レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

To Remember and Pray

2018-03-11 04:00:00 | 日記
3月11日となりました。もう七年間が過ぎたという事実に、本当に時の過ぎ去る早さを思い知らされます。もっとも、そのように言えるのは私は直接の被災者ではなく、しばらく時が過ぎれば忘れてしまうことのできる状況にあるから、ということはあると思います。

あの日を境にして、生活の有り様、人生の設計が根本から変わってしまった方々のご苦労は想像するのも難しい気がします。

生命を落とされた犠牲者の皆さんには心よりの哀悼を表したく、またご家族や友人を亡くされた方、被害に遭われ沈痛な体験をしいられた皆さんには、深いお見舞いを申し上げたく存じます。




Myndin er ur teach311.org



「震災後は終わっていない」「終わらせてはならない」ということを目にすることがあります。ネットで調べたかぎりでは、いまだに約十三万の人が「避難生活」をしているとのこと。

原発の再開とその是非、原発事故後の処理等も含めて考えると、多くの課題が未解決のまま日本社会の中に残されているのでしょう。時間はかかるかもしれませんが、良い方向へ、そして着実に解決が進むことを願います。海外在住の日本人としての気持ちです。

私個人としては、東日本大震災で親戚や友人が亡くなったとか、家をなくしたという人と繋がりはなかったのですが、ひとつ、後から気がつき心に引っかかっていることがあります。

もう十四年前になりますが、夏のことでした。漁業関係の仕事をしているアイスランド人から電話があり、日本のマグロ漁船の乗組員が病気で入院してしまったので、通訳を兼ねて見舞ってくれるか?と訊かれました。

それでその日のうちに病院へ出向いたのですが、病棟は精神的な疾患の治療の総合病棟。その病棟には病気の程度に合わせて三段階くらいにセクションが分かれているのですが、邦人乗組員の方は中程度の患者さんの入るセクションに入院していました。

その方Aさんは、その当時私よりすこし年配の方で五十を超えたくらいの年齢だったと思います。病気はうつ病だったのですが、航行中に程度がひどくなってしまい、船がレイキャビクに入港した際に病院へ運ばれたのでした。

マグロ漁船は、だいたい北アフリカから漁を始め、スペインから北大西洋を上ってきて、アイスランドとかを通過しカナダの方へ行き漁を続けるのだそうです。ですから、一回の漁は一年とかそれ以上の長い航海になるのだ、と別の漁師の人が話してくれたことがあります。

Aさんが乗り組んでいた漁船も、レイキャビクでの食料の買い込みとが終われば出航しなくてはなりません。Aさんだけがレイキャビクに残される形となりました。

Aさんは当然ここには知り合いとかはありませんし、言葉の問題もあるので、私は頻繁に病院へ見舞い兼通訳のような形で出向くことになりました。「頻繁に」というのははっきり言うと「毎日」でした。

これはかなりしんどい日課だったのですが、Aさんの容態がかなり重く、ひとりで残し置くのが心苦しく感じられたのです。

なにしろ会話ができなく、話しかけても時々...ポツン...と言葉が返ってくるような具合でした。それだけではなく、肉体的な運動も不自由で、身の回りのことが十分にできず、そういう手助けも必要なことがわかってきました。

幸い、もうひとりの邦人男性がサポートに加わってくれたので、私の負担も軽減したのですが、このお見舞い生活はなんと夏が終わり十月になるまで、三ヶ月に渡って続いたのです。

時が経つにつれて、Aさんの症状も回復してきました。会話も普通とまではいかなくても、当初に比べればずっと良い程度にできるようになりました。

東北の出身で、最近自宅を新築したとか、お嬢さんが結婚されたとか、個人的なお話しも聞かせていただきました。基本的に穏やかな優しい方だったので、途中で嫌にならずにお見舞いできたのだと思います。

十月になって、ようやく看護士の方と、私でない、もうひとりの邦人サポーターの付き添いで日本へ帰国できました。

住所や連絡先もいただいていたのですが、私の主義で、帰国された後は連絡はしないことにしています。結婚式とかおめでたいことの場合はその限りではありませんが、病気や事故で関わった方には、一応「線を引く」ことにしています。

それで、その後はもちろんAさんのことはいつしか頭から消えさり、忘れてしまいました。

それから七年が過ぎ、震災が起こりました。しばらくの間、ネットにかじりついてニュースを見る日々となりました。そして、ある時Aさんのことを思い出したのです。「Aさんの新築の家、確か被災地のあたりじゃなかったっけ?」

古い手帳とかを引っ張り出して、いただいたアドレスを探しました。そして見つけました。不安が的中してしまい、Aさんのご自宅は津波で壊滅的な被害を受けた町にありました。港に近い場所だし。

その後、AさんとAさんのご家族の安否はまったくわかっていません。というか、知ろうとする努力をしませんでした。その町の被害の状況をニュース映像とかで見るかぎり、Aさんのご自宅が無事であったとは考えられません。ですが、なんとかご家族と共に生き延びていて欲しい、と願いましたし、今でもそう願っています。

この思い出が、私が東北大震災に関して持っている、唯一の特定の個人に結びついた接点です。このような小さな思い出でさえ、思い返すことによって心は重く悲しくなります。

実際に身内を亡くされた方、親しい人を亡くされた方にとってはどれだけのものだろうか?と考えてしまいますが、察する域を超えてしまっています。
改めて、心よりの哀悼の気持ちとお見舞いを表したく思います。




震災後、メディアを通して、被災地の方々を含む多くの日本内外の方々が、心の琴線に触れる勇気と献身、連帯の行いをされたことを知らされていました。それらのすべてに感謝したいです。

アイスランドでも多くの人々が日本の被災地の方々のために同情を示し、祈り、さらに具体的な支援に参加してくれました。そのことも、改めて感謝したいと思います。

頑張れNippon! まだ終わってない!

アイスランド発 ガンバレNippon!



藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com

Home Page: www.toma.is

コメント
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