昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

水たまりの中の青空 ~第一部~ (八十九)

2021-03-25 08:00:34 | 物語り
 酒の追加を命じた折に、空の徳利を下げたいという女将の言を、床の間に並べ尽くすからと拒否した武蔵だった。
女将の泣き言を聞いてみたいと言う、いたずら心からのことだったが、女将はあっさりと引き下がった。
「どうしました? 実際のところは」
「はい。番頭さんに言いつけて、他の旅館よりお借りいたしました。
お恥ずかしいことでございます」
 女将は、涼しい顔でさらりと答えた。

「ほお、そうですか。無茶な要求だと思ったのだが」
「ほんとうに。ほほほ」
 今度は、声を上げて笑う女将だった。
「気に入った! 女傑だねえ、女将は。よし! 徳利を進呈しよう。
戻り次第、手配させる。いいんだ、そうさせて欲しいんだ。
なあに、日用雑貨品は、お手の物さ」
 
「ありがとうございます、甘えさせていただきますわ」
 深々と頭を下げて武蔵の申し出を受ける女将の襟足から、そこはかとなく漂う、女の色香。
老舗旅館を背負い立つ女の、凛々しさとでも言うべきか。
武蔵の無視がザワザワと騒ぎ始めた。
「女将。ちょっと、聞きにくいことですが、答えていただけませんか?」
「あらあら、何でございましょう。怖いですわね、ほほほ」
 卑屈になることなく、正面から武蔵の視線を受け止めた。

「僕のこと、どう思いました? いや、どう思っています?」
「と、いいますと?」
「いやその。例の徳利の件では、悪印象を持たれたんじゃないか、と」
「あらあら、お気の弱いことを。
そうでございますすね、失礼を顧みませず申し上げますれば、“いけ好かない殿方”でございました」
 きっぱりと言い切った女将の目は、涼やかにそして穏やかであった。
徳利を無償提供しようという者に対する、いやそもそも客に対する返答ではない。
それでも本音をさらけ出した女将に対し、武蔵は好感以上のものを感じた。

「でも、今のわたくしには、素敵な殿方でございます。
女将としての修行をさせて頂いた、大事なお客さまでございます」
「女将。おためごかしな言い方は、やめようや。厭な客だと思われても仕方がないさ」
「いえいえ、御手洗さま。本音でございます。
確かに昨夜は厭なお客さまでございました。
でも、今朝の御手洗さまをお見かけしてわたくしの考えが間違っていたと、気付かさせて頂きました」


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