人生の目的は音楽だ!toraのブログ

クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

岡田暁生著「音楽の危機 『第九』が歌えなくなった日」を読む ~ 新型コロナウイルス感染拡大の真っ最中だからこそ書けた危機下の音楽

2020年12月29日 07時21分32秒 | 日記

29日(火)。昨日は大掃除第3弾として風呂場とトイレを清掃しました 油汚れがないので簡単でした。ただ、今回はコロナの関係で壁面も丁寧に清掃しておきました

ということで、わが家に来てから今日で2280日目を迎え、映画「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」が興行収入324億円に到達し、「千と千尋の神隠し」(2001年)の316.8億円を抜いて日本歴代興収1位になった  というニュースを見て感想を述べるモコタロです

 

     

     「不滅の記録」を達成したわけだ!  吾峠呼世晴さんも「この世の春」ってわけね

     

         

 

昨日の夕食は「ビーフ・カレー」と「生野菜とアボカドのサラダ」です 例によって、ビーフは牛バラ肉を使いました

 

     

 

         

 

岡田暁生著「音楽の危機 『第九』が歌えなくなった日」(中公新書)を読み終わりました 岡田暁生氏は1960年、京都市生まれ。大阪大学大学院博士課程単位取得退学、大阪大学文学部助手、神戸大学発達科学部助教授を経て、現在、京都大学人文科学研究所教授。文学博士。著書にサントリー学芸賞受賞作「オペラの運命」(中公新書)をはじめ多数あり

 

     

 

本書の大部分は新型コロナに関わる緊急事態宣言下にあった2020年4月から5月にかけて執筆されています 日本では2月26日に政府から大規模イベント自粛要請が出され、次第にライブやコンサートの数が減っていき、4月7日の緊急事態宣言発令を経て、映画館も閉鎖され、いつの間にか何もなくなりました この間、クラシック・ファンの間では「果たして、三密の象徴とも言える 年末恒例の『第九』は演奏されるのだろうか?」という声があちこちで囁かれていました    著者は「まえがき」の中で次のように書いています

「コロナ禍は、まるでレントゲン写真のように、人間社会が暗黙のうちに前提としてきた『当たり前』の本質と脆さをあぶり出した 音楽も例外ではない。例えば、『音楽は人が集まらないとできない』という常識。これがどれほど危うい前提のうえに立つものか、今回の事態を通して痛々しいほど露わになった ほかにも『非常時において、音楽は遊興風俗と十把一絡げにみなされ、自粛を強いられる存在でしかない』ということ、『これまでのコンサートライブは巨万の富を生み出す一大産業だった』ということ、『大都会住人は毎日が祭りのような娯楽生活を送ってきた』ということ、『感染症対策で忌避される三密(=密閉・密集・密接)こそが音楽の母体だった』ということ、等々・・・・。本当は以前からわかっていたはずなのに、今更のようにこんなことを実感したわたしは、初めて真剣にその意味を考えるようになった

著者はそのような危機感のもと、タイトルに「音楽の危機」を、サブタイトルに「『第九』が歌えなくなった日」を掲げ、次のような章立てで本論を展開していきます

第1部 音楽とソーシャル・ディスタンス・・・巷・空間・文化

第1章 社会にとって音楽とは何か・・・「聖と俗」の共生関係

第2章 音楽家の役割について・・・聴こえない音を聴くということ

第3章 音楽の「適正距離」・・・メディアの発達と「娯楽」

《 間 奏 》 非常時下の音楽・・・第一次世界大戦の場合

第2部 コロナ後に「勝利の歌」を歌えるか・・・「近代音楽」の解体

第4章 『第九』のリミット・・・凱歌の時間図式

第5章 音楽が終わるとき・・・時間モデルの諸類型

第6章 新たな音楽を求めて・・・「ズレ」と向き合う

終 章 「場」の更新・・・音楽の原点を探して

以上のようにテーマが広範囲に及ぶため、ここでは私が興味を持った章を中心にご紹介したいと思います

最初にご紹介するのは「第3章 音楽の『適正距離』・・・メディアの発達と『娯楽』」の中の「『録楽』しかなくなった世界?」です 著者は書きます

「コロナ禍がもたらした最大の災いは『空気の共有』に対する全世界の人々の忌避感である 音楽は人と人との間の距離を縮めるために存在してきたはずだ。だから『ソーシャル・ディスタンス』を強いられては、音楽は商売あがったりになってしまうだろう 例えばシールドでステージと客席を仕切ってライブハウスを再開したとして、最初は久方ぶりの生の音楽ということで感慨もひとしおだろうが、やがてシュールレアリスム的な乖離間が生じないだろうか また、文学や美術は『孤独な鑑賞』の側面が強いが、音楽は違う それはモノではなく、空気振動をリアルタイムで共有する芸術形式だ。したがって、人と人とが空気を共有しなくなったら存在しないも同然になろう しかしまた、複数の人が空気振動を同時に共有するからこそ、音楽だけが持つあの興奮と熱狂と一体感は生まれてくる

「『コロナ禍による自粛期間中も一人自宅で音楽を熱心に聴いていた』という人もいるかもしれないが、音楽にはまったく性格が違う2種類の音楽がある 『ライブ音楽』と『メディア音楽』(電気メディアを通して聴く音楽)だ 私が『音楽が消えた』と言うときに指しているのは前者であり、自粛期間中に聴いていたという人が指しているのは後者だ。私は『ライブこそが本来(本物)の音楽なのだ』と主張しているわけではない。ライブ音楽とメディア音楽を『まったく別のもの』と考えることで初めて見えることもあると言いたいだけだ 音楽とはその場でステージと客席が一緒になって作り上げる何かではなくて、通販のパッケージのようなものだったのか? 情報伝達の利便性だけが選択基準になっていいか

と主張します 2種類の音楽を「まったく別のもの」と捉えることには合理性があります ライブには生演奏にしかない出会いや感動があり、メディア音楽(CDや配信等)には、「いつでもどこでも」気軽に観たり聴いたりできるという利便性があります それぞれの特性を理解した上で利用すれば良いのだと思います

次にサブタイトルにある「『第九』が歌えなくなった日」を扱った第4章「『第九』のリミット・・・凱歌の時間図式」をご紹介します

著者は次のように主張します

「第九で、ステージにところ狭しと合唱団やオーケストラ・メンバーを並べることで得られる圧倒的な響きの密度は、単なる音響効果にとどまらず、世界中の人々が抱き合うという友愛理念の可聴化にほかならないのである しかるに衛生上の理由から合唱メンバー間にシールドを立てたりしたら何が起きるか?『抱き合え』と歌っているのに、歌手同士はお互いよそよそしく、いつまでたっても距離を縮めようとしないという、ブラックジョークのような光景が出現するはずであろう 今やこの高邁な理念は衛生学の前に屈し、『感染リスクの高い行為』のレッテルを貼られた・・・・どう考えてもコロナ後の『第九』上演は、この悪い冗談のような現実を思い知らさせる場とならざるを得ないと感じるのだ

さて、2020年12月を迎えた今、在京オーケストラの『第九』公演は12月4日付toraブログでご紹介した通り、12月だけで約30公演に及びます 多くの公演は政府の入場制限緩和措置を受けて通常の座席配置により埋められ、合唱はアマチュア合唱団を避け、プロの合唱団でも人数を絞ったうえで挙行されています 合唱メンバーの間にはシールドは立てられていません。もちろん、これらはスーパーコンピューターのシミュレーションによる科学的なデータに基づいて実行された措置です

岡田氏は「少人数の合唱団のメンバーが ソーシャル・ディスタンスを取って、スカスカの空間で合唱を歌うなんて・・・」と否定的な考えを述べていますが、実際に聴いた新日本フィルの「第九」公演では、たった16人の合唱でしたが、ベートーヴェンの熱い理念が伝わってきました 必ずしも人数の問題ではない、と思った出来事でした

もっとも、在京オーケストラの年末の「第九」公演は、どちらかと言えば「ドル箱」的な収入源である一大イヴェントを何としても開催しないと、経営状況がおぼつかないという、苦しい台所事情が背景にあったと言うべきかもしれません

いずれにしても、「予想が外れた」からと言って、岡田氏を批判することは出来ません 今年の4~5月の時点では、年末に『第九』公演が聴けると思っていた人の方が圧倒的に少なかったはずです むしろ、「近い未来が見通せないなかで、よくぞここまで踏み込んで書いてくれました」と称賛されるべきだと思います

なお、著者は「あとがき」の中で次のように書いています

「本書の原稿はもともと、オンライン化を余儀なくされた大学の授業資料として、着想されたものだった イベント業界はこの状況下で『もつ』か、また『もたせる』ためには何が必要かについて、自分がなじんでいるジャンルに即して論じるようにーというテーマでレポートを書いてもらったが、多くの領域についての斬新な意見を聞くことができた その中で、『出来上がった作品=ステージよりもはるかに面白いのは、実はステージを作り上げていくプロセス(つまり練習)なのではないか、その部分を今までのようにクローズドにするのではなく、観客と演者とのより親密なコンタクトの機会に、あるいは聴衆が音楽家から直接いろいろ音楽について学ぶ場にできないのか、そうやってこそ、ステージと客席の熱い交流を回復させられるのではないか』という趣旨のものもかなりあった この『メイキングは完成ステージより面白い』という点は、本書の最後で論じた『通りすがり』の問題と並び、今後の打開策を考える鍵となる気がしている

この指摘は興味深いと思います 新日本フィルでは、賛助会員・維持会員になると、年に何度か本公演の前に公開リハーサルを見学することが出来ます 私はいつもこれを楽しみにしているのですが、指揮者がオーケストラとどういうやり取りをして曲を作り上げていくかが、素人ながらも分かります これなどは、典型的なメイキングの面白さです

本書はコロナ禍における『第九』の演奏論については ややタイミングがずれた感がありますが、全体として現在のクラシック音楽界が置かれた状況について良く書かれていると思います 強くお薦めします


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