17日(月)。わが家に来てから今日で1536日目を迎え、日産自動車の前会長カルロス・ゴーン容疑者が、インドの自動車販売店の選定やブラジルの工場用地の取得を巡り、友人や知人への優遇が疑われる契約を日産に結ばせていたことが同社関係者の話で明らかになった というニュースを見て感想を述べるモコタロです
「友人や知人への優遇」で権力の私物化が疑われた政治家がいたような気がする
テオドール・クルレンティス指揮ムジカエテルナによるマーラー「交響曲第6番イ短調”悲劇的”」のCDを聴きました コンサートを聴く前の予習のためにCDを聴く時は、新聞や本を読みながら聴くのですが、今回はブログにアップするので、LPレコードを聴く時と同じように、左右のスピーカーを底辺とする二等辺三角形の頂点に座って、音楽だけに集中して聴きました
クルレンティスは1972年ギリシャ生まれで、ロシアのサンクトペテルブルク音楽院でヴァレリー・ゲルギエフら世界的に有名な指揮者を育てたイリア・ムーシンに指揮を学びました その縁があってか、彼はロシアで「ムジカエテルナ」というオーケストラを2004年に結成、モーツアルトの「ダ・ポンテ三部作」、ストラヴィンスキー「春の祭典」、チャイコフスキー「交響曲第6番”悲愴”」などを次々と発表、先鋭的な音楽表現でクラシック音楽界に殴り込みをかけてきました 新聞の文化欄「ディスクレビュー」に載った某音楽評論家のマーラーのディスク評によると、クルレンティスは「聴き手をいつの間にか熱狂の渦に巻き込む、ポピュラーやロックのスターのように見せてしまう新鋭の力がある」という存在です
「交響曲第6番イ短調”悲劇的”」はグスタフ・マーラー(1860-1911)が1903年から06年にかけて作曲した作品です 第1楽章「アレグロ・エネルジーコ、マ・ノン・トロッポ:激しく、しかし活発に」、第2楽章「スケルツォ:重々しく」、第3楽章「アンダンテ・モデラート」、第4楽章「フィナーレ:ソステヌート~アレグロ・モデラート~アレグロ・エネルジーコ」の4楽章から成ります 「悲劇的」というのは通称です。なお、このCDにおける演奏時間は第1楽章=24分56秒、第2楽章=12分36秒、第3楽章=15分39秒、第4楽章=31分07秒となっています
第1楽章は行進曲です クルレンティスは特別 先鋭的なことをやっているわけではありません。極めてオーソドックスなアプローチで、むしろ音楽に優しささえ感じます むしろ第2楽章の推進力が際立っています。クルレンティスはオケをグングン引っ張っていきます 彼はCDジャケットの「プログラム・ノート」にこの曲に対する自説を寄せていますが、第3楽章については次のように書いています
「このアンダンテ楽章でマーラーは自らの個人的な悲しみについて語り始める それは外的な力や出来事によって生まれた悲しみではなく、彼の本性に属する悲しみである。この悲しみは私たちが田舎を歩いていて牛や羊の首に付けられた鈴が鳴るのを聴く時に感じるのと同じ悲しみだ。それこそまさにマーラーの本質であると同時に、大昔に存在していた、フィジカル(物理的・身体的)なものを越えたメタフィジカル(形而上学的)な領域の方に向かって近づく一歩となるものでもある(中略)マーラーは他の人々には見えない美しさを見ることができ、そしてそれを人々に示すことができるのだ」
CDを聴きながらこの文章を読んで、これは小林秀雄がモーツアルトの音楽について語った「疾走する悲しみ」に共通する考えではないか、と思いました 小林秀雄はモーツアルトの悲しみは、万葉の詩人が歌った「いと かなし」の「かなしさ」であり、それは人間存在の根底の悲しみである、と書いています つまり、クルレンティスがマーラーに見い出した悲しみも、小林秀雄がモーツアルトに見い出した悲しみも、人が死んだから悲しいといった意味ではなく、自然に接した時にそこはかとなく感じる悲しさだということです。そのことを念頭に置いて聴く第3楽章は、何と優しく慈愛に満ちた美しい演奏だろうか
また、第4楽章「フィナーレ」について、クルレンティスは次のように書いています
「マーラーの音楽は慰めと絶望という二項対立を表したものではない。絶望こそが慰めをもたらすのだ マーラーは傷ついた者たちのために存在している。マーラーは私たちにこう言う。『私もまた傷ついている。でもご覧なさい、その私がここにいる。だからあなたはひとりぼっちではない。私はあなたとともにいる』と。これはある意味ではキリスト教的だ。だが第6交響曲の場合は、終楽章でカタルシスすなわち悲劇を経験したことによる精神の浄化が引き起こされる。これは、最後に聴き手が傷つけられ、打ちのめされたように感じる第9交響曲や『大地の歌』で起きることとは全く異なっている この2つの作品は崩壊によって終わる (中略)この交響曲を聴き終わったあと、聴き手が打ちのめされたように感じることはない。反対に、自分がそれまで以上に生き生きしているように、自分がそれまでよりも良くなったように感じるのだ」
クルレンティスの指揮で演奏を聴くと、第4楽章で打ち下ろされるハンマーが、人々を絶望のどん底に突き落とすためのものでなく、精神の浄化を引き起こすためのものであることが分かります
あらためて全体を通して感じることは、クルレンティス=ロックスターのような先鋭的な音楽を操る存在というのは表面的な見方で、極めて冷静な作品分析に基づく演奏を展開する正統派指揮者であると言えるのではないかということです
小杉健治著「父からの手紙」(光文社文庫)を読み終わりました 小杉健治は1947年東京生まれ。1983年「原島弁護士の処置」でオール読物推理小説新人賞を受賞しデビュー。1988年に「絆」で日本推理作家協会賞を、1990年に「土俵を走る殺意」で吉川英治文学賞新人賞をそれぞれ受賞しています
阿久津伸吉は妻と二人の子どもを捨てて失踪した しかし、残された子ども、麻美子と伸吾の元には毎月20万円が振り込まれ、誕生日ごとに父からの手紙が届いた 失踪から10年が経ち、結婚を控えた24歳の麻美子の婚約者・高樹が死体で発見され、弟の伸吾が容疑者として逮捕される 伸吾はプレイボーイの高樹との結婚に反対していた。伸吾は本当に高樹を殺したのか? 父はなぜ失踪し毎年手紙を寄こすようになったのか
この小説は、二人の人物の別々の視点から語られていきます 一人は父親が家を去った後も、誕生日ごとに励ましの手紙を受け取る麻美子です 彼女は、世話になった零細企業の山部製作所を経営危機から救うため、犠牲的な精神で意に沿わない婚約をしますが、その婚約者・高樹が殺されてしまいます もう一人は、異母兄に焼身自殺された秋山圭一です。彼はその自殺に疑いを抱く刑事・犬塚を衝動的に殺し、9年間服役しますが、出所後も兄嫁への思慕の念が経ち切れないまま過ごしています まったく接点がないこの二人が出会い、圭一の兄嫁・秋山みどりの浮気相手が麻美子の父親ではないかという疑惑から、焼身自殺した異母兄の真相をともに探るようになります そして最後に、圭一が犬塚を衝動的に殺した理由、焼身自殺の真相、父親から毎年麻美子宛に手紙が届いた理由が明らかにされます
巧みなプロットにより読者を迷宮に追い込み、最後に一気に やり切れない真相を明らかにする手法は鮮やかです 小説の根底に流れているのは「家族の絆」です
420ページを超える大作ですが、物語が複層的なので一気に読み進めることをお薦めします 最後に「してやられた」と思うこと必至です
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます