レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

ディープだった「袖振り合うも他生の縁」

2025-02-22 21:47:22 | 日記
こんにちは/こんばんは。

お元気ですか?前回の更新から二週間以上経ってしまいました。ちょっと繁忙期?に入っていまして、この間(かん)休みをとれたのは8日の土曜日だけ。この日はこちらに在住の邦人の皆さんの新年会があったため、無理に休みにしたのでした。

幸いなことに、ここのところ天候が安定しており、気温も暖かくなっています。雪もなし。マイナス気温にはほとんどならず、時折6-7度にもなることがあります。「今季最長の寒波」真っ最中の日本の皆様には申し訳ないのですが「春〜!」感が出てきて、私も毎日半袖を着るようになっています。




ホクホク感アップ用ピック
Myndin er eftir Yves_alarie@unsplash_com


さて、今日は「私が出会う人」ということについて考えてみたいと思います。最近、ブログを通じて何人かの新しい人と知り合いになりました。その方たちとは直接にお目にかかれているわけではないのですが、SNSやメイルを通じてやり取りをさせていただいています。

例えば、三月に「ジェンダー問題」のリサーチのためにアイスランドへの小旅行を計画している高校生の方のアポ取りのお手伝いや、都内でキャンドル作りをされている方のアイスランド語での「屋号」探しをお手伝いさせていただいたりしています。

私のブログはマイナーなものですので、数は非常に限られたものなのですが、ブログをきっかけとして連絡をしてくださる方というのは以前よりあります。幾人かの方とは実際にお目にかかったこともあります。

新婚旅行の方、写真家の方、学生さん、お仕事の方。実際にはお目にかかれないSNSのお付き合いの方々も含めて、総じてこうした出会いは楽しいものが多く、感謝しています。まあ、中には人を利用する目的が見え見えの不愉快なものもありますが、そういうのは稀なケースですね、幸いにも。

「袖振り合うも他生の縁」と言いますが、このように新しい方々と知り合えると得をしたような気になりますし、人生が豊かになったような気さえします。ちなみにワタシはこれまで「他生の縁」を「多少の縁」と思い込んでいました。

「他生」とは前世のことらしく「袖が振り合うような些細な出会いも、偶然ではなく『宿縁』なのだ」ということだそうな。勘違いしてました。恥。(^-^;

そこでチラッと考えました。人とはいったい一生の間にどれくらいの人と知り合いになれるのだろうか?と。




本文とは無関係 アヒルをパンでからかう最近の娯楽
Pic by Me


もちろん、これは個人差があるでしょう。メッシや大谷さ〜んのような世界が違うような方々は別としても、学校の先生や八百屋さん、営業担当の皆さんのように基本的に新しい人たちと知り合う機会が多い環境の人もあれば、深い山の中で林業に携わる人のように真逆の環境にある人もあると思います。

「平均」を取るのが難しいのですが、別に正確なシミュレーションをする必要もありません。仮に、ある人が四歳児になってから八十五歳になるまで、毎日3人の新しい知り合いを得ることとしましょう。多分、実際よりは多めの設定です。

これは「知り合う」だけのことで、仲が良い悪いは無関係とします。またただ「知られている」は勘定せずに「お互いに名乗りあった関係」とします。

そうしますと、この人は一年間で3人x365日で1095人の知り合いを得ることとなります。これを82年間繰り返すと1095人x82年で89790人の人々とお知り合いになることになります。まあ、おまけで9万人としましょう。

これって多いのか少ないのか?凡人にとって「基準」となるものがはっきりしないので難しいのですが、例えば年賀状(というものを持ち出すと、また高齢者だなあ)を9万枚書く人はいないと思いますし、「知り合いの名前を挙げて」と言われて9万人の顔を思い浮かべる人もないでしょう。

とすると、それなりの数なんだろうと考えて良いと思います。




清涼感アップ用のピック
Myndin er eftir Andre_filipe@unsplash_com


ところがです。その「それなりの数」っていったい日本全国や世界の中ではどれくらいの「分量」なのかいな?という観点から見てみると...

まず日本。2024年の全国の総人口は1億2488万5175人だそうです。9万人を1億2489万人(5177人を繰上げ)で割ると、0,00072%に相当します。1%の千分の一以下。

続いて世界。昨年の世界の総人口は大体82億人ということです。ですから9万人を82億人で割って見ると、0,00001%という数が出てきます。1%の十万分の一。

ですから、私たちが一生の間で9万人の人と知り合いになっていたとしても、それは日本の人口の1%の千分の一以下、世界の人口の1%の十万分の一程度となるわけです。

まあ、これを知り合える人の数が大したものではないと取るか、世間様にはかくも大勢の人がいるのかと受け取るかも人によるのではないかと思います。ですが、9万人の知り合いというものが、日本や世界の中で暮らす人々のほんの一握りにも達しないくらいのものであることは確かでしょう。




本文とは無関係 最近ハマってるチャーハン作り
Pic by Me


ということはですねえ、世界人口の多さという側から見るならば、私たちの周囲にいる知り合いの方々、あるいはSNS等でお付き合いしてる方々というのは、「知り合ったことの方が普通じゃない」くらいの圧倒的少数者であることになります。

「私のために超・選ばれし者」ともいえますし、ひとりひとりが「運命的な出合い」の「宿縁」を携えているともいえるでしょう。う〜ん、「袖振り合うも他生の縁」とはなかなか奥が深い文言だったんだ...

いやあ、そう考えると周囲の知り合いの皆様、並びにオンラインでやり取りをさせていただいている皆様に対しての態度を改めないといけないですね。皆様、おひとりおひとりは私にとっての「特別な」皆様です、という態度を学ばないと...

六十六歳になっても、新たに気が付かされることというのはあるものですね。というか、この歳になるまで気が付かないっていうのが情けないのか?

というわけで、ブログの縁で連絡してくださる皆様。あなた方ももちろん「特別な」方々です。コメントしてみるか?FB申請してみよっか?と迷われている方が「もし」ありましたら、ぜひぜひそうなさってください。1%の十万分の一の特別な関係を大切にしましょう。(*FBの場合は「ブログつながりです」と添えてくださいね。 (*^^*))



*これは個人のプライベート・ブログであり、公的なアイスランド社会の広報、観光案内、あるいはアイスランド国民教会のサイトではありません。記載内容に誤りや不十分な情報が含まれることもありますし、述べられている意見はあくまで個人のものですので、ご承知おきください。


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読書ホテルの挑戦

2025-02-05 02:00:23 | 日記
こんにちは/こんばんは。




ちょっといいムード用ピック
Myndin er eftir Nicolas_J_Leclercq@unsplash_com


前回、読書に関するトピック - というかお正月にワタシがハマっていた警察小説のことをご紹介しました。

すると、以前からこのマイナーブログをよく覗いてくださっている、非常に奇特なつきみさんというご婦人からメイルをいただき、その中で最近日本で現れ始めている「読書ホテル」なるものについて教えていただきました。ありがとうございます。

「読書するためにホテル泊まんの?」と、なんとなく納得のいかないワタシはメイルの中に添えていただいた「読書ホテル」のホームページのリンクをクリックしてみました。

このリンクはつきみさんがサンプルとして添えてくださったものなので、ふたつだけ。もちろん私の実体験からの紹介とかではありません。

ひとつは箱根にある「箱根本箱」ホームページも結構手が込んでいるというか、正直ちょっとわかりにくい。(^-^;  ただ、さすが箱根だけあってちゃんとしたホテルです。

「全室に温泉露天風呂と「あの人の本箱」が付き、それぞれ異なるインテリア。1つとして同じ客室はありません。
大浴場では乳白色の硫黄泉と無⾊透明の美肌の湯、2つの泉質が楽しめます。読書に疲れたらのんびりと温泉へどうぞ。」(HPより)




前回紹介しきれなかった、最近読んだ面白本1 「名探偵の顔が良い」森晶麿
Pic by me


結構豪華な観光地ホテルじゃん! ちなみにレストランやカフェもこの水準のものが備わっているようです。

「『箱根本箱』は、本をテーマにしたインタラクティブ・メディアホテル。けっして本好きな人だけに向けたホテルではありません。
むしろ『あまり本は買わない』『最近は本はご無沙汰だなあ』という人にこそ、ぜひいらしていただきたい、“本と人との出会いの場”です」(HP より)

あまり書きすぎるとホテルの過剰宣伝になってしまいますので控えますが、要は「ホテル業」の中の定番のサービス  -食事、温泉、散歩、観光、マッサージ?等々- の中に「読書」という項目をフォーカスして加えたもののようです。

箱根本箱はこちら

もうひとつは「Lamp Light Books Hotel」 というホテルで、こちらは札幌、名古屋、福岡とみっつのホテルのチェーンのようです。

「『本を読むことは、旅をすることに似ている』なんて言いますよね。だったら、『本の世界を旅するためのホテルがあってもいいのでは』
そう、私たちは考えました。
こだわりの本をとり揃えた1階の本屋さんで、その日の一冊を選び、
読書をするためにつくられたお客様の部屋で夜通し本の世界に没頭してもらう」(HPより)




前回紹介しきれなかった、最近読んだ面白本2 「探偵は教室にいない」「探偵は友人ではない」 川澄浩平
Pic by me


こちらの方が、はじめに私がイメージしたものに近い感じで、二十四時間オープンの書店を備えており、なんというか、宿泊つきの図書館?みたいな感じかな?行ったことないので単なる想像ですが。

Lamp Light Books Hotelはこちら

はじめは奇妙に思えたのですが、よく考えてみると良い着眼点かも。今の私たちの生活って、なかなか読書をしにくいスタイルじゃないですか?PC、スマホ、ネット等々デジタルな情報がまさしく波どころか渦を巻いていますし、そういうのを遮断して読書っていうのは、それこそ決断を要する「行い」になってしまっている気がします。

そうですよね、だからワタシなんぞも「お正月休み」という機会に読書三昧したわけですし... 確かに、振り返ってみると、日々の生活の中で読書する時間は「ない」です。

若い頃は(というのが老人の枕詞だなあ)、自宅が八王子だったので都内への通学・通勤のための電車内での時間が定まった読書時間になっていました(居眠りしない限りは)。片道一時間は十分にあるのでした。今はそういうような時間はないなあ。

基本的に読書好きとそうでもない人っていうのは確かにありますよね。私は読書は好きな方だったと思います、子供の頃から。ポプラ社の「シャーロック・ホームズ・シリーズ」や出版元は忘れましたが、ルパン(ルパン三世ではない)、明智小五郎は小学生時代のお気に入り。何度も繰り返して読みました。

中学になると、岩波新書とかでの「血液型の話し」とか「心理学」「カウンセリング」とかそういう「探偵ものの」の延長にあるようなトピックにハマりました。例外は「赤毛のアン」で、これも結構な巻数を読んだ記憶があります。




前回紹介しきれなかった、最近読んだ面白本3 「本屋さんの名探偵 レジまでの推理」似鳥鶏
Pic by me


まあ、それは私の読書歴みたいなもんですが、今でも読むのは好きですね。ただし日本語でオンリー。仕事では別ですが、余暇の読書は日本語専門です。自慢しなくてもいいか。(^-^;

読書ホテルの話しに戻って、本を読むためにホテルで隔絶された時間を持とう! というのは面白い試みだと思います。でもここでクエスチョン。思いついちゃった。

だったら好きな本何冊か抱えてフツーのホテルに行けばいいじゃん?

( ... ... )      沈黙

確かにそうだけどー ... 周りの雰囲気っていうものも大事かも。自分だけだったら、きっと誘惑に負けて近隣の居酒屋とかに引っ張られるかも。スマホのゲームを開けちゃうかも。

やはり、ここは「読書に来たんだ」という意識付けとその意識をガードしてくれる環境も必要なのではないでしょうか?あとは仲間意識か?まあそれも環境の一部かもしれませんが、「ここには本好きが集まっているんだ」というような特別の繋がり感はあるかもしれませんね。

読書ホテル:まだその将来の発展は雲の中かもしれませんが、新しい試みと開拓精神は応援する価値あると思います。皆さんはどう思われますか?


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軽いノリの刑事もので始まった今年

2025-02-01 00:22:22 | 日記
こんにちは/こんばんは。

新年も早一ヶ月が過ぎてしまいました。今年の冬は、そんなに寒くはないのですが、合間にドカ雪がやってきて、屋根なしの駐車場を使っているワタシはヤリスちゃんの雪どかしに辟易しています。

レイキャビクは豪雪地帯ではありません。ニュースで見る東北地方の豪雪とは比べようもないのですが、それでも「雪化粧」以上の雪はゴメンだ、という気にさせられます。




清涼感アップ用ピック
Myndin er eftir Tom_Vinning@unsplash_com


さて今回は完璧に趣味の話しです。その趣味とは軽いミステリー小説。今年は元日からガッツリ五日間の正月休みを取りました。その五日間、何をしていたかというと読書オンリー。それも勉強になる神学書でも哲学書でもなく、何のクスリにもならない軽い警察小説。もちろん、日本のです。

ああ、でも... メンタルなクスリにはなってるかな?大切なのは「仕事に結びつかない」ということで、そうじゃないと気楽に楽しめないですからね。

今回ハマっていたのは、鳴神響一さんという作家先生の四つの警察小説シリーズです。この方のことは、失礼ながらまったく存じ上げなかたのですが、十一月に日本へ戻った際に、書店で物色していて「鎌倉署 小笠原亜澄の事件簿」というシリーズの最新刊を見つけたのです。

ヘビーじゃないライトなミステリーを探していたワタシの好みに合いそうだったので、買ってきました。現在まで六巻出ていることが見て取れたので、几帳面なワタシは第一巻と三巻、そして最新の六巻をお買い求め(第二巻は売り場になかったのです)。あまり買いすぎると、帰国の際に汗をかくことになります。最近は電子書籍もありますので、足りない巻は後からそっちで買い足せますし。

で、帰りの旅路で第一巻を読みました。まあ面白い。ただ他にもいくつか買った本があったので、二巻と最新刊は読まずに「積んどく」となっていたのでした。

物語りは、鎌倉署の亜澄とその幼馴染みの吉川元哉(きっかわもとや)の若い刑事コンビが、当然のことながら鎌倉を舞台として事件を追及していくものです。その背景の鎌倉描写が面白味のひとつですね。




札幌で買った小笠原亜澄シリーズ
Pic by me


ついでに言いますと、鳴神さんのシリーズはこの他に「神奈川県警 『ヲタク』担当 細川春菜」「警察庁ノマド調査官 朝倉真冬」「脳科学捜査官 真田夏希」とトータルで四つのシリーズを読みましたが、朝倉冬美もの以外はみんな横浜周辺が物語りの舞台となっています。おそらく鳴神さん御自身が横浜出身なのか、横浜や鎌倉のファンなのでしょう。ちなみに鎌倉についての歴史本も書かれているようですし、他に歴史小説もあるようです。

ついでのついでに、細川春菜ものは全七巻、朝倉真冬ものは全六巻、そして真田夏希ものは全二十二巻あります。ワタシこれ、その半分を正月休み中に、そして残りの半分を休み明けからの二週間で読み切りました。

私が読んだ四つのシリーズでは、主人公はすべて三十歳前後の未婚の女性。小説を読むとき、いつも知っている俳優さんとかを登場人物に重ねて読むのがワタシ流なのですが、主人公はすべて波留さんで通しました、へへ。

すべて面白かったです。基本的な構成は似通っているのですが、それでもちゃんと異なったシリーズキャラがあります。朝倉真冬ものが一番好きかな?これは横浜に囚われていないシリーズで、全国あちこちに出向いて仕事をする展開になっています。

土地の名産のグルメやお酒に関する蘊蓄もかなり含まれていて、亜澄ものでの鎌倉描写と同様に、面白さの要因となっています。

「ヲタク」担当の細川春菜ものは少し変わっています。「鉄道オタク(ヲタクと書くの?)」「テディベアオタク」「温泉オタク」「聖地オタク」とかが毎回テーマになるのですが、事件よりもそのオタクの分野の説明が長々と続く場面が多く、まあ、それも勉強かな?という感じはあります。

特に「テディベア」の話しは印象に残りましたね。テディベアなんて子グマのぬいぐるみ以上の認識はなかったのですが、やはりコレクターというものが世界中にいて、テディベア協会というものまであるそうな。

しかも、欧米の研究ではテディベアは実際に人に安心感を与えたり、幸福ホルモンを増強する働きまであるとのこと。そこでアメリカの警察の中にはパトカーに数体のテディベアが「常時待機」しているだとか。これは初耳でした。教会のワタシのオフィスにも一体お迎えしないと。(*^^*)




せっかくなので教会の雪景色
Pic by me


シリーズに共通している点も多くあります。主人公が若い女性であることはすでに述べました。あとは、「食」に重きが置かれていること。物語りはテンポがよく、そんなに凝りに凝ったどんでん返しのようなものはありません。

時々、ちょっと話しがうますぎるなあ、という向きもありますが、ワタシはイライラが嫌なので気にしません。話しが長過ぎないのも良い共通点で、三時間あれば一冊読み切れるかな、という長さですね。

あとは... 警察に対して好意的な書き方ですが、決して警察は絶対正しい、みたいなことではありません。「ノマド」の朝倉冬美シリーズでは、毎回警察内部の腐敗、汚職を摘発するというテーマが置かれています。

ちなみに「ノマド(英:nomad)とは「遊牧民」のことだそうで、そこから「決まったオフィスで仕事をするのではなく、自由に場所を変えて仕事をする人」の意味があるのだそうで。恥ずかしながらこの言葉は知りませんでした。

それから、もうひとつ付け加えるならば、人間に対して好意的な書き方かなあ、とう気がします。捜査陣の中には必ず「絶対信頼できる仲間」みたいな人が入ってきますし、犯罪者もそれなりに同情できる背景を持っていたりして。




さらにしつこく雪景色
Pic by me


ヘビーなF B Iプロファイラー小説に定番の、正真正銘のサイコ野郎とかは出てきていなかったように記憶しています。「記憶しています」って、ついこの間読んだばかりなのに曖昧ですが、プロファイラー夏希シリーズなんか、二十冊を短期間で読みましたから、全部をきちんと記憶できいない... (^-^;

というわけで、一月はちょっと遅れてやってきた恒例の「日本帰省の後でのノスタルジー期間」を鳴神響一さんのライト警察小説で楽しみました。「ノスタルジー期間」はすでに終わり、普通の日常モードに戻っていますが、亜澄ものか夏希ものの新刊が出ていないかどうか、時折チェックはしています。

もし、私のように「そんなに深刻でない刑事もの小説」をお探しの方がありましたら、ぜひ鳴神響一さんのシリーズを試してみてください。好みがありますから「絶対面白い」とは保証できませんが、気楽に読めて、読後感が気持ちいいことはかなり受け合いますよ。


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今年はヨベルの年 今年「も」だ...

2025-01-27 23:35:19 | 日記
こんにちは/こんばんは。




清涼感アップ用ピック
Myndin er eftir Daiei_Lu@unsplash_com


2025年が明けて、早くも一ヶ月が経とうとしています。皆さんにおかれましては、どうでしょうか?今年は良い年になりそうな気配ですか?それとも... ?

日本の皆様の非常に多くの方が初詣でに行かれると思います。良年の祈願ですね。日本人というのは、周囲を見回してみても -アイスランド人、アメリカ人、イラン人等が主ですが- 新年というものを非常にまじめに、シリアスに受け取る国民だと感じ入ります。

これは私自身もそうで、別に宗教的な意味付けはないのですが、なんというかDNAの中に組みこまれた性癖の一部なのではないかと考えています。

そういうDNA的に日本の文化伝統に沿った部分と、洗礼を受けてまもなく45年になるキリスト教的思考の部分が、私の中に共存しています。別に争っているわけではなく、大概の局面ではそれなりの調和をし、何ら問題はありません。

それでもやはり、違う部分はありますし、その違いを考察する中で自分にとってより良い何かを得ることもできたりします。

元日に私自身も「良い年になりますよう」と願掛けをします。まあ私は教会の牧師ですので、「願掛け」というよりは祈りですけどね。そのように願うことはとても自然な行為あるいは気持ちだと思うのです。

ですが、それでそれっきり。あとは神様仏様任せ。ということになってしまうと、結局年末の一年を振り返る時期になって、その年に良いこと、めでたいことが多かったら「良い年」、嫌なことや残念なことが多かったら「悪い年」と結論付けるだけのことになってしまいます。運任せ、というか結果論ですよね、これって。




先週の土曜の夜 日曜の前になると降る...
Pic by Me


毎年、元日に必ず読む聖書の箇所があります。宗教に関心がない方も、ちょっとだけ我慢してください。

-「主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。」
(...)
そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。- (ルカ福音書4章18b-19, 21 新共同訳)

「主の恵みの年」とあるのは、ユダヤ教の律法の中にある「ヨベルの年」と呼ばれる五十年おきに巡ってくる年のことです。この年には奴隷は解放され、また借金は帳消しにされるように、と定められています。人間生活と社会のありようの全リセットというか初期化ですね。

弱い立場にある者にはまさしく「ありがたや」の年なのですが、実際にはそのような恩赦的なことが行われたかどうかは、確かではないようです。なんでも決め手になる記述がどこにも残ってないのだとか。

それはともかく、ご自身の到来によって、そのような恩赦・解放・リセットは「実現した」とキリストは語ったのです。もちろん、私たちの生きている現実は相変わらずのわけですが、大切なことは私たちは神のそのような約束を得ているということなのです。この約束は、私たちひとりひとりの人生の「その先」で確かめることができます。




自宅の庭の木 雪化粧でちょっと綺麗
Oic by Me


で、ここで言いたいことなのですが、まず、いずれの年にも良いこと悪いことはあります。多少バランスの傾きはあるかもしれませんが、長い目で見れば半々くらいになるのが相場でしょう。

そういう中でグッドラックをただ期待し、バッドラックを心配するよりは、私は神が与えてくれる恵みを見つけていく方が大切だと考えています。キリストが言われたように「主の恵みの年」はすでに来ている。実際は毎年が「主の恵みの年」なのです。そして毎日が「主の恵みの日」

ただ、私たち人間は弱いもので、いっとき何か恵まれた出来事を神に感謝しても、ほどなくそんなことは当たり前になってしまい、「恵まれたこと」とは認識しなくなっていきます。これは宗教に関わらない一般的な傾向です。

そしてただ「恵まれている」ことの認識がなくなるだけではなく、逆に自分の生活の中の些細なトラブル、足りないこと、不満足といったことばかりが目につき始めるのです。

教会は聖人の集まりのように勘違いされている方もありますので、敢えて教会の中からの困った話しを例に取ります。

私が奉仕している教会には難民の人が多くやってきます。難民申請が審査されている間(数ヶ月から一年くらいかかります)熱心に教会の集まりに出席する人も多いです。

キリスト教の教会に行く自由がない国からきている人もありますが、彼らは「自由に、そして危険なく教会に行けるのは夢のようだ!」と喜んだりします。そして申請が許可されると、それはもう確かに「神の与えた恵み」であることを心底実感しています。




これは日曜日の教会裏玄関からの景色
Pic by Me


ところがしばらくして、通常の市民としての生活が始まると、例えば「教会の参加者の中にイヤな奴がいる。会いたくないから教会に来るのをやめる」とか言い始めたりしてしまうのです。

神が与えた大きな恵みが見えなくなってしまい、逆に「イヤな奴がいる」という実にありふれた不満足が心を占め、生活を支配してしまっているのです。本当に残念だけど、定期的にありますよ、こういうの。

自分の生活の中の恵みが見えなくなり、些細な不足と不満足が自分の生活を支配し始める。このパターンにはまっている人は、絶対に幸せな人生を送れないと思いますよ。かくゆう私自身も気付かぬうちにこの状態に陥っていることもありますし、定期的に自分を振り返ってみる必要があるでしょうね。

また少し教会的な言い回しになってしまいますが、神の恵みは絶対にここにあるのです。幸運とか不運のような運任せのものではなく、神の恵みとはもっと鉄板なのです。ですからそれが見つからないのであれば探すべきです。それでも見えないのであれば、自身のありよう、心の眼をチェックしてみるべきでしょう。

結果として、「この年は良い年だったなあ」「今年は悪い年だったよ」とかお酒の席で口にすることはありましょう。ですが良い年、悪い年を通じて私たちは恵まれたこと、感謝すべきことに囲まれているはずでしし、その反面で様々な不足、不愉快、不満足にも直面しているはずです。だって生活ってそういうものだから。

その中で、不平不満ばかりに目を奪われたり、心まで持って行かれてしまったら「良い年」も「悪い年」になってしまいかねません。私も気をつけますが、皆様もチラッとそんなことも考えてみてくださって損はないと思いますよ。


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だってまだ若いんだもん

2025-01-22 02:43:41 | 日記
こんにちは/こんばんは。




清涼感アップ用ピック
Myndin er eftir Bailey_Zindel@unsplash_com


このブログを始めたのは2012年の夏だったのですが、平均して言えば「週一」のペースで更新するリズムを保っていました。それがブログ開始十年を超えた2023年になって、三ヶ月ほどの急死、じゃない「休止」期間を作ってしまいました。

その後も一ヶ月間(ま)が空いたり、二週間空いたりということが頻繁となっていました。こうなってくると、ブログを訪ねてくださる奇特な皆さんからも「もうやる気がないんじゃないの〜?」と言われても仕方ないですよねぇ。

今年はできるだけ間が空いてしまわないように継続していきたいと考えています。サイバー攻撃がなければ... (^-^;

2023年の休止期間は、ちょっと自分の今の在り方を振り返りたいなあ、というような心持ちになったことが底辺にあったのですが、再開後のブログを読み返してみてひとつ気付くことがあります。

それは自分が高齢者になってきた、ということが割りと頻繁に言葉となって現れてきている、ということです。「自分の在り方を振り返る」なんていう心持ちになるということ自体が「老い」と関連したものなのでしょう。

それは決して「老け込む」ことと同義ではないですよ。「高齢者になってきている」という事実をどのように認識し、そのことと付き合っていくか?を考えることが、その時の自分の「在り方を考える」ことの中心にあったと思います。

そしてそれはまだ続きています。そこで今回は「老いを生きるー中間レポート」です。なんの科学的根拠にも依らない、ワタシの独断と偏見に満ち満ちた報告となります。




礼拝中に撮った写真 集中してない証拠(^-^;
Pic by me


報告その1: 年寄りは自分を年寄りとは思っていない

若い頃よりいつもこういう事例を周囲から、あるいはメディアを通して見聞きしてきました。「この間電車で座ってたら、僕の前にお爺さんが立つ状況になっちゃって、『どうぞ』って席を譲ったら『年寄り扱いするな』みたいな顔をされた」

正直言って、その頃はそういう時の「お爺さん」の気持ちは察しようがなかったです。「何だ、頑固ジジイが」という感じ。それが、今自分が六十六歳という時期を迎えて、ようやくわかり始めてきました。

これはかなりの数の同年代の皆さんに共通していることではないかと想像するのですが、私たちは「自分の頭の中では四十代の頃のマンマ」ということです。主観と客観という考え方は一般的ですが、私はここでは「主観と周囲観」という言い方をしたいと思います。

つまり、その個人が自分ではどう思っているかということと、その個人の周囲がどのようにその個人について考えているか、という視点の違いです。

今さっき書きましたように、私は(そして多くの同輩は)、自分が高齢者などとは自覚していないのです。これは強がりとかツッパリとかではなくて、単に頭の中にそういう概念がないだけなのです。だってまだ若いんだもん。




毎日教会へ詣で出てパンをねだる三匹のアヒル ドアを「カツカツ」します
Pic by me


報告その2: 高齢者は周囲が作る定義だ!

その一方で、私を取り巻く環境は別の視点を持っています。それは「だけど、オマエは事実66歳だろ!」という視点です。

昨年の11月に札幌へ帰省した際、JALのチケットにはToma,Toshikiという私の氏名の脇に「age 65(当時)」と年齢が記載されていました。ギョギョ! ですよ、まさに。私の内面的事実(まだ四十代)を冷たく否定した生物学的事実の記載です。

だからその記載を見るJALの天女様たちは、私をそういう前期高齢者の一味として(のみ)接してくれるわけです。JALのプラチナカードやらダイヤモンドカードやら他に見せる特典がないから。

これが「主観」に対しての「周囲観」です。で、世の中には「周囲観」を育てる要因が山のようにころがっています。例えば「老眼鏡」です。多くの人が歳を重ねる中で自覚する肉体的変化である「老眼」をお助けするメガネ。

アイスランドではLesglerauguレースグレールオイグと言います。直訳すると「読書メガネ」そうなんです。ここではこのメガネの必要は「老い」とは関連づけられていません。ただ単に「読書のための視力の調整」をするメガネなのです。だから誰も照れなく使えます。

最近、私がひしひしと感じさせらていることは、年齢は(特に高齢は)自分が認識することであるよりは、周囲から押し付けられる観念だ、ということです。いや「押し付けられる」は違うな。そんな悪意があるわけではないから。

「押し付けられる」と受け取ると、電車で席を譲られて怒るようなことになってしまうのでしょう。ここは単純に自分と周囲との「認識の違い」としておきましょう。悪意のないものとしても、その違いで自分の周りに心理的な柵を巡らされてしまうような気が...




教会前の駐車場からの景色
Pic by me


これに加えてさらに客観的な環境の変化というものもあります。自分の変化そのもの(歳を重ねる)ではなく、周囲の方の変化です。

例えばですねえ。私のいる教会には、地区のサービスセンターのようなものが併設されているために、結構な数の牧師さんが働いています。その中で、私もかつては「そんなに若い方ではないけど、別に上の方でもない」という状況でいました。それが、気が付けば私より年上の牧師さんはもはやひとりだけ。

当たり前のことですが、年月の中で、自分がかつて知っていた同僚の皆さんは順次お辞めになっていっているわけです。自然なことです。ところが後を埋めて入ってくる若い牧師さんたち。あんまり知らない人が多いのです。向こうもこっちを知らないし。

というわけで、ここで「知り合う」プロセスがうまくいかないと、だんだんと自分の知っている部分が少ない職場環境になっていってしまうのです。これもいいことではないですね。

人間、孤立化すると、ああでもないこうでもないと、不平不満や自己憐憫、はたまた被害妄想にまで襲われたりしますから。そうなると「だから年寄りは扱いにくい」みたいなドツボにハマることになりかねません。

ですから、ひとつには自分という存在に対しての、自分自身の認識と周囲の認識の違いがあり、その一方で確実にやってくる環境の変化というものがあります。このどちらにも賢明に対応しないと「上手に歳をとる」ということは難しくなるのでしょう。

いやあ、もう六十六年人間やってますけど、人間ってまだまだ奥が深いもんですねえ。もう一回高田純二さんの「三戒」 −歳取ったらやっちゃいけないこと− を噛み締めておきましょう。

一 自慢話しをするな
二 昔話しをするな
三 説教をするな

これらに引っかからない手段はただひとつ(かどうかは知りませんが、少なくともひとつの有効手段は)、チャレンジし続けることだと思います。仕事でも、趣味でも。まあ、それはまたの機会に。
最後にあがきの一言。だってまだ若いんだもん。(*^^*)


*これは個人のプライベート・ブログであり、公的なアイスランド社会の広報、観光案内、あるいはアイスランド国民教会のサイトではありません。記載内容に誤りや不十分な情報が含まれることもありますし、述べられている意見はあくまで個人のものですので、ご承知おきください。


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コメント (6)
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