線に対する関心が、再び高まっている。この問題は、より詳細な調査を必要としているのだ。」

原子力委員会のダナム氏は、こうした主張こそ、東西冷戦の最中にあったアメリカの立場を悪くするものだと警告します。
第五福竜丸事件の後、日本で反米感情と、反核の意識が高まっていました。島では第1回、原水爆禁止世界大会が開かれ、被爆者が被害の実態と核の廃絶を訴えはじめていました。


核実験反対を訴えるデモのひとこま

ダナム氏
「もしもここでアメリカが引き下がれば、何か悪いもの、時には共産主義の色合いのものまでが、広島・長崎の被害を利用してくるだろう。そうなればアメリカは敗者となってしまうだろう。」(ダナム氏)
被害の訴えに強く対処すべきだという考えは、原子力委員会の中であたりまえになっていたとロックウェル氏はいいます。
ロックウェル氏
「放射線被害について人々が主張すればするほどそれを根拠に原子力に反対する人が増えてきます。少なくとも混乱は生じ核はこれまで言われてきた以上に危険だという考えが広まります。
私もアイゼンハワー大統領も考えていたように、原子力はアメリカにとって重要であり、原子力開発にとって妨げになるものは何であれ問題だったのです。」

1958年11月、原子力委員会の会議にダナム氏と、広島から呼び寄せられたウッドベリー博士が出席。残留放射線の問題が議論されました。
議事録は公開されていません。分かっているのは、会議の1ヵ月後、ウッドベリー博士が、ABCCを辞職したことです。
ウッドベリー博士の報告書には、こんな一説が残されています。
「この問題はほとんど関心がもたれていない。私が思うに、何度も何度も、研究の対象としてよみがえっては、何ら看取られることなく、静かに葬り去られているのだ。」

ウッドベリー博士が、報告書の中で残留放射線の影響を指摘した栗原明子さんです。
戦後、貧血や白内障など、さまざまな体調不良に悩まされ続けました。しかし被曝直後の急性症状も、その後の体調不良も、その後の研究で省みられることはありませんでした。

1975年、ABCCは組織改正されます。日本も運営に加わる日米共同の研究機関、放射線影響研究所が発足しました。
研究の目的に被爆者の健康維持や福祉に貢献することも加えられました。ABCCの調査を引き継ぎ、被爆者の協力のもと、放射線が人体に与える影響を研究しています。

国は放影研の調査結果をもとに、被爆者の救済にあたってきました。原爆による病気と認められた人に医療手当てを支給する原爆症の認定制度です。
救済の対象は実質、初期放射線量が100mSvを越える2キロ以内。残留放射線の影響はほとんど考慮されてきませんでした。原爆症と認められている人は、現在、被爆者全体のわずか4%、8000人にとどまっています。


原爆症認定は2012年で被爆者の4%にしか認められていない

続く

#黒い雨 #ABCC #放射線影響研究所 #内部被曝 #ウッドベリー #原爆症認定訴訟

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