レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

アイスランドへの適応の鍵とは?(1)

2014-03-31 05:00:00 | 日記
先週の木曜日Isbru(氷の橋)というグループの集まりに招待され参加してきました。この会はアイスランド語教師の人たちが作っている任意団体で、特に移民にどのようにアイスランドを教えるか、移民との文化交流を促進するか、という点に強調点を置いて活動しています。

これまでも何度も書いてきましたが、人口三十二万人強のアイスランドでは、アイスランド語という言語は非常に特殊な位置を占めています。アイスランド語はアイスランド文化の象徴であるばかりではなく、実際に国民を束ねる絆でもあります。

「アイスランド語を失ってしまったら、我々をアイスランド人として証明するものが何も無くなってしまう」という不安を抱え込んでいる国民は少なくありません。そこで1944年の独立以来「アイスランドではアイスランド語を使う」という考えを根本にして多くの政策や教育方針が立てられてきました。

そのうちのひとつが「純粋言語政策」で、これは国営放送のテレビやラジオは「正しい奇麗なアイスランド語でなされねばならない」ということを謳ったものです。この辺りからブロークン・アイスランディックに対する非寛容が培われてきたと言って良いでしょう。

さて、そういう背景というか土壌の中で、二十年間前くらいから移民が増加し始めてきました。1995年あたりの外国籍者は7.000人強でしたが、昨年には25.000人を越えています。強いていえば90年代はアジアからの移民が多く、2000年代は中東欧からといえるでしょうが、実際には広く世界中から集まってきています。

移民とアイスランド人の間での際立った違いは何かというと、法的な権利や土地に馴染んでいるのかなどという点も挙げられますが、それよりももっとくっきりはっきりしていることはアイスランド語ができるかどうかです。

というわけで、移民とアイスランド語についての議論はここ二十年来絶えることがなかったといっていいでしょう。

ごく少数の例外を除けば、移民の人たちはアイスランドに来てからアイスランド語に接します。またこれも少数の例外を除けば、移民は移ってきてからすみやかに就労するか、少なくともしたいはずです。生活しなければなりませんから。

つまり大雑把にいって新しい土地で仕事に就きながら新しい言葉を勉強し始める、というのが平均的なケースということができるでしょう。決して100%勉学に専念できるような状況でアイスランド語の学習が始まるわけではないことが多いわけです。

ところがそういう現実にも関わらず、上述した理由からアイスランド人の移民に対する「アイスランド語の習得」に関する要求は変ることはありません。そのためにいろいろな軋轢が生じたりしたのですが、それは何度か書いたこともありますしここでは触れません。

ただ、それらの一連の過程の中でも「移民のアイスランド社会への適応の可否はアイスランド語の習得にかかっている」という考えは、ほとんど不変の鉄則のように掲げられてきていました。

ところが昨今新しい現象が移民のうちに現れてきました。それは「アイスランド語なんて勉強しなーい」というものです。そういう態度を取る移民は以前からそこここに散見されたものですが、今現在問題になってきているのは、主にポーランドからの移民です。

ポーランドからの移民はポーランドがEUに加盟したのを機会に2005年前後から急増してきました。昨年末の時点でポーランド移民の数は9.000人以上で移民全体の中で36%を占めています。

そしてそのくらいの数になりますと、自身のコミュニティの中に引きこもって生活することが可能になります。日常生活はポーランド人の中で行い、困ったことがあればアイスランド語のできる仲間が助けてくれる。

加えて銀行を始め多くの民間企業はサービスとしてポーランド語でのホームページを提供したりします。ポーランドコミュニティではアイスランドのニュースをポーランド語に訳してウェッブに載せたりする。

こうなってくると、確かにアイスランド語が分からなくてもなんとかそれなりの生活はできてしまうわけです。

「アイスランド語のコースがいくつあっても関係ない。ポーランド人の多くはアイスランド語を学ぶ気なんてないから」という暴露話しをするのは同じポーラン人なのです。

どれくらいの割合のポーランド移民がそう言っているのかは分かりません。ごく一部である可能性もありますし、相当数であることもあり得るでしょう。

もちろんそれ以外にも英語でなんとか切り抜けていくタイプの移民は結構いたのですが、ポーランド移民の場合は数が多いのと組織だっているので他とは異なったインパクトがあるわけです。「アイスランド語の習得は移民の社会への適応の鍵」としてきた伝統的テーゼに対して、ある意味公然と反旗を翻し一団が現れた、と考えられないこともないわけですから。

私自身、この問題はきちんと時間をかけて振り返らなければ行けないも題だなあ、と認識しています。

続きは次回です。


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アイスランド語暮らしの実態

2014-03-27 05:00:00 | 日記
前回「移民にとってのアイスランド語の学習とインテグレイションの現実」について書き始めたのですが、あまり進展しなかったのでもう一度です。今回はもうちょっと「アイスランド語で暮らす生活」の個人的実態をご紹介してみたいと思います。

まず当たり前のことですが、言葉の習得の難易さや修得度というものは個々人によって相当な差があります。能力にも差があるでしょうし、言葉を学習する環境にも影響されます。日中働いている人と大学への留学生では、当然ある期間内でのアイスランド語の修得度には違いが出るでしょう。

ですから特定の誰かの個人体験をもとにしてそれをそのまま一般化することには無理があります。というわけで以下にお伝えしますことはワタシ限定の生活事情です。他の人にも共通する点もあるかもしれませんし、全く違う点も多いことでしょう。

さて前に書いたことの繰り返しになってしまいますが、たとえ二十年以上住んでいても私はアイスランド語ペラペラではありません。読み書きはまあまあですが、会話に関しては進歩がないですねえ。特にしゃべる、というのはもう限界です。

また、聞いて理解する、というのはしゃべるのと違い「分かった振りをする」ということができる分だけどれだけ自分に能力があるのか曖昧になります。自分の「振り」に自分で気づかないことだってありますから。

私の場合、例えばあるテーマ(人権とか)についてのレクチャーを聞いて理解することはそれほど苦にはなりません。テーマが分かっているので、分からない部分を脈絡で判断することができるからです。

難しいのは例えばコーヒーブレイクでの雑談などです。話題がコロコロ変わり得るので追いついていくのが大変なのです。しかもあるトピックについて前提となる知識を持っている人いない人のバラツキがありますので、そもそも話しのとっつきから理解できない、ということさえあります。

そうなってくると、もうアイスランド語の会話はBGMの一部みたいなもので、聞いてはいても頭には入ってきません。それでも不思議なもので自分に関係のある話しになると途端にハッキリと聞こえてきます。

アイスランド語での生活環境の中で、人間の能力とは大したものだと思わされることがあります。多分これは私だけではないでしょう。それは大切なことが話されている状況と、どちらでもいいことが話されている状況とを区別する本能が磨かれてくることです。

私は一生懸命理解しようとして聞かないと分からないことが多いので、アイスランド語を聞くということがかなり疲れる作業になります。ですから、この「仕分け本能」がないと午前中でダウンしてしまうことでしょう。どうでもいいとこは流して重要なとこに集中する、というプログラムが無意識のうちに作動しています。

「しゃべる」ことに戻りますが、もうかなり前からアイスランド語で冗談を言おうというのはギブアップしています。面白い合いの手が下って来ても、どう言えばいいか考えているうちにタイミングを逸してしまいます。というわけでワタシはアイスランド人との付き合いの中では「笑いのない男」化してしまいました。

「可哀想に」と思うでしょ?そうなんです。可哀想なんです。それでも天は救いを授けてくれます。トークに弱いワタシにとっての救世主はネットの発達でした。

電話という会話主体の媒体のみ主流から、メイルという読み書き主体の媒体の併用は本当にありがたい変化でした。電話では聞き逃してしまえばそれっきりですが、メイルは何度でも読み返せるし、いざとなれば他人の助力も当てにできます。

さらにFacebookなどのネット媒体。普段言いそびれているジョークもFacebookでならきちんと考えたうえで発信できます。書いている最中に文法が不確かならチェックできますし、しゃべるのと違ってゆとりがあります。

賛否いろいろあるでしょうが、Facebookは私にとっては相当重要な自己実現の場になっていると感じます。もともと「書く」ことは得意な方なので要領良く四五行にメッセージをまとめる、ということも苦にはなりません。

もっともひとつだけ副作用があります。書くことに限ってなら結構上手にアイスランド語を使いますので、Facebookなどを見た人が私のことをアイスランド語ペラペラ人間なのだろう、と思い込んで接触してくることがあることです。

これは困りますね。なんかせっかくの期待を裏切っているような気がして...そうじゃないんだよ。言葉っていろいろな側面があるから、書けてもしゃべれないことだってあるし、ある分野は強くても、苦手の分野があったりするんだってば。魚の名前を知らなくても人生談義はできちゃったりするんだから...

というようなケイオスの中で生きているのがワタシのアイスランド語生活でした。でもきっと邦人の方々皆がワタシのようではないと期待します。...日本人の名誉のために。


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ジェラード保安官がアイスランド語をしゃべったら

2014-03-24 05:00:00 | 日記
今週の木曜日に、移民の人たちにアイスランド語を教えている先生方が作っている「イースブルー」(氷の橋)という会の集まりで「移民にとってのアイスランド語の学習とインテグレイションの現実」みたいな題で話しをすることになっています。

私は学者でも先生でもないので学術専門家的な角度からの考察はできないのですが、移民牧師としていろいろな人たちの話しを聞いてきましたので、「現実専門家」的な角度からの話しはできます。実際これまでに相当そのような話しをしたり、意見を新聞等に書いてきました。

で、今回久しぶりにそのようなテーマで話すよう依頼されたのですが、同じことを繰り返し話すのでは申し訳ないと思い、昔書いたものを読み直してみたりしました。「あれ、これホントに俺が書いたの?すごいじゃん」とか思ってしまうこともあります。

そういうものを読み直してみると、その文章のもとにある自分自身の体験とかも必然的に思い出されてきます。確かにもうこちらにきてからマル二十二年になろうとしていますが(四月二日が二十二年記念日です)、ワタシの感覚ではそんなに長い期間という意識がないので(三十歳過ぎるとそんなものです)、忘れてる部分があるというのは意外な感じがしました。

こちらに移ってからの始めの数年間はもちろん相当タフな日々でした。子供たちが幼少だったこともあり、言葉の勉強の時間とかをひねり出すのに四苦八苦してました。当然娯楽の時間とかもほとんどなかったのですが、それでもハリソン・フォードの「逃亡者」はレンタルビデオで年中借りてきて見ていました。

今では「昔の映画」なんでしょうが1992年の大ヒット作です。無実の罪のハリソン・フォードが必死に逃げ回りながら真犯人を追いつめていく話しで(実話がもと)、絶対に諦めない、というのが随分と元気メッセージになりました。

その「逃亡者」では、フォード演じるキンブル医師を追いつめていくUSマーシャルの保安官役のトミー・リー・ジョーンズが、アカデミー賞の助演男優賞を取りました。相当なキャラクターでしたね、このジェラード保安官は。本当にタフな男はこういうもんだ、みたいなキャラでした。

「(地域の)犬小屋から鶏小屋までひっくり返して捜せ」とか「(もしキンブルが溺死しているなら)その死体を食った魚を捕らえろ」とか強気の名ゼリフでキメてくるので、格好よさが「言葉」と結びついていました。




ジェラード保安官役のT・L・ジョーンズ


以前にも書いたことがありますが、ワタシは映画やテレビでヒーローを見るとすぐに同化する人間です。ヒーローとはもちろんジェームズ・ボンドやクァイ・ゴン・ジンです。ヨーダや杉下右京はちょっと違う。

ですからジェラード保安官のように強気でしゃべってみたかったのですが、その頃はアイスランド語の「ゴーザン・ダイイン」を習い始めたばかりの頃で、まったく幼稚園の年長さんにも及ばないくらいでした。

どんなに格好つけようとしても、言葉がとちったりしどろもどろになるとすべてコメディ化してしまうというのは恐ろしい現実です。外国人相手に言葉で優位に立つのはいとも容易いことですが、そんなのはまやかしの優越であることを忘れてはなりません。

自分の願いと現実があれほどクロシロ分かれたのも珍しい時期だったと思いました。もっともジェラード保安官がアイスランド語をしゃべらねばならなかったら、ワタシとそんなに大差はなかったと思いますが。いや、彼ならそもそも世界中どこへ行っても英語(米語)で押し通すか?

とにかく「アイスランド語を普通にしゃべりたい」というのがその頃の「夢」だったのははっきりと覚えています。ちゃんとしゃべれるということは決して当たり前のことではありませんね。

二十年経ちましたが夢にはそれほど近づいてはいないですねえ...アイスランド語をぺらぺらになるというのはもうほとんど諦めています。つっかえつっかえでやりくりをするのはもう「受け入れて同伴しなければならないパートナー」と認識するようになりました。

まあ、もし神様が「みっつの願いを言ってみよ。かなえてやるぞ」と情けをかけてくれるなら、そうですねえ...そのうちのひとつは「アイスランド語でタンカを切ること」が入るかもしれません。あとは宝くじと素敵な出会いかな...へへ)

インテグレションからは話しが大きくズレてしまった、というか本題に入る前で終わってしまいましたが、それでも要は「理想、目標を持つということ」はインテグレイションの過程の大切な要因です。そしてその目標を「達成可能なものに修正していく」ということも大切です。高望みの結果が挫折、では元も子もないですから。

それはつまり新しい環境の中で、もう一度本当の自分自身のあり方を見出し、さらにそれを実現していくことに他ならないのです。


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「笑い」という栄養

2014-03-20 05:00:00 | 日記
もうかれこれ十五年以上も前のことになりますが、レイキャビクにあった「ミズストーズ ・ニーブア」というマルチカルチュラルセンターで、移民の何かの集まりがありました。食事が出たように記憶していますので、何かの楽しい機会だったものと思います、その部分ははっきりと覚えてないのですが。

私のテーブルには若くて美女の智子さんという方と(そういう点は良く覚えています)、ジェフというカナダ人のオジさんと、あと誰だったかアメリカ人が二人くらいいたと記憶しています。

食事の席で「世界でのユーモアの違い」みたいな話題になり、「これはどうだ?」とジェフが自前のジョークを披露してくれました。

ある男性をお医者さんが診察して「あと十....」と言って黙り込んでしまいました。男性はびっくりして尋ねました。「十って、十年ですか?」お医者さんは無言。「十ヶ月ですか?」無言。「十週間?」無言。「十時間?」... するとお医者さんがおもむろに「テーン...」

席にいたアメリカ人の人たち爆笑。私と智子さん、顔を見合わせて「...???」

落ちは男性の余命は「あと十秒だった」ということらしいのですが、正直言って何がおかしいのか分かりませんでした。

似たようなことって良くありませんか?例えばアメリカのギャグ映画を見ても少しもおかしくない、という経験をしたことはありませんか?私の場合はもっと極端に、アメリカのギャグ映画をみて面白かった経験など全くないと言っていいくらいです。

確かに世界のいろいろな文化の中で、ユーモアとか笑いのセンスというのは結構違うものがあるような気がします。もっとも全部すれ違ってしまうわけではないようです。映画はつまらなくとも、例えばジェイ・レノのショーなんかを見ていると結構笑えたりしましたね。ドタバタ的な笑いが特に合わないということなのかもしれません。

アイスランド人の笑いのセンスというものも、アメリカとはまた全く違います。アイスランドでは毎年大みそかに恒例の「一年間の時事風刺ギャグ」の番組があって、こちらの「紅白」的位置を占めているのですが、正直言ってこの番組も大して面白いと思ったことがありません。この番組もどちらかというとドタバタ系の笑いに属しますね。

アイスランドでもユーモアというかウィットみたいなのは日本と共通するものがあると思います。やっぱり違いが際立つのは「ほくそ笑む」ようなユーモアではなく「爆笑する」ような笑いだということだと思われます。

というわけで、こちらでの日常生活の中でワタシがどうしてもこちらではまかないきれず、外部(日本)から摂取しなければならない心の栄養がユーモアと笑い、それも特に「バカ笑い」の類いです。

で、ワタシはネットで日本のお笑い番組を見まくっているわけです。まあ「見まくる」というのは大袈裟でしょうが、かなり気にいって定期的に見ているものはあります。

「マツコ有吉の怒り新党」「ロンハー」「アメトーク」などからバラエティ系の「秘密のケンミンSHOW」や「世界行ってみたらホントは...」あるいは「正直さんぽ」「モヤさま」などのような食系、旅系で笑いが多いものが好みです。

毎晩寝る前の二時間ほどをそのような「お笑い」で過ごすのが日課のようになることもあります。(「相棒」や「捜査一課9係」が取って替わることもあります) 「時間の無駄じゃないの?」という心の声が聞こえてくることもありますが、心の別の声は「無駄じゃない、無駄じゃない。笑いは必要」と弁護します。

冷静に公平に考えてみても、やはり笑いは必要なものだと思います。考えてから笑うようなものではなく、本能的な爆発的な笑いです。これを得るにはやはり日本のお笑いを見るしかありません。

これはもう説明不可能ですね、なぜそれが可笑しいのか、笑ってしまうのか。全て繋がっているんですよね、言葉、表情、状況、期待を裏切る思いがけなさ...等々。やっぱり文化と切っても切れないものがあるのでしょう。

笑いというものが健康に与える良い影響についてはよく言われていることと思います。気をつけて聴いたことはないのですが。それでも笑いがもたらす効果は経験的に確信することはできます。

ワタシ、職場では寡黙なツマラナイ男と見られていると思うのですが、その「寡黙なニホンジン」が自宅でネットを見ながらバカ笑いをしているところを見られたら...マズイかもですねー...

いやマズくはないか。そちらが本物ですね。人間には笑いが必要だ! 笑いは人を自由にする! のだ。


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アイスランド的三寒四温

2014-03-17 05:00:00 | 日記
三月の半ばを迎えています。日本では卒業とか別れと巣立ちの時期ですよね。この時期はこちらでは「パウスカー」Paskarというキリスト教の復活祭の時期に重なっています。このパウスカーには前後に祝日が付いて回るのと、陰暦によるため毎年日が変わることもあり、どうしてもそちらに気を取られます。

もちろんこちらの新年度が四月ではなく九月なこともありますが、日本にいた頃のようにはこの三月四月という時期には反応しなくなってしまいました。Facebookで日本の知人の皆さんが卒園式や卒業式のことをアップしてくれているので、「ああ、そうだっけ」とかろうじて乗り遅れずに済んでいます。

さて三月は日本の平均的な感覚でいうと、冬から春への移行期ですよね。もちろん北海道などではまだ冬の部分の方が多いでしょうし、地域差はあるでしょうが、差はあっても「三寒四温」と言われるように寒い日、暖かい日が交互に織りなしながらながら春を呼んでいくことには変わりないのでしょう。

アイスランドでもその点は同じだと言っていいと思います。日本の「三寒四温」のような風情には欠けています。寒い日暖かい日がグルグルと組んず解れつで初夏に向かって転がっていく中で、「春かな?」と感じさせる時が現れては消えていく、というようなのがアイスランドのこの時期ではないか、と考えます。

冬日春日が「グルグルと組んず解れつで転がっていく」というのは雑な表現だと思われるでしょうが、実際にこちらでの三月から四月にかけてはかなり差のある日々が交互にやって来たりします。

この三月初め頃には落ち着いた日が続き「もうスパイクタイヤ変えても いいんじゃないか?」ということまで考えていました。それが先々週からまた冷え込んでかなり雪が降りあちこちで溶けない雪が残る、というような状況に戻りました。

が、それもしつこくは続かず(今のところは)、また穏やかな日が来てくれました。「春がもうそこまで」ということを言う人もかなりいるようですし、春が近づいていることを示す写真などもFacebookでは散見されます。

まあそう容易くはいかないでしょうが。こちらでは「復活祭には必ず雪が降る」という言い伝えがあります。実際当たることが多いです。今年のパウスカーは四月の二十日ですので、その頃また雪が降るのではないでしょうか?

にもかかわらず、アイスランドでも三寒四温は進行しています。ただ正直言ってちょっと「三寒四温」とは違うものに注目したいです。三寒四温はもちろん寒いか暖かいかという気温がベースですが、アイスランドで冬春夏のはっきりした違いを作るものは気温ではありません。

それは「明るさ」「太陽」です。

ほぼ一日中暗い冬から、ほぼ一日中明るい夏へと向かう時期にあって、三月ははっきりと「冬が去って夏が来る」ことを知らせてくれる時期なのです。そしてそれは気温ではなく日の長さです。クルクル変り得る気温と違い、この日の長さは毎日確実に伸びていく確かなものです。

晴れだの雪だの嵐だの、という変化の中で実はこちらに住んでいる人でも見落してしまうこともあるのですが、毎日確実に明るくなっています。例えばこの日曜日の日の出は7時42分でまあまあ月並みですが、日の入りは19時20分でした。実は毎日三分間ずつ、日の出は早くなり日の入りは遅くなっていっています。都合毎日六分間昼が長くなっているわけです。

そして日の入り後もすぐには暗くなりませんので、八時過ぎまでは明るくなっています。これは日本とは違うでしょう?この時期としては。




Facebook友達の写真の達人、Jon Bjarni Jonssonさんの
「春、見つけた!」ショット


もちろんこれと平行して、木の枝に新芽が顔を出したり、地面から花の蕾が顔を出したりもし始めます。新しい生命のサイクルは気温にとても影響されるのでしょうが、日光の有無も関係しているに違いありません。

夕方過ぎても明るくなってくると、ワタシも嬉しくてたまりません。なんにせよ外出する「気」になります。暗いと外へ出るのがおっくうになってきます。明るいと外へ行きたくなります。さらに言えば車の運転の容易さが格段に違います!

というわけでアイスランド的叡智です。「夏は明るい。冬は暗い。寒い、暖かいは毎日その度に尋ねよ」


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