レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

月曜日の昼下がり スーパーで偶然出会ってしまった...

2018-08-26 03:00:00 | 日記
残暑お見舞い申し上げます。「残暑見舞い」とは、立秋(今年は8月7日だったそうです)以降、「まだ暑い」感が残る時期にするものだそうです。

この週末の日本お天気をネットで見ますと、「残暑」というよりは「まだまだ酷暑中」という気がしてしますね。先週の木曜、新潟の三条市に住む友人が、Facebookで「三条市40度」と言っていましたし...

いやいや、暑いでしょうね。熱中症とか、まだまだ気をつけてください。と、ワタシは涼しいところで涼しい顔をして言っています。これは私が悪いわけではないので、ご容赦。

今回は、前回少し触れたダイエットについて書くつもりだったのですが、先週少しアイスランド的な?面白い体験をしましたので、そちらを優先させたいと思います。




経済再興の途上 レイキャビク
Myndin er ur Reykjavikurborg.is


先週の月曜日の午後のことです。月曜日というのは、多くの牧師さんにとっては「休養日」となっています。ただ日本の教会の牧師さんの場合は、月曜日も休養日にはならない、という忙しさにはまってしまっている方が多いことは承知しております。

そういう多忙を拒否する私は、月曜日に食料品の買い出しに出かけました。始めの二件の店で買い足りないものがあり、三件目のスーパーでレジの前に並んだのは、まだ午後二時前だったと思います。

私の前にはふたりくらい、後ろにもふたりくらいのお客さんが並んでいました。すぐ前のお客さんはまだ若いお母さんで、ベビーカーを押していました。ベビーカーの中は後ろからは見えませんでしたが、おそらく赤ちゃんが眠っているのでしょう。

その若いママは、買った品物をレジ袋ではなく、ベビーカーの下部に付いている小物用のラックに放り込んでいます。

こちらのレジ袋はビニール製で有料(一枚20クローナくらい)なのですが、環境保護の問題から、使用を制限するムードが世間で高まってきています。このママも無駄にお金を使いたくないか、環境保護に賛同しているのか、あるいは別にそういうことには関係なくレジ袋は必要ない、と思ったのでしょう。

ところが、カードでの支払いの時に、承認が降りなかったのです。おそらくはそのカードの期限内使用高が限度を越してしまった、ということだろうと思いました。レジの女の子がその前に「1800クローナ(くらい)」と言っているのが耳に入りましたので、1800円弱。それほどの金額ではありません。

で、ママはもう一回トライしましたがやはりダメ。「しょうがないわ」と言って、買った品物をベビーカーからレジのカウンターに戻し始めました。

私はその程度の額はキャッシュで持っていましたので(注:かなり珍しい人間になりつつあると思います。カード超普及のここでは、私の周囲には「キャッシュゼロ人間」が多いようです)、「貸してあげようか?」と迷いました。

「でも、若くて結構カワユイ女性だし、変な下心を勘ぐられるのもまずいしなあ...」とグジグジ私が迷ってしまった、その三秒間の間に、私のすぐ後ろにいた初老のマダムが「あたしが代わりに払ってあげる」とレジの女の子に申告したのです。

さすがにその若くて結構カワユイママは驚いたようで、「でも私、お金がないし、借りてもすぐに返せないからいいです」

マダムは「そんなこといいから」と問題にせず、「ちょっと失礼」と前に出てきて、自分のカードでそのママの支払いをしてあげました。

その後、私は缶詰の「もやし」四缶(生のもやしは高いのです)とグルタミンのサプリという自分のお買い物を済ませ、店を後にしました。若くて結構カワユイママは出口の前で、後ろのマダムがレジをすませるのを待っているようでしたから、おそらくその後、お礼を言ったか、お金を返す約束とかをしたことでしょう。

店を出た後で、私はなにか得をしたような、いい気分になりました。自分がママのためにお金を出さなくて済んだからではありませんよ。後ろのマダムが躊躇せずに、助けを申し出たことが、です。

前々回、「アイスランドはまだまだ『田舎社会』であって、表面上の優雅さには欠けても、内部には助け合いの暖かさがある」というようなことを書きました。今回の一件は、まさにそういう「田舎の暖かさ」の現れであると感じたのです。




この出来事載せてくれたDV紙


最近のアイスランド、経済の再興が進んでいます。それはいいことでしょうが、同時にそれは「お金」が出回ってきているということを意味します。そして「お金」は誰にとっても誘惑となります。

ここ数年来、レイキャビクは深刻な賃貸住宅不足に苦しんでいます。いや、苦しんでいるのは、賃貸住宅利用者、要するに「そうはリッチではない庶民」の人々です。中には、小さな子連れで路頭に迷いかねないような家族もあるのです。

その賃貸住宅不足の主要な原因に、住居の物件のオーナーが「ローカルへの賃貸より、ツーリスト用のゲストハウスの方が儲かる」として、それまでの賃貸住宅をGuesthouseへとどんどんリフォームしてしまったことが挙げられます。

これは一例ですが、社会が先進国化する一方で、「助け合う暖かさ」は影が薄くなり、「この社会の常識」から消えつつあるような気さえしていました。社会全体の展望としては、事実そうだろうと思います。

ですから、今回スーパーで、若いママをお助けしてくれたマダムは、そういう私の悲観的眺望に対して一矢を報いてくれたように感じたのです。マダムに感謝。「田舎の暖かさ」はまだ消えてしまったわけではなかった。

おそらく、そういう暖かさは、大抵のアイスランド人の心の中にはまだまだ残っているのでしょう。Facebookにこの出来事を簡単に紹介すると、ずいぶんlikeが付きましたし、翌日にはDVという新聞のネット版が、このことを紹介する記事を載せました。(DV紙は「家庭内暴力」とは関係ありませんよ)

その一方で気にかかったこともあります。「家に帰ってもお金ないから、返せない」: 若くて結構カワユイママはそう言っていました。ということは、カードはやはり限度額越えだったのでしょう。レジ袋を使わなかったのも節約?(これは論理の飛躍があります。もともとエコロジストかも)

先に述べた賃貸住宅難に加えて、若い世代の収入の低さも社会問題化しています。こちらでは大学で学ぶ若い人たちの多くが家庭を持っています。この世代の人たちの収入は、当然ながらバリバリとフルで仕事をしている人たちよりは劣ります。

これまでは、それでも家計のやりくりが可能であるような社会の仕組みだったのですが、現在では物価の上昇(賃貸住宅料金を含みます)や、様々な社会サービスでの自己負担料の上昇により、これらの世代の人たちの家計が火の車になることが多いようなのです。




テント暮らしを強いられるシングルマザーについて伝えるDV紙


こういうニュースを見ていると、やはり政治家や社会のトップにいる人たちにとって大切なことは「経済成長率」「より多くの海外よりの資本投下」のようなことであり、実際の庶民の生活の質の向上は魅力のないことなのだろう、と推せざるを得ません。要するに困っている人を「助けたい」とは思っていないようです。

せっかくの機会なので、DVの記事にはそういう主旨のコメントも載せてもらいました。同僚の牧師さんもコメントを加えてくれ「困っている人を助けるのは美しいことだ。でも、そういう困っている人たちが出ないような社会を作ることも、また大切なのではないか?」アーメン。ごもっとも。

社会とは生き物でしょう。いつも変化していきます。だから「昔はこうだった」と懐かしんでいるだけではダメで、いつも積極的に関与し、舵取りに口を出していく必要があります。

「舵取りに口を出す」のは直接政治に関わるものだけではないと思います。マスコミ、文壇、教育者、学生、高齢者等々、誰もが「口を出す」べきものなのです。もちろん私たち、牧師や教会関係者もです。

偶然遭遇した、スーパーでの小さな出来事。意外と心に刺さるものとなりました。でも、こういうの、好きです。


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晩夏のダイエット 晩年のダイエット?

2018-08-19 03:00:00 | 日記
八月も後半に入りました。アイスランド、特にレイキャビクでは八月は忙しい月になっています。ここ十五年くらいはずっとそうだったと思います。八月はワサワサしていました。

それが、昨今は外国からの観光客の皆さんの数が増えたことにより、それまでの八月のワサワサ感が、余計に増幅されて感じられます。

自分の町に観光客の方たちが大勢いる、というのはそれだけでワサワサした感じを与えるものですね。今まではそんなことを考えたことはありませんでしたが。すみません、京都や浅草にお住いの方。これまでワサワサさせてきました。

ちょうど前回のブログをアップした時は、「レイキャビク・プライド」という祭りの最中でした。そのハイライトは一週間前の土曜日のパレードで、今年も一万人以上の人が集まったとか。

これは、以前は、といいうか、今でも普通には「ゲイ・プライド」と呼ばれている催しで、元来はゲイの人たちの権利をアピールする目的で持たれていました。1999年から催されています。

「ゲイ」ということは主に同性愛者の人たちのことを意味してきました。ですが、彼らの権利の拡充に伴って、今では「LBGTの人たちの権利」の主張へと重点が多少シフトしてきているようです。




レイキャビクプライド メインのパレード
-Myndin er ur Hinsegindagar.is-


そして、昨日の土曜日は「レイキャビク・カルチャーナイト」Reykajvik Menningarnottというお祭りでした。「ナイト」とはいえ、朝から夜中までのお祭りで、町中で無数のイベントが持たれました。今年で23回目の開催ということですから、1996年以来でしょうか?これもすごい人出。

まあ、それはまた落ち着いてから書きたいと思います。「今起こっていることをまとめて書く」というのは、なかなか難しいものでして。(^-^;

さて、今回書くのはダイエットについてです。これも「今起こっていること」の範疇に入りますが、すでにかなりの時が流れているので大丈夫です。

私は先の四月末からダイエットをしていました。直接の理由は四月上旬の日本帰省で食べ過ぎ、72キロ超で帰国。戻ってから三日でダイエットを始めました。

ダイエットの方法は、それまでにやったことのある「朝バナナダイエット」と「野菜スープダイエット」のミックス。方法論的に特に理屈があるわけではなく、「雰囲気」のダイエットです。(^-^;

それでも、体重は短期間にある程度は落ちました。というか、一ヶ月で5キロは落ちたと思います。体重を落とすという意味ではうまくいきましたね。

当たり前といえば当たり前で、朝バナナを一本食べた後は、昼はパス。食べてもバナナか、ヨーグルトにシリアル。夜は色々な野菜を煮込んだスープと、時に魚や肉の「副菜」。夜はナッツを少々と、2〜3杯のワイン(実はもう少し?)、という具合でした。

「食事を抜く」ということ自体は、慣れていてそれほど苦にはなりません。それが健康にいいかどうかは別問題。難しかったのは、ダイエットよりはむしろ「減塩」の方でした。

「減塩」はもう咋夏から行なっているものなのですが、決して簡単にはなりません。って言うか、減塩すると自然にダイエットになるような気がします。「食物」に自然に「制限」がかかります。この辺の事情は以前書いたことがあります。

食欲の秋が 来た〜? 来な〜い?





レイキャビク カルチャーナイト
-Myndin er ur Menningarnott.is-



さて、この方法のダイエットは短期的には効果はあったものの、長く続けるにはあまり賢いものではありません。第一に「食事を抜くというのはいいことではない」と多くのダイエット専門家が口を揃えて言っています。

第二に「煮込んだ野菜スープ」というのは、煮込むことによって野菜のほとんどのビタミン等は破壊されるか、水に溶けてしまっています。だから野菜そのものは単に糖質の塊と化しているわけです。

スープを飲めば、野菜から流出した栄養分を回収できるのでしょうが、そこが「減塩」身分の辛いところ。なにしろ「コンソメ」等味付けの素、すなわち塩分はすべてスープに入っているからです。減塩するなら、スープは飲むべからず。「ラーメンを食べても汁は残せ」と同じです。

ですが、他に「こうしよう!」と思い当たる方法もなく、とにかく5キロほど体重は落とせたので、だらだらとこのあまり賢くないダイエットを続けていました。体重はだいたい67キロ前後。もう少し落としたいのですが、そこで停滞。というか、その辺が私の通常の体重ではあったのですが。




レイキャビク カルチャーナイト
-Myndin er ur Menningarnott.is-


一方で、その頃から私はボディメイキングのエクササイズを始めていました。ボディ「再」メイキングと言ったほうが正解か?老化を促進しないように、ある程度はボディエクササイズをしよう、と目覚めたわけです。

それで、エクササイズを自己流で始めながら、そういう関連のYoutubeビデオや本などを参考にして知識も集め始めました。

ボディメイキングの世界は、必然的にダイエットと結びついています。ただここでの「ダイエット」とは、「体重を落とす」「痩せる」ための食事療法というよりは、「ボディメイキングを促進する」「よっては健康を促進する」という積極的な意味でのダイエットであるようです。

ボディメイキング、あるいはボディビル関係のビデオでいつも言われるのは、「筋肉を作るのはタンパク質。だから食事はタンパク質を十分に取らなくてはいけない」ということ。

六十歳間近にして、さすがにその程度のことは承知していましたが、この歳になってティーンエイジャーのように、プロテインドリンクを飲むようなことはバカバカしさが先に立ってしまい、No thank youのつもりでした。

ところがボディビル界のレジェンド的な存在である北島達也さんによると、「高齢の人ほど十分にプロテインを取らなくてはいけない。さもないと筋肉がどんどん脆弱化し、代謝の悪化に拍車がかかる」というのです。

筋肉は、存在するだけで基礎代謝を促すので、筋肉が多いほど代謝は促進されるそうで。なぜ代謝が活発な方がいいかというと、代謝が人の摂取したカロリーを消費する最大の源だからです。

つまり代謝の良い人と悪い人が同じ量のカロリーを摂取した場合、代謝の悪い人の方がエネルギーを消費しきれず、体内に脂肪を抱え込む率が増えるのだそうです。

それを聞いてから、私もせっせとプロテインをシェイクして飲むようになりました。「プロテインは5時間しか体内に保存されない」そうで、定期的に補充した方がキンニク君の育ちが良くなるのだそうです。

そういう雑学的な知識を蓄えていくうちに、私のダイエットは「タンパク質重視、糖質回避」型になっていきました。そして、その過程で行き当たったのが「ケトジェニック・ダイエット」と呼ばれる食事法です。

これはここ十年くらいの間に(あるいはもっと前から)、欧米や日本でも注目されてきている食事法だそうで、「理論に裏打ちされた糖質制限ダイエット」ということになるようです。

今は、私のダイエットはこの「ケトジェニック方式」に拠っているのですが、次回、もう少しきちんとご紹介してみたいと思います。

まあ、正直言って、シェイプアップのためのエクササイズも相当面白くなっていますが、ダイエットもかなり面白いものがありますね。こんふたつに相関関係があるからかな?やはり何事も相手がある方がいいか?そう思うと寂しい晩夏でした。


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アイスランド−「世界の田舎」   で、いいぞ

2018-08-12 03:00:00 | 日記
ここアイスランドでは、八月の第一の週末はVerslumannahelgiヴェルスルマンナヘルギ「商人の週末」と呼ばれる月曜までの祝日。そしてその週末の後は「夏休み終わり」の感がやってきて、生活が日常に戻り始める、ということはこれまでにも何回か書いてきました。

今年はヴェルスルマンナヘルギの間は夏らしい好天に恵まれ、気温もそれなりに(13―16度)「夏らしい」ものになりました。野外どんちゃん騒ぎパーティーの愛好者の方々はさぞかし楽しんだことでしょう。羨ましくもなんともありませんが。

そのお祭り週末が明けた火曜日は、風が強くなり半袖シャツに革ジャケットで外を歩いた私は、すっかり冷えてしまいました。寒かったですよ、マジで。翌水曜日も強風。典型的な八月の天気で「大気が不安定」という言葉がいつも頭に浮かんできます。

その翌日の木曜日の晩は、レイキャビクのダウンタウンにあるTjanidチャルトゥニズ「池」のほとりで、恒例の「ヒロシマ・ナガサキを偲ぶキャンドル流し」が行われました。この日は風もおさまり、多くの人が参加しました。今年で三十四回目ということです。

昨年は雨で、私はくじけて参加しなかったのですが、今年は心改めて参加してきました。このイベントについては以前にもブログで書きましたので、よろしければご一覧を。

レイキャビク式灯籠流し




「キャンドル流し」会場の池 午後十時半からですが、十時にはまだ誰もいない


この集まりに参加すると、いつもアイスランド人の良い部分を感じる思いがします。「他人のことでも親身になる」というのか、素朴な田舎っぽい人の情愛を感じてしまうのです。

特に大掛かりな宣伝がされるわけではありませんし、凝った趣向もありません。人たちはただ来て、短いスピーチを聞き、キャンドルを灯して、静かな池の面に祈りと共に浮かべるのです。

仰々しいイベントではないが故に、むしろ心にじんわりと伝わってくるものがあります。

直接には、広島にも長崎にも、あるいは日本にも特別な関係がないであろう人たちが、この日のことを毎年覚えて、哀悼と平和への願いとお祈りを運んで来てくれる、ということは当たり前のことではないし、大切に受け取りたいと思います。

時々そこここで、そのようなアイスランド人の「田舎っぽい情愛」を感じる機会があります。家族的な情愛という言い方もできるかもしれません。「たとえ表面的に先進国の衣装を纏(まと)ったつもりでいても、衣装のほころびをつつけば、田舎社会が顔を出す」というのが、私のアイスランドに対する基本的な意見です。

この、そこここに顔を出す「田舎臭さ」が気にならないか、あるいは私のようにむしろ気に入ってしまう向きは、アイスランドとうまく折り合いをつけることができるでしょう。

そういう田舎臭さに我慢がならず、どうしてもトーキョーやニューヨークでのようなセンスで物事を運んで欲しい向きには、おそらくアイスランドは正しい場所ではないのではないか、と思います。

これはレストランやホテルでのサービスのような、表面的な事象についてだけではなく、何と言うか、社会の成り立ちから行政一般の運び方等、かなり社会生活の根本にあるもの全般に関して言えることだと考えます。

先日の水曜日に面白い話しを聞きました。いろいろな教会の有志が集まる、お昼の祈りの会に参加しました。その集まりに定期的に出席しているベンニさんというおじさんが、前日に電話してきて「どうしても会ってもらいたいシリア難民の女性がいるから」ということでした。

ベンニさんは特に親しい友だちではないのですが、いろいろと難民の手助けをしている優しいおじさんで、時々一緒に活動をすることがあるような関係の人です。




十時半にはかなりの人だかり


会の後、ベンニさんとその難民の女性の方と、三人でカフェで話しをする時間を持ちました。この女性アイラさんは、シリアにいた時から聖書に関心を持ったそうで、難民となって滞在していたギリシャでクリスチャンになりました。

で、ベンニさんは、アイラさんが孤独にならないようにと、教会の中で親しい友だちを見出しやすいような環境を探してあげていたのです。

教会の集会というものは、いろいろな仕方で無数に持たれているのですが、それらの中で、アイラさんが最も居心地がよくなるのはどこか?とベンニさんなりに、助力したかったようです。

私は、アイラさんは市の真ん中にある、ある教会の英語礼拝に参加している、と聞いていたので、そこでいいじゃないか?と思ったのですが、ベンニさんは気に入らないらしく、「あそこの英語の礼拝に来る人は、来ては去る、という性格が強く、あまり継続した親交が持てない」と言うのです。これは初耳。

さらに同じその教会のアイスランド語での礼拝については「そこは私自身の教会だし、いいんですけどね。ただ、あそこはみっつかよっつの『家族』によって形成された集会なので、外から来た者は入りにくいというか、入れない部分があるんです」へー、なるほど。これも初耳。

「でも他の国民教会のあちこちの集会を見ても同じだと思う。昔からいる『家族』が中心に座っていて、それ以上の『コミュニティ』が成長しないところが多いように思うんだ」そう。これは初耳ではなく、私も実体験してきました。

で、私が口をはさみました。「教会というよりは、アイスランドの社会そのものがそういう感じしますよ」

つまり、これは私がいうところの「田舎臭さ」の一面でしょうし、ネガティブな方向の局面だと思います。「内側」に入ってしまえば、居心地は良くなるのですが、「外側」にいるうちは、「内側」にいる連中の気の利かなさにイライラしたり、閉め出されたような疎外感を感じたりしてしまうのです。

まあ、新来者が疎外感を持たされたり、イライラさせられてしまうことはよくないことですし、これはいくら言い訳を連ねても正当化されません。アイスランド社会の改めていくべき点だと思います。

ですが、その一方で、今あるこの「田舎臭さ」そのものが損なわれないように、ということも私は願っています。何というか、均一のマニュアル的な「洗練さ」や「スマートさ」が入ってくることによって、これまでのアイスランド社会が「地」で持っていた温か味や人間味が損なわれて欲しくはない、と思うのです。




午後十一時には懐かしい闇が訪れます


要するにうわべは丁寧で、礼儀正しく感じ良いのだけど、実際にはそう振舞っているだけで、なんの実際の心もそこに付いて行っていない、というようなことです。

まあ、「都会」とされるところの大方ではそのようなことが現実になっていると思っていますが。すべてではないでしょう、ということは付け加えておきますが。

私は都会が嫌いなわけではありませんし、むしろ都会好きな方なんですけどね。でも、ここがトーキョーやニューヨークのようになって欲しいとは思いません。そうなったら、そこはアイスランドではないですから。規模の問題というよりは、... 生活の基盤、社会の組み立て方の問題だろうと思いますが。

先述のシリア難民のアイラさんですが、うまく教会に溶け込んでサポートを受けることができるよう願います。アイスランドの「田舎臭さ」が出てくれますよう。相当な辛い出来事をくぐってきたようなので、この地で新しい生活の基を据えてくれることを、おそらく周囲の誰もが望んでくれるでしょう。

アイスランド、「世界の田舎」で居続けて欲しいものです。


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「なりきり」ボッシュ刑事の短い夏休み

2018-08-05 03:00:00 | 日記
八月を迎えています。日本では八月はまさしく「夏の真只中」の感がありますね。ですが、ここアイスランドでは八月はすでに「夏の終わり」を運んでくる月なんです。

この時期には、夜も十時を周りますと、辺りは相当暗くなってきます。ふと目を窓の外にやると「あれ!? もう暗いじゃん」とか気がつき、驚かされます。夏至から一ヶ月以上経っているのでうから、当たり前ではあるのですが、明るい夜に慣れてしまった自分の意識の方が不意をつかれてしまうわけです。

八月の第一の週末、つまり今のこの週末はVerslumannahelgiヴェルスルマンナヘルギ(商人の週末)と呼ばれ、明日の月曜日にかけての祝日となっています。野外どんちゃん騒ぎの週末なのですが、この週末が終わると「夏も終わった」感が一気にやって来ます。

この週末に関しては以前にも書きましたのでそちらも参照してみてください。

八月のアイスランド「準備中」




有名になった?ウェスターン諸島での野外パーティー
Myndin er ur Visir.is/VILHELM


私はこの夏は長い夏休みを取らないつもりでしたが、それでも七月の最後の週からこの週末が終わるまでは「休みにしようか?」と考えていました。多少の気分転換は誰でも必要ですし、周囲が「夏休みの最後のあがき」的な雰囲気になっているので、落ち着いて仕事に向き合えないのです。

そのような中途半端な状況だったら、お休み宣言して気を楽にした方が良い、とこれまでの経験から学んだわけです。「7月25日から二週間は夏休みにしよう」と。

日本の皆さんからすれば、それでも十分に長い夏休みでしょうが、こちらではこれは普通の夏休みの半分に過ぎません。ですが、私は日本へ戻る計画が別にありますので、これで十分。

ところが、いくつかしなければならない事項が出て来てしまい、結局お休みに入れたのは7月30日の月曜日になりました。ちょうど二ヶ月ほど居候していた息子が、新しい住居へ移って出ていく時だったので、いろいろ手伝いもあり、まあ休みにした甲斐がありました。

ところが同時進行で、月曜の夜からいろいろ相談事が入ってきたりして、あまり休みに没頭はできません。で、少し迷ったのですが、木曜日には夏休みを切り上げて、仕事をまた始めました。(^-^; 結果、足かけ五日間の夏休みとなりました。

まあ、この夏は過去三年間の夏のように、仕事がわんさかとはなかったこともあり、結構のんびり目の夏を過ごしていましたから、それほど「夏休みが欲しい」というところまで追い込まれていなかった、という前提はあります。

その上で夏休みを切り上げることにした第一の理由は、やはり仕事の必要があることです。いろいろな相談事が五月雨のように流れ込んでくるのは、牧師や、お医者さん、弁護士さんのように、人の相談に乗ることを生業としている方々には共通のことでしょう。

それでも、例えば歯が痛くなったら歯医者さんに頼らざるを得ませんよね。比べて、牧師さんのところへ流れ込む相談事は、歯医者さんの場合の歯痛の痛みを処置するという問題の解決よりは、「問題があることを聞いてもらいたい」というものの方が多いように思います。解決そのものを求めるのではなくて。

そういう場合でも「夏休み中だから遠慮しておこう」とはなかなか考えてはくれないようなのが、つらいところです。「強制送還の通告を受けた」とか「滞在許可が認められなかった」とかいうが多いのですが、牧師はそれらの問題になんの直接的な解決も与えることはできません。しかし本人にとっては大問題ですから、話さざるを得ないのです。

そういう事情はありましたが、それが夏休みを切り上げた理由ではありません。理由は五人ほど、新しい難民申請者の人たちが教会を頼って来たからです。




「難民の人たちと共にする祈りの会」の一コマ


この人たちはすでに洗礼を受けているクリスチャンが四人、そうではない人がひとりです。私が責任を持っている「難民の人たちと共にする祈りの会」は、まさにそういう人たちのことをまずもって考えて持たれています。

で、そのような時に「悪いけど、今週は夏休みだから」と言って、教会へ迎えるのを先延ばしにするのは、好ましくありません。特に、この国に来てまだ間も無く、右も左もわからない人に対しては、致命的に良くないことと言っても良いでしょう。

というわけで、夏休み切り上げの第一の直接の理由は、この五人の人たちを放ってはおけないからということでした。なんというか、むしろやる気がムクムクと湧いてくるのです、こういう状況に出くわすと。

夏休み切り上げにはもうひとつの理由もあります。もしかしたらこちらの方がさらに直接の理由かもしれません。それは、「夏休み、することがなくてタイクツ!」ということです。

家庭のある人は旅行へ行ったり、サマーハウスに滞在したりと、いろいろ計画もありましょうが、ワタシのように、婚姻解消者(バツイチよりも響きがいい)で、子供たちはそれぞれに独立して生活していますと、「咳をしてもひとり」というか「何をするにもひとり」になってしまうのです。

お茶ひとつにしても、声をかけられる邦人の人たちも帰省中だったり、前回登場したシノブママもクロアチア旅行へ行っちゃってたりして、相手がなく、要するに皆それぞれの夏休み中の事実に負けているのでした。

そんな侘しい四、五日の夏休み中にしたことのひとつが読書。マイケル・コナリーのLAPDハリーボッシュ刑事もの最新作「燃える部屋」をEbookで一気に読破。続いて、その前々作と前作のふたつの作品を読み返しました。




TV化もされているハリーボッシュ刑事シリーズ でもこの俳優さんはイメージと違う
Myndin er ur Realsounds.com


このハリーボッシュには、どうしても自己投影してしまう部分が相当あります、特に五十を過ぎてから。要するに「なりきり」で読んでしまうということにほかなりません。(^-^; これが大のお気に入りのシリーズであることは、前にも書いたことがあります。

Connelly World & Harry Bosch


このボッシュ刑事も、娘に関することと、Jazzが好きなこと以外は仕事が生きがいというタイプ。それゆえの喜びと哀しさがストーリーに織り込まれているわけです。

(*ハリーボッシュシリーズに関しては、ハンドル名Heartbeatさんという方が、ファンサイトを通り越した「研究サイト」を作っておられます。関心のある方はぜひお訪ねください。Hearbeatさん、ありがとうございます。大変参考になります。
ハリー・ボッシュをもっと知りたい! )

ボッシュの考えの基本にあることのひとつが「過去の殺人事件犠牲者の声を聞く」こと。ボッシュ刑事、(シリーズ終盤は)LAPDの未解決事件班に所属しているので、過去の犠牲者の「声なき声を聞く」ことを信条のひとつにしています。

これを「なりきり」牧師のワタシは、同じように難民の人たちのような、色々な意味で「声を持たない人たち」の声を聞く、ということに重ね合わせて受け取ってしまいます。「そうだ、Voiceless voices を聞くのはいつなの?今でしょ」 

という、バカバカしいほど単純にスイッチが入ってしまったワタシは、夏休みを切り上げて、仕事を続けることにしたのでした。私の中の牧師の部分は、きちんと聖書を人生の書として範に挙げ、糧としていますが、私の中のワタシの部分は、ハリーボッシュ刑事ものも我が人生の書として傾聴しているのでした。

とにかく、ハリーボッシュはリゾートホテルのプールサイドで、ブルーハワイをストローで吸うようなことはしないのだ。ハリーボッシュは皆が帰宅した後のLAPDのデカ部屋で、マグコーヒーを片手に調書を再査読するのだ。

そんなこんなで私のこの夏は過ぎて行くようです。平和ではありますが、多少哀しいものもあるような。でもその哀しさはまぎらわされるようです - ヒグラシが鳴かないから、ここでは。

まだまだ暑いニッポン。熱中症に気をつけて今週もお過ごしください!!


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