11日(日)。昨夕はミューザ川崎で「真夏のバッハ Ⅳ ルドルフ・ルッツ パイプオルガン・リサイタル」を聴く予定でしたが、昨日早朝、山形にいる息子から夕方帰京するというメールが届いたので(さらに言えば、連日のコンサート通いで疲れが溜まってきたこともあって)川崎行きは取りやめることにしました
夕食は寿司にしましたが、息子の山形土産の地酒「初孫」をいただきました。香りが強くまろやかで美味しいお酒です
ということで、わが家に来てから今日で1593日目を迎え、トランプ米大統領は9日、対立を深める日本と韓国について「両国の関係は私たちを難しい立場に追いやっている。日韓はいつも戦っており、仲良くやっていく必要がある」と述べ、早期の関係改善を求めた というニュースを見て感想を述べるモコタロです
ツイッターでフェイクニュースを流すのは得意だけど 2国間調整は苦手のようだ
高橋源一郎著「間違いだらけの文章教室」(朝日文庫)を読み終わりました 高橋源一郎氏は1951年生まれ。作家。2019年3月まで明治学院大学教授を務める。三島由紀夫賞、伊藤整文学賞ほか多数の受賞歴あり
この本は2013年に「ぼくらの文章教室」として刊行されたものを、文庫化に際して1章を追加し、タイトルを「間違いだらけの文章教室」と変えて出版したものです
著者は「あとがき」と「『ぼくらの文章教室』改め『間違いだらけの文章教室』あとがき」の中で概略次のように書いています
「そもそも『ぼくらの文章教室』は通常の『文章教室』や『文章読本』が ”上手な”文章を書くことを目的としていることへの疑問を出発点にしている 『上手な』とは何だろう。その反対にある『下手な』文章とは。『上手な』文章とは『正しい』文章だ。『正しい』文章には、その反対にある『間違った』文章を訂正し、削除し、添削することで近づくことができる。それがたいていの『文章教室』や『文章読本』が教えてくれることだ。でも、本当にそうなのかな? ぼくは、ずっと、そのことに疑いを抱いてきた 『正しい』文章なんて、ほんとうにあるのだろうか、と。『正しい』小説や『正しい』詩なんてものはない 『面白い』小説や『素晴らしい』詩があって、『つまらない』小説や『わけのわからない』詩があるだけである 『ぼくらの文章教室』では、そのことだけを書いている」
この本は次の9つの章から構成されています
1.文章は誰のものか? それは、ぼくたちのものだ
2.都会の雑踏を文章と一緒に歩いてみよう
3.おじいちゃんが教えてくれる
4.こんなの書けない!
5.スティーブン・ジョブズの驚異の「文章」
6.「ない」ものについて書いてはいけない、「ある」ものについて書かなきゃならない
7.誰でも知っているもの、誰でも関係のあるもの、誰でも必要としているもの、必要としているどころか、それがなければ生きていけないもの、なのに、あまり、「文章」にされることのないもの
8.ぼくたち自身の「物語」
9.2012年の夏に、学生たちと
補講。2018年の冬に学生たちが「吉里吉里国憲法前文」を書く
筆者は、明治期の貧しい農婦が残したつたない遺書や鶴見俊輔が息子からの問に答えた文章などを紹介しながら、「読む者の心を強く揺さぶる」という意味で『名文』以上の文章があると語ります それと関連して、「『文章』だけではなく、およそ優れたものの多くに共通する特徴がある。それは、それを読む(「見る」、「聴く」でもかまわない)者を『絶句させる』ことだ」と語ります
肝心の「どうしたら文章がうまく書けるようになるか」については次のように書いています
「短い時間でなければ、いつか必ず文章がうまく書けるようになる方法はある ここでも何度も繰り返してきたように、文章を読むことだ それも「ただ」読むのではない。優れた文章、誰も書けないような文章、一見ふつうだけれど、読めば読むほど持っている強い力に引きずり込まれてしまうような文章、その時にはわからなくてもずっと後になって『あっ』と小さな叫び声をあげ自分が一つステップを上がった気分になってしまう文章、等々 それらを、自分の中に『しみ通らせる』ように読む(そのためには、できるだけリラックスし、『わかる』のではなく『感じられる』ようにしなければならない」
それでは「どんな文章を繰り返し読めば良いのか」については本書を買ってご確認ください しかし、実際に同じ文章を繰り返し味わいながら読むのは相当の根気が必要だと思います
今までにないアプローチからの「文章の書き方」入門書としてお薦めします
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