意意外な彼の断りだったが、父親には頼もしく感じられた。
「そうだな。それじゃ、試験休みに入ってからにするかな」
部屋を出ようとした父親に対し、由香里が甘えた声で訴えた。
「お父さあん。息抜きに、先生とお出かけしたい。いいでしょ、ねえ」
「えっ! そんなこと、お父さんのお許しが出ないよ」
彼は、唐突な由香里のおねだりに困惑した風に、由香里をたしなめた。
「そうだな、由香里も頑張っていることだし。先生、一つ娘の我が儘を聞いてやってくれま、、、」
父親の言葉が終わらぬ内に、
「やったあ! お父さん、大好きい」と、椅子から立ち上がり叫んだ。
「そうと決まったら、早く出てって。猛勉強するから、さあ、さあ」
と、父親の背中を押した。そして、ドアを閉じると
「やったね、先生」
振り向きざまに、二本の指でVサインを作った。彼は、苦笑するだけだった。
「ええっ! まだ、帰っていない? もう九時を回ってるのに。どうしたんだろう」
バス停から走ってきた彼は、息を切らしながら舌打ちをした。灯りの点いていない部屋を見上げながら、暫く立ちすくんだ。
「こんなことなら、夕食をご馳走になるんだったな。それにしても、どうしたんだろう。
まさか、あの男性とヨリを戻したんじゃ。いやそんなことはないはずだ。
まさか、事故にあったとか。管理人に聞くか、でもなあ…」
玄関前で逡巡している彼を、訝しげな表情でアパートの住人が入って行った。
「あのお」
思わず声をかけた彼だったが、
「いえ、すみません。いいんです」と、思い直した。
ペコリと頭を下げると、肩を落として家路についた。
住人同士の付き合いのない、都会のアパートだ。聞いたところで、詮ないことだ。
変な噂が立つのが、関の山だ。牧子の不機嫌な顔が思い浮かんでくる。
まとわりついてくる蒸し暑さが、彼を更に苛立たせた。
吹き出す汗を拭おうともせず、彼は歩き続けた。
楽しそうに語らいながら歩く二人連れを、恨めしげに見つめる彼だった。
やっとの思いでアパートに辿り着いた彼は、玄関先の郵便受けに視線をやった。
いつもは空のそこに、白い封筒らしきものが見えた。
「お母さんからかな? そういえば、手紙を出していないや」
手にした封筒には、「ボクちゃんへ」とあった。
「えっ? 牧子さんからだ」
慌てて部屋に戻ると、封を開けた。
ボクちゃん
永いこと、ほったらかしでごめんね。
やっと残業から解放されると思ったのも束の間、実家に急遽帰ることになりました。
勿論、また戻ってきます。唯、いつ戻れるか…はっきりしません。
というのも、ボクちゃんには話していなかったけれども、父が痴呆状態にあるのです。
母親が介護していたのですが、無理がたたったのか寝込んでしまいました。
入院しなければならないのです。放っておくわけにもいきません。
隣のおばさんから、電話が入ったの。今から、帰ります。
ボクちゃんを一人にするのは、すごく心配です。モテモテのボクちゃんだもんネ。
ホントは、ボクちゃんに会って帰りたいけれども、そうもいきません。
ゴメンネ! なるべく早く帰ってきます。
お姉さんの部屋で、お母さんに似てる園まりのレコードでも聞いててね。
お姉さんの好きなシルビー・バルタンも聞いてくれなきゃ、厭だかんね。
戻ったら、いっぱい、いっぱい、イチャイチャしようネ。
浮気は、だめだよ。ウフフ…
大好きなボクちゃんへ 牧子より
「そうだな。それじゃ、試験休みに入ってからにするかな」
部屋を出ようとした父親に対し、由香里が甘えた声で訴えた。
「お父さあん。息抜きに、先生とお出かけしたい。いいでしょ、ねえ」
「えっ! そんなこと、お父さんのお許しが出ないよ」
彼は、唐突な由香里のおねだりに困惑した風に、由香里をたしなめた。
「そうだな、由香里も頑張っていることだし。先生、一つ娘の我が儘を聞いてやってくれま、、、」
父親の言葉が終わらぬ内に、
「やったあ! お父さん、大好きい」と、椅子から立ち上がり叫んだ。
「そうと決まったら、早く出てって。猛勉強するから、さあ、さあ」
と、父親の背中を押した。そして、ドアを閉じると
「やったね、先生」
振り向きざまに、二本の指でVサインを作った。彼は、苦笑するだけだった。
「ええっ! まだ、帰っていない? もう九時を回ってるのに。どうしたんだろう」
バス停から走ってきた彼は、息を切らしながら舌打ちをした。灯りの点いていない部屋を見上げながら、暫く立ちすくんだ。
「こんなことなら、夕食をご馳走になるんだったな。それにしても、どうしたんだろう。
まさか、あの男性とヨリを戻したんじゃ。いやそんなことはないはずだ。
まさか、事故にあったとか。管理人に聞くか、でもなあ…」
玄関前で逡巡している彼を、訝しげな表情でアパートの住人が入って行った。
「あのお」
思わず声をかけた彼だったが、
「いえ、すみません。いいんです」と、思い直した。
ペコリと頭を下げると、肩を落として家路についた。
住人同士の付き合いのない、都会のアパートだ。聞いたところで、詮ないことだ。
変な噂が立つのが、関の山だ。牧子の不機嫌な顔が思い浮かんでくる。
まとわりついてくる蒸し暑さが、彼を更に苛立たせた。
吹き出す汗を拭おうともせず、彼は歩き続けた。
楽しそうに語らいながら歩く二人連れを、恨めしげに見つめる彼だった。
やっとの思いでアパートに辿り着いた彼は、玄関先の郵便受けに視線をやった。
いつもは空のそこに、白い封筒らしきものが見えた。
「お母さんからかな? そういえば、手紙を出していないや」
手にした封筒には、「ボクちゃんへ」とあった。
「えっ? 牧子さんからだ」
慌てて部屋に戻ると、封を開けた。
ボクちゃん
永いこと、ほったらかしでごめんね。
やっと残業から解放されると思ったのも束の間、実家に急遽帰ることになりました。
勿論、また戻ってきます。唯、いつ戻れるか…はっきりしません。
というのも、ボクちゃんには話していなかったけれども、父が痴呆状態にあるのです。
母親が介護していたのですが、無理がたたったのか寝込んでしまいました。
入院しなければならないのです。放っておくわけにもいきません。
隣のおばさんから、電話が入ったの。今から、帰ります。
ボクちゃんを一人にするのは、すごく心配です。モテモテのボクちゃんだもんネ。
ホントは、ボクちゃんに会って帰りたいけれども、そうもいきません。
ゴメンネ! なるべく早く帰ってきます。
お姉さんの部屋で、お母さんに似てる園まりのレコードでも聞いててね。
お姉さんの好きなシルビー・バルタンも聞いてくれなきゃ、厭だかんね。
戻ったら、いっぱい、いっぱい、イチャイチャしようネ。
浮気は、だめだよ。ウフフ…
大好きなボクちゃんへ 牧子より
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