昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

水たまりの中の青空 ~第三部~ (四百三十一)

2024-07-09 08:00:15 | 物語り

「小夜子。おまえは、ヴァイオリンだ」
 突然に己のことをふられて、なんと答えれば良いのか窮してしまった。
しかし武蔵はお構いなしにことばをつづけた。
「おまえは、ビッグバンドの、いやオーケストラのといっても良い、ヴァイオリンなんだよ。
そこにいるだけで、あるだけで、光を放っている。
華やかな、存在だ。誰もがひれ伏す存在だ。
いや、ヴァイオリンがなければ成り立たない」
 あまりの褒めことばは、小夜子には面はゆい。

「やめてよ、もう。どうしたの、今日の武蔵は。
熱でもあるんじゃない?」 
 といって、熱に浮かされている節もない。
心底からのことばに聞こえる。目を見ればわかる。
しっかりとした瞳がそこにあり、そしてしっかりと小夜子を見ている。
まるですぐにも居なくなってしまう小夜子を見忘れないようにと、しっかりとめにやきつけようとしているかのごとくだ。
「やあねえ、もう。あたしはどこにも行かない、、、」

“ま、まさか……。ううん、そんなのうそよ。
いつもの、武蔵の冗談よ。あたしを悦ばせるための、いつものことじゃない”
と、激しく打ち消した。
「なあ、聞いてくれ。こんな時じゃなきゃ、お前は信じないだろう。
御手洗武蔵の、おれだけの女王さまなんだよ、おまえは。
透きとおった高音が奏でられねかと思えば、ふてぶてしい低音で突き放しにかかる。
キラキラと弾けたり、ズンズンとひびく音色もある」 

「いいから、きいてくれ。きょうは気分が良い。
ぜんぶ、ぜんぶだ、吐き出したいんだ。
なあ、覚えてるか? ベニー・グッドマン楽団を。
最初でさいごだったなあ、一緒に聞いたのは。
あれはいつだったかなあ……、」
 懐かしそうに言う武蔵だが、小夜子には覚えがない。

「どうしてだろうなあ。キャバレーの女どもなら、いくら居てもなんともないのに。
気心の知れた連中となら、どんなに騒がれても平気なのに。
あのときは、ずっと我慢してたんだ。
けどどうしても気分が悪くなって、途中で帰ってしまった。
あのときの小夜子の怒りようはすごかった。
せっかくセットした髪をクシャクシャにして。
そうだ。帝釈天みたいに髪が逆立ってみえたよ。悪かった、ほんとに」

“だれかとまちがえてる……”。怒りではなく、哀しい気持ちが一気にこみ上げてきた。
しかし武蔵の必死の声は、嘘ではないようにも聞こえた。
というよりも、閉じられたが目が開かない。
小夜子との会話なのだが、いま横にいる小夜子ではなく、夢の中で相対している小夜子に向かってのことばのように思えてきた。
“夢? いま、ゆめの中にいるの? あたしは、ここよ。武蔵のとなりにいるじゃない。
一緒のふとんに入っているじゃない。武蔵、たけぞう。あたしを見て!”



最新の画像もっと見る

コメントを投稿