23日(水)。わが家に来てから今日で3571日目を迎え、米大統領選の共和党候補のトランプ前大統領が20日、激戦州のひとつペンシルベニア州のマクドナルドで従業員のように働く姿を報道陣に公開し「私はカマラ(ハリス)より、15分長く働いた」と語り、庶民的なイメージを広げようと躍起になる姿を見せた というニュースを見て感想を述べるモコタロです
トランプはホワイトハウス行きより ホワイト案件の闇バイトで刑務所行きが似合う
昨日、夕食に「エノキダケの豚バラ巻き」「生野菜とアボカドとチーズのサラダ」「大根の味噌汁」を作りました 「エノキダケ~」は先日「アスパラ巻き」のついでに作ったら美味しかったので、今回はエノキダケだけで作ってみました 早い話が肉で野菜を巻いて焼けば良いということで、応用が利きます
佐藤正午著「つまらないものですが。~ エッセイ・コレクションⅢ 1996-2015」(岩波現代文庫)を読み終わりました 佐藤正午は1955年8月25日、長崎県佐世保市生まれ。北海道大学文学部中退。1983年「永遠の1/2」で第7回すばる文学賞を受賞 2015年「鳩の撃退法」で第6回山田風太郎賞を、17年「月の満ち欠け」で第157回直木賞を受賞。「身の上話」「Y」「彼女について知ることのすべて」など著書多数
本書は「かなりいいかげんな略歴~エッセイ・コレクションⅠ」、「佐世保で考えたこと~エッセイ・コレクションⅡ」に次ぐ第3弾です。「Y」から「鳩の撃退法」まで数々の傑作小説を著した壮年期の、軽妙洒脱なエッセイが収録されています また、本書には文庫初収録のエッセイ・書評14篇も収められています
本書を読んであらためて認識したのは、佐藤正午と音楽の関係です
1996年7月の「毎日が同じ朝に」というエッセイで、彼は次のように書いています
「いまから3年前と2年前の都合およそ2年間、僕は毎朝バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第1番と第2番を聴いていた そしてそれを聴き終わるとすぐさま長編小説の続きにとりかかった」
そうなんだ と思ってCDを聴いてみました 「無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第1番 BWV1002」はシャンドール・ヴェーグのヴァイオリンです
次に「無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番 ニ短調 ロ短調 BWV1004」をヒラリー・ハーンのヴァイオリン(デビュー・アルバム)で聴いてみました この曲の第5楽章「シャコンヌ」は単独で演奏されることも少なくありません
佐藤正午が誰の演奏で聴いていたのかは分かりませんが、実際にCDで聴いてみて、なるほど小説執筆のBGMとしてバッハは良いかもしれないと思いました
これに関連して彼は、2004年7月の「エアロスミス効果」とエッセイで次のように書いています
「一つの長編小説を書いているあいだ、1日の例外もなく、半年でも1年でも延々と繰り返す つまり毎朝1枚のCDを聴き続け、聴きたおし、聴きつぶす それが小説家としての僕の長年の習慣である。習慣というか、まあ生活の知恵みたいなものである ベルが鳴ると餌を期待して涎をながす犬のように、条件反射的に、そのアルバムがかかるといま取り組んでいる長編小説のことを考える。もっと言えば無性に続きが書きたくなる。そんな状態に自分を持ってゆく。そうやってほぼ20年、小説を書いてきた たとえば、むかし『放蕩記』という小説を書いたときにはシンディー・ローパーのアルバムを聴いた♫ 『彼女のことを知ることのすべて』という小説を書いたときはバッハ♬ で、『取り扱い注意』という小説を書いたときにはユニコーンの『服部』だった で、エアロスミスは、『Y』という小説を書いているあいだ毎日聴き続けた」
残念ながら、私はシンディー・ローパーもユニコーンも聴いたことがないので、彼がどんな内容の音楽を聴きながら小説を書いていたのか分かりません しかし、佐藤正午にとって音楽は小説を執筆するうえで なくてはならないアイテムであることが良く分かります
文章を書くことについて、佐藤正午は2001年10月の「文章の巧拙」というエッセイで次のように書いています
「20年近くこういう仕事をしてきた人間として過去を振り返って言わせてもらえれば、文章を書くうえで、ずうずうしさは大切な気がする ある程度、ではない。ある意味、でもない。文章を書き出すときの心構えとして、ずうずうしさは欠かせない条件だと思う (中略) 言葉と言葉をつなげて文章を書くこと、文と文をつなげて文章を書くことは、たとえばシャツの色柄に合わせて上着を選ぶこと、さらにスカートやズボンや靴下や靴、帽子や髪型や髪の色や眼鏡を合わせて全体としてスタイルの統一をはかることに似通ている (中略) たとえばこの1行をここに残すか削るか、この読点をここに打つか打たないか、試しに削ってみたりまた書き足してみたりしながら机の前で考えることは、この服にこのベルトをしめると印象がどう変わるか、胸もとにブローチをつけるのとつけないのとではどうか、実際につけてみたりはずしてみたりしながら鏡の前で考えることに似ている (中略) 世間で名文と言われるもの、有難がられているものにいったいどれほどの値打ちがあるのか? 結局のところ、人は個人個人の趣味やセンスで、自分の書いた文章にも評価を(下したければ)下すしかない」
上記の文中にある「たとえばこの1行をここに残すか削るか、この読点をここに打つか打たないか、試しに削ってみたりまた書き足してみたりしながら机の前で考える」ことは、自分もブログを書く上で普段からやっていることなので、よく理解できます この「推敲」という作業は小説家をはじめ文章を書くことを職業とする人たちの本来業務といっても良いルーティンですが、SNSで情報を発信するアマチュアの書き手についても共通する仕事です 読み続けてもらうには、センスを磨くしかないようです
佐藤正午ファンに限らず、文章を書くことに興味のある方にもお薦めします
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