これまでも何度か触れてきたことですが、日本人として日本の社会と「つながっている」ことと、現実に長きに渡ってアイスランドに居住し、家庭を持って働いている、つまりは「ここで暮らしている」ということの間のバランスを保つのは、そんなに簡単なことではありません。
ネットが高度に普及している現在、身体はアイスランドにあっても、心は日本にいるような生活をすることは可能です。極端なことを言えば、こちらで何が起きているかまったく関心を持たず、こちらの友人も作らず、言葉も学ぼうとしなくても、そのままやっていけてしまう環境はあります。
これは、その人本人の人生観ややりたいことにも依りますので、「これはいい、それはダメ」のように決めつけることはできないでしょう。
また、例えば大使館の職員の方々や交換留学生の皆さんのように、定期的な移動や帰国を前提として居住している方もありますので、そのような場合にはまた話しが変わってきます。
私が念頭に置いているのは、私自身のような庶民でいて、老後はともかくとして「当面はこちらで暮らす」ことになっている場合です。私は老後もこちらで過ごすつもりですが。
私の場合は不器用で、日本とアイスランドのふたつの国を行ったり来たりしながらバランスを取ることはなかなかできません。
優れたアーティストなどになると「ニューヨークを基盤にしながら、日本でも活動を続ける」とか、よくある話しのようですね。大したものですが、きっとそれはそれでご苦労があるのでしょう。
さて、私個人に限って言いますと、仕事柄アイスランドの社会で何が起こっているのかについていくことは必要条件です。そのうえで何か言ったり行なったりしなくてはなりません。仕事の面でいえば100%アイスランドが舞台です。
私の生活での「日本」というのは、どちらかというと、日本の親戚関係と友人との付き合い、食べ物、エンターテイメント、というようなプライベート面に関わる性格が強いのです。
ですから、リラックス時間には、つまらないアイスランドの番組よりは日本のテレビが見たい、横文字の本よりは梓林太郎がいい、というようなことになっているわけです。
で、ここで気をつけないといけないのが、自分でも気付かぬうちにアイスランドの国会で何が議論の的になっているのか知らないのに、「Aska、2月22日に新アルバム発売」「江角マキコ、突如引退の影に不倫か?」なんていうニュースは詳しく知ってたりしてしまう、ということなのです。
「バランスを取るのが難しい」と言ったのはそのようなことなのですが、どうしてもアイスランド語で何かしよう、と頑張っている最中に日本語がずるずると入ってきてしまうのを防ぎきれないのです。
好きか嫌いかいう時間
Myndin er ur Youtube.com
話しが大きく脱線しました。
言いたかったことは「アイスランドで日本からの庶民が仕事をするには、アイスランド語の勉強をおろそかにはできない」ということだったのです。
これでやっと本題。(^-^;
先日放送された坂上忍さんの「好きか嫌いか言う時間」を見ました。私は長らく有吉ファンなのですが、最近坂上忍さんが上回ってお気に入りになってきました。
この番組、ご存知と思いますがスタジオに何十人かの日本在住外国人の方々が集まって、日本の文化や社会の様々なトピックを議論する仕組みです。日本について、異なった文化的背景を持つ多くの目から見た像を参考にして、考え直してみよう、という趣旨だと思います。
(多少勘違いしていました。別に毎回外国人の人が集まるわけではないようです。私が見た回がたまたま外国人を招く回だったようで。失礼いたしました)
前にも一度か二度見たことがある気がしますが、まず驚いたのは日本語の流暢な外国人が大勢いることです。そのことは他の街頭インタビューなどでも気が付いていましたが、こう大勢が一堂に会すると改めて感心させられます。
私が子供だった頃はイーデス·ハンソンさんがほとんど唯一の「日本語喋るキャラ」だった記憶があります。その頃ももっといたのでしょうが、テレビが今のようには開かれていなかったのかもしれませんね。
で、私が今回見た「好きか嫌いか言う時間」ですが、トランプ大統領の日中露への「つぶやき」がトピックのひとつだったので、かなりアツい議論となりました。
議論の内容は、まあそれなりだったと思うのですが、それより印象に残ったのは参加者が自分の日本語の能力の中で、なんとか自らの主張を伝えようとしている姿でした。十分流暢に意見を表すことができる人もいましたが、中には感情が先に立ってしまって言葉が追いつかない人もいます。
私自身、そういう状況はこちらで日常的に体験していますのでよくわかります。「言葉が自分の言いたいことに追いつかない」と自覚するとものすごくイライラしてきちゃうんですよね。でもそこを乗り越えていかないと、参加できないんですよね、議論に。
Shinobu Sakagami 最近気に入っています
Myndin er ur Ameblo.jp
私は移民の人々がそこの社会に参加することは、非常に大切なことだと考えます。ホスト社会にとっては耳の痛い話しや、やっかいな問題になることもあるでしょうが、きちんとした議論がなされているなら、益になるプラスの方が多くなるはずです。
ただ、移民の人たちとの議論で気をつけなくていけないことは、私たちはどうしても流暢な日本語を話す人の意見は普通に聞けても、おぼつかない日本語を話す人の場合は、その日本語の不十分さの方に気がいってしまい、何を言いたがっているのか掴み損ねてしまう、ということが起こり得ることです。
日本語の上手下手は、その人の意見や考えが良いものであるかどうかとは無関係です。日本語が流暢だからその意見も良い意見だ、なんて思ってしまったらとんでもない勘違いです。
逆に本来聞くべき意見なのに、日本語の不十分さの故にその意見が伝わらなかったら、これも残念なことです。これは意見を言う側の問題であるだけではなく、聞く側の姿勢の問題でもあると思います。
神学校時代に恩師の先生から言われたことがあります。「今はもはや英語ができるというだけでは十分ではない時代ですからね。何を言うかが問題ですよ」
その通りだと思います。意見を対等に交換する、というのが民主主義システムの基盤ですが、移民という立場にしてみれば「意見の対等な交換」は向こうから勝手に歩いてきてはくれません。その国の言葉を学ぶ、という高いハードルがあります。
不十分でもアイスランド語、日本語で話しをしようとしているのなら、その人はすでにこの高いハードルに取り組んでいるはずです。自分のちいちゃな殻に閉じ籠らず、アイスランドなり日本なりの社会に参加しようと努力しているはずです。
ですから、それを聞く側は、その人と言いたいことを理解してあげようと努めてあげるべきではないでしょうか?それも民主主義の一部ではないかと思うのですが。
応援します、若い力。Meet Iceland
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Home Page: www.toma.is
ネットが高度に普及している現在、身体はアイスランドにあっても、心は日本にいるような生活をすることは可能です。極端なことを言えば、こちらで何が起きているかまったく関心を持たず、こちらの友人も作らず、言葉も学ぼうとしなくても、そのままやっていけてしまう環境はあります。
これは、その人本人の人生観ややりたいことにも依りますので、「これはいい、それはダメ」のように決めつけることはできないでしょう。
また、例えば大使館の職員の方々や交換留学生の皆さんのように、定期的な移動や帰国を前提として居住している方もありますので、そのような場合にはまた話しが変わってきます。
私が念頭に置いているのは、私自身のような庶民でいて、老後はともかくとして「当面はこちらで暮らす」ことになっている場合です。私は老後もこちらで過ごすつもりですが。
私の場合は不器用で、日本とアイスランドのふたつの国を行ったり来たりしながらバランスを取ることはなかなかできません。
優れたアーティストなどになると「ニューヨークを基盤にしながら、日本でも活動を続ける」とか、よくある話しのようですね。大したものですが、きっとそれはそれでご苦労があるのでしょう。
さて、私個人に限って言いますと、仕事柄アイスランドの社会で何が起こっているのかについていくことは必要条件です。そのうえで何か言ったり行なったりしなくてはなりません。仕事の面でいえば100%アイスランドが舞台です。
私の生活での「日本」というのは、どちらかというと、日本の親戚関係と友人との付き合い、食べ物、エンターテイメント、というようなプライベート面に関わる性格が強いのです。
ですから、リラックス時間には、つまらないアイスランドの番組よりは日本のテレビが見たい、横文字の本よりは梓林太郎がいい、というようなことになっているわけです。
で、ここで気をつけないといけないのが、自分でも気付かぬうちにアイスランドの国会で何が議論の的になっているのか知らないのに、「Aska、2月22日に新アルバム発売」「江角マキコ、突如引退の影に不倫か?」なんていうニュースは詳しく知ってたりしてしまう、ということなのです。
「バランスを取るのが難しい」と言ったのはそのようなことなのですが、どうしてもアイスランド語で何かしよう、と頑張っている最中に日本語がずるずると入ってきてしまうのを防ぎきれないのです。
好きか嫌いかいう時間
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話しが大きく脱線しました。
言いたかったことは「アイスランドで日本からの庶民が仕事をするには、アイスランド語の勉強をおろそかにはできない」ということだったのです。
これでやっと本題。(^-^;
先日放送された坂上忍さんの「好きか嫌いか言う時間」を見ました。私は長らく有吉ファンなのですが、最近坂上忍さんが上回ってお気に入りになってきました。
この番組、ご存知と思いますがスタジオに何十人かの日本在住外国人の方々が集まって、日本の文化や社会の様々なトピックを議論する仕組みです。日本について、異なった文化的背景を持つ多くの目から見た像を参考にして、考え直してみよう、という趣旨だと思います。
(多少勘違いしていました。別に毎回外国人の人が集まるわけではないようです。私が見た回がたまたま外国人を招く回だったようで。失礼いたしました)
前にも一度か二度見たことがある気がしますが、まず驚いたのは日本語の流暢な外国人が大勢いることです。そのことは他の街頭インタビューなどでも気が付いていましたが、こう大勢が一堂に会すると改めて感心させられます。
私が子供だった頃はイーデス·ハンソンさんがほとんど唯一の「日本語喋るキャラ」だった記憶があります。その頃ももっといたのでしょうが、テレビが今のようには開かれていなかったのかもしれませんね。
で、私が今回見た「好きか嫌いか言う時間」ですが、トランプ大統領の日中露への「つぶやき」がトピックのひとつだったので、かなりアツい議論となりました。
議論の内容は、まあそれなりだったと思うのですが、それより印象に残ったのは参加者が自分の日本語の能力の中で、なんとか自らの主張を伝えようとしている姿でした。十分流暢に意見を表すことができる人もいましたが、中には感情が先に立ってしまって言葉が追いつかない人もいます。
私自身、そういう状況はこちらで日常的に体験していますのでよくわかります。「言葉が自分の言いたいことに追いつかない」と自覚するとものすごくイライラしてきちゃうんですよね。でもそこを乗り越えていかないと、参加できないんですよね、議論に。
Shinobu Sakagami 最近気に入っています
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私は移民の人々がそこの社会に参加することは、非常に大切なことだと考えます。ホスト社会にとっては耳の痛い話しや、やっかいな問題になることもあるでしょうが、きちんとした議論がなされているなら、益になるプラスの方が多くなるはずです。
ただ、移民の人たちとの議論で気をつけなくていけないことは、私たちはどうしても流暢な日本語を話す人の意見は普通に聞けても、おぼつかない日本語を話す人の場合は、その日本語の不十分さの方に気がいってしまい、何を言いたがっているのか掴み損ねてしまう、ということが起こり得ることです。
日本語の上手下手は、その人の意見や考えが良いものであるかどうかとは無関係です。日本語が流暢だからその意見も良い意見だ、なんて思ってしまったらとんでもない勘違いです。
逆に本来聞くべき意見なのに、日本語の不十分さの故にその意見が伝わらなかったら、これも残念なことです。これは意見を言う側の問題であるだけではなく、聞く側の姿勢の問題でもあると思います。
神学校時代に恩師の先生から言われたことがあります。「今はもはや英語ができるというだけでは十分ではない時代ですからね。何を言うかが問題ですよ」
その通りだと思います。意見を対等に交換する、というのが民主主義システムの基盤ですが、移民という立場にしてみれば「意見の対等な交換」は向こうから勝手に歩いてきてはくれません。その国の言葉を学ぶ、という高いハードルがあります。
不十分でもアイスランド語、日本語で話しをしようとしているのなら、その人はすでにこの高いハードルに取り組んでいるはずです。自分のちいちゃな殻に閉じ籠らず、アイスランドなり日本なりの社会に参加しようと努力しているはずです。
ですから、それを聞く側は、その人と言いたいことを理解してあげようと努めてあげるべきではないでしょうか?それも民主主義の一部ではないかと思うのですが。
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