その日の昼すぎ、あの三郎が顔を腫れ上がらせて、明水館に転がり込んできた。
背広の袖口が破れ、ズボンには泥がこびりついている。
泥の乾き具合から見て、まだすこしの時間しか経っていないことが分かる。
騒然とした中、光子の指示の元に昨夜三郎が泊まった部屋に運び込まれた。
すぐに医者を、と光子の指示かあるものと思っていたが、聞こえたのは驚くものだった。
場に居合わせた二人の仲居に対して「他には漏らさぬように」と、厳命してきたのだ。
「お客さまのたっての希望です」ということばも付け加えられた。
一時間ほど後に、上気した表情の光子が番頭に対して「近江さまをお医者さまに診てもらうことになりましたから」と言い残して、三郎と共に出かけていった。
「行ってらっしゃいませ」と声をかけつつも、何かしら違和感のようなものを感じた。
旅館に転がり込んできた折には小さなバッグだったはずが、いまは光子の大型鞄を持ち出している。
入院も考えてのことかとも思えて、そろそろお客が着く頃だと喧嘩口の掃き掃除に入った。
(清二さんも、結局は下足番を投げ出してしまうし、男の下働きを考えなくちゃな)。
そんな思いがふつふつと湧いてきた。
夕食時になっても光子が帰ってきていないことが分かり、明水館内が騒然となった。
珠恵に番頭が呼ばれて、三郎を病院に連れて行ったと説明した。
違和感の正体はこれだったかと思いつつも、珠恵にはなにも言わなかった。
確証があるわけではないことを告げて、珠恵に心労を抱えさせるわけにはいかないのだ。
それでなくとも高齢になった珠恵の体調が優れないことを知る番頭だった。
珠恵はこのことは誰にも言わないようにと念を押し、清二にも秘密にするようにと厳命した。
そして従業員には、実家の方で大変な事態が起きたから、急虚里帰りをした、ということで収めた。
(駆け落ち? まさか今日初めて会ったはずの男と?)。
合点のいかぬ珠恵だった。そういえば訳ありのお方ですとしか、光子は言わなかった。
「時期が来たら大女将には、ぼくから話します」。
そう仰られますので、わたしの口からは、とにごす光子にそれ以上の詮索はしなかった。
ただ、権左衛門がらみのことのようですとは聞かされた。
明日にでも権左衛門を訪ねてみることにして、今夜はわたしが取り仕切らねばと帯を締め直した。
二人が京都駅に降り立ったときに、突然に三郎が
「光子さん、すまない。この町では暮らせない。ちょっとしたことがあって。
いや大丈夫、すぐになんとかするから。どう? このまま大阪まで行くというのは。大阪には……」。
妙に落ち着かない表情で――キョロキョロと辺りを見回して、誰かにみられては大変といった態度を取りだした。
実のところ光子には、ある疑念が浮かんでいた。
汽車に乗り込んだ折から、しきりに光子の所持金を気にしだしたのだ。
通帳は持ってきたかと念を押す。理由を尋ねてもごまかしの言葉を吐くだけではっきりとしない。
そもそもが、権左衛門の親戚筋だということも怪しくなってきた。
大けがの理由を尋ねると「隠れて大おじさんを見ようとしたのだけれども、通行人に怪しまれて」と言う。
しかし権左衛門の家は通りから奥まった所にあり、通りから見える場所にない。
両側に家が建つ、私道の奥に建っているのだ。
入り込めばどこかの家を訪ねなければ、すぐに怪しまれるに決まっている。
三郎の言うとおりに物陰から中の様子をうかがおうとしても、板塀に邪魔されて無理なことだ。
しかし汽車内の光子には、そんなことはどうでも良くなっていた。
この学者である近江三郎と、新しい道を歩みたいと思ったのだ。
(疲れたわ、もう。明水館にお世話になって、十年の余。
仲居見習いとして頑張って、そして仲居にしてもらって。
忌まわしいことだったけど清二の嫁になり、必然的に若女将という居場所を与えられて。
そのあと大事な跡取り娘である清子を死なせてしまい、そのことで皆に恨まれてしまった。
いっそ出ようかとも思ったけれども、大女将に引き留められて……。
面と向かっての罵詈雑言はなくなったけれど、陰でのより陰湿な言葉がどうしても耳に入るし。
清二ときたらパチンコ狂いで逃げてばかり。そんなときに、この三郎さんが。
『辛かったならば逃げればいい。我慢の限度を超えると、心が死んでしまうものだよ。
一緒に行こう、ぼくと新しい人生を歩もうじゃないか』と言ってくれて)
しかしどうやら、京都という街に住んでいるということそして学者であるということ、それが嘘ではないかと感じ始めた。
三郎の言葉の中に、はっきりとした嘘を見抜いたわけではない。
寡黙な男で純朴な青年に見えるのだ。身なりもこざっぱりとしている。
開襟シャツと背広だけなのだが、学者ならば服装に無頓着だと思える。
三郎の口から漏れる言葉の中に、専門用語らしい外国語が出てくる。
そして必ず付け加えられる「すまない、理解できないよね。日本語に訳すことが難しくてね」という言葉。
いま思えば、何の意味も持たぬ単語のように感じられる。
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