昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

ポエム・ポエム・ポエム =番外編= ~罪と罰~

2021-03-26 08:00:36 | 
神は、常にそばにいてくださる。
そして、正しき道へと導いてくださる。
しかし、愚かにも人間は
それを、その手を邪険にはらい
己の、欲望のままに生きてしまう。

神は、いち度のあやまちを許してくださる。
神は、に度のあやまちを許してくださる。
神は、さん度のあやまちを許してくださる。
神は、よん度のご度のあやまちを許してくださる。
そして神は、六度目のあやまちを許して下る。

なれど、あやまちを犯した人間は罰を受けねばならぬ。
現世での罰をうけねばならぬ。
現世での罪は現世で清めねばならぬ。
獄界に行きたければ、それも良し。
獄界で罰をうけたくば、それも良し。

-己の罪深さは、己自身が良く知るもの。
ならばそれは、己の罰は、己が決めよ。


(背景と解説)

この頃は、ゲーテ作の「ファウスト」とかダンテ作の「神曲」などに被れていた時期ではなかったかと、そう思うんですよ。
「正直者であろう」。「愚か者で居よう」。「痴呆者を崇めよう」。本気でそう考えていたようなんです。
ドストエフスキーの「白痴」やら、トルストイの作品を読み耽っていた時期でもあったろう、そう思うんですよね。
拙作である「狂い人の世界」観は、この頃に培われたものです。
実際のところは、真逆の人間でしたけどね。
嘘つきで小賢しく立ち回って、偽善者だったと思います。
RollingAgeだなどと、自分を擁護したりしていました。

でね、最後の「己の罪深さは……己が決めよ」という一節は、自分自身に向けた、最後通牒のようなものだったと思います。
まあ確かに、自分のことは自分が知っているんでしょうけど、ほんとの意味で、知っているとは言えないかもしれませんね。
変な言い方になってしまいましたが、どう言ったらいいんでしょうか。
こう考えたならばどうでしょう。
本音と建て前、日本人は上手に使い分けると思うんです。
わたし自身なんかも、日常でよく使い分けていますし。
本音の部分だけがわたし自身だと言い切れるでしょうか。

建前があるとしたら、その一部、あるいはそのどこかにわたし自身が隠れているとは言えないでしょうか。
建前=きれい事と捉えがちですが、あながちそれだけではないでしょう。
「悪ぶる」ことって、ありませんか? 
……いや、違うな。わたしの言いたいことではないな。
論点がずれちゃったな。
すみのせん、うまく表現ができません。後日の宿題とさせてくださいな。


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